第3話 はじめての命令
白樺の並木に挟まれたゆるい坂道を抜けた先に俺の通う高校はある。生徒たちはまるでヌーの大移動かなにかのように群れをなして登校している。
その群れの中を、俺はひとり黙々と歩いていた。
ほとんどの生徒は少なくともふたり、多くなると五人、六人の友人とともに登校している。仲睦まじいカップルらしき男女もちらほらと見える。
おかげさまで毎朝ライフがごりごり削られる。校舎が見えるころには早く学校終わらないかななんて考えが頭をよぎる。まだ始まってもいないのに。
このようにして俺は毎日ひとりで登校している。
……いや、少し見栄を張った。下校時もひとりだ。
ふと視線を感じ、目をあげた。
電柱の陰から誰かが顔を半分だけ出し、じっとこちらを窺っている。
犬飼さんだった。
「お、おはよ、桝谷」
陰から出てきた彼女は、後ろで手を組み、なにか期待するような眼差しをちらちらと向けてくる。
「なに?」
「ううん、べつに。――それより、昨日は無事に帰れた?」
「うん。まあ、母親には怪しまれたけど、『局所的な夕立に降られた』って言い訳して乗りきった」
「そっか、よかった」
と、そわそわ身体を揺らす。
――……あ、そうか。
「誰かを待ってた?」
「え? まあ、そうなるかな……」
友だちと待ちあわせをしていたのだろう。であれば、俺がここにいては邪魔になってしまう。
「じゃあ、また」
俺は小さく手をあげて彼女の前を通りすぎた。
距離を充分とってから小さなため息をついた。べつにひとりが寂しいというわけではないのに、知りあいが俺の知らない誰かと仲よくしているところを見せられると孤独を感じてしまう。
――俺、小せえな……。
もう一度、今度は特大のため息をつき、俺はゆるい坂道をえっちらおっちらと歩いた。
昼休み。人気のない静かな場所で昼食をとろうと、購買のサンドイッチを持ってさまよっていたところ、柱の陰から犬飼さんがこちらを窺っているのが見えた。
陰から出てきた彼女の手には巾着袋がぶら下がっている。
「桝谷も昼?」
と、その巾着袋をこれ見よがしに揺らした。
「犬飼さん」
彼女はぱっと顔を明るくした。
「な、なに?」
「そんなに揺らしたら混ざるぞ?」
「……はい?」
「弁当。汁がご飯に染みる」
「ああ、うん」
「……」
「……」
「は? それだけ?」
「? そうだけど」
犬飼さんは愕然としたような顔をした。
――なにその表情。
弁当箱を水平に保つのがそんなに意外だろうか。俺など弁当の日は、朝、家を出た瞬間から学校までずっと能のような歩き方で登校するほどだ。
ともかく――。
「じゃあ」
犬飼さんはこれから友だちと昼食をとるのだろうし、俺がここにいては邪魔になる。
「あっ……」
退散しようとしたところ、犬飼さんが短い声をあげた。
「なに?」
うつむいて黙ってしまった。なんだかちょっとむすっとしているようにも見える。
「え、ええと……。俺、なんかした?」
「いや、まったく、なにも」
――……?
なにもしていないならなんで怒っているのだろう。
「そ、そう。じゃあ」
機嫌が悪いひとからは逃げるにかぎる。俺は足早にその場をあとにした。
放課後になり、帰宅しようと玄関を出ると、犬飼さんが校門の陰からこちらを覗いていた。
――デジャブ……。
「桝谷、いま帰り?」
「うん」
彼女も一緒に帰る友だちを待っていたのだろう。邪魔しちゃ悪いな。
「じゃあ」
と、校門を出ようとしたところ――。
「どういうこと!」
犬飼さんがとうとつに叫んだ。
「え、え?」
足を止めて振りかえる。彼女は拳を握り、ぷるぷると震えていた。
「な、なにが……?」
「どんな奉仕でもするって言ったのに、どうしてなにも命令してくれないの!」
「おっきい声でなに口走ってんの!?」
周囲の生徒たちが不審げな顔でこちらを見ている。
「あれな、罰ゲーム的なやつの話な!」
周りに聞こえるようにわざと大きな声で言った。
犬飼さんは眉間にしわを寄せる。
「罰ゲーム? なに言ってんの? わたしは桝谷の奴隷――」
「あ~はいはいはいはい! 分かった分かったって。命令ね。します。しますって」
「なら、いいけど」
不機嫌そうだった犬飼さんの表情が、なにかを期待するような笑みに変わる。
「それで、どんな命令?」
「そうだな、じゃあ――」
俺はしばし考えたあと、言った。
「今日から明日にかけて低気圧になるみたいだから、早く寝てしっかり体調を整えろ」
「あ、ありがとう……」
と、はにかんで礼を言ったが、はっと息を飲んで表情を険しくした。
「違う!」
「ちゃんと命令しただろ」
「そういうのではなく!」
「どういうのだよ」
「もっと、こう……、利己的なやつ」
「分かった」
俺はせき払いした。
「あんまりうるさいこと言うな」
「終わっちゃうじゃん!」
「違ったか」
「違う。もっと、桝谷の欲望をわたしにぶつけて」
「欲望……?」
「そう。あるでしょ、心の底から湧きでる、抗いがたい欲求が……!」
俺は自分の欲求を探り、率直に言葉にした。
「早く帰って寝させろ」
「睡眠欲!?」
「昨日の夜さ、YouTubeを観てて、気づいたら三時だったんだよ」
「知らないけど。ちなみになにを観たの」
「失敗しない賃貸住宅の借り方」
「なんの心配してんの!?」
「いずれ社会人になるだろ」
「なるけど、まだ先じゃん……。――未来の住処より目の前の命令!」
「って言われてもなあ」
腕を組んで考える。
「わたしにしてほしいこと、なにもないの?」
「してほしいこと……」
犬飼さんとよく分からないやりとりをしているあいだにも、俺たちの横を生徒たちが通りすぎていく。彼らはやはり数人で連れだって、わいわいと楽しそうに駄弁りながら下校している。
俺はその様子を見て、ひとつ命令を思いついてしまった。
「あ~……」
こんなつまらないことを命令するのはなんだか恥ずかしい。それに――。
犬飼さんが目をきらりと輝かせた。
「なにか思いついた?」
「ついたはついたんだけど……」
「じゃあ、ためらわずに、ほら」
「その……、犬飼さんが嫌がらないかな、と」
「嫌じゃない!」
「まだなにも言ってもないのに」
「桝谷が、わたしが本気で嫌がるようなことするわけないでしょ」
まっすぐな視線に真剣さが伝わってくる。
信頼されることは嬉しい。しかし犬飼さんはどうしてそこまで俺のことを信頼してくれるのだろう。
「どんなことでもするから」
『どんなことでも』。俺はその言葉を聞き逃さなかった。
「……本当に?」
「え?」
「本当にどんなことでもするんだな?」
「え、ええと」
「どんなに恥ずかしいことでも」
「あの」
犬飼さんはためらいがちに頷いた。
「桝谷が望むなら……」
「そうか。じゃあ命令する。……覚悟はいいか?」
「っ。は、はい……」
彼女は身体を縮こまらせる。
「俺と」
「桝谷と……?」
「と」
「と?」
「登校しろ。……してくれ」
「………………登校?」
「げ、下校もだぞ!」
「………………下校」
犬飼さんはぽかんとした。
「どういうこと?」
「なにが」
「だってさっき、『恥ずかしいこと』って」
「は、恥ずかしいだろ! 一緒に登校だぞ!? 男女で!」
「箱入り娘なの?」
「う、うるさいな! それよりどうなんだ、するのかしないのか!」
「するよ。だって桝谷の命令は絶対だもん。ほんと、仕方ないなあ」
「仕方ないなら無理しなくてもいいぞ?」
「仕方なくはないけど!」
犬飼さんは慌てて否定した。
「どっちなんだ」
「ど、どっちでもいいじゃん。命令は聞くんだし」
「どっちでもいいことないだろ。犬飼さんの気持ちも大事だ」
犬飼さんはほんのり頬を染めてもじもじした。
「急にそんなこと言うし……。桝谷、ほんとそういうとこあるよね」
――どういうとこ?
発言する前に挙手をしろということだろうか。
「それより、ほんとに嫌じゃないから。わたし、桝谷と話すのけっこう好きだし」
「そ、そう」
「あ、もしかして照れた?」
「て、照れてない」
「ま、そういうことにしといてあげる。――じゃ、帰ろ?」
ふたり並んで校門を出た。
犬飼さんをちらっと見る。笑顔だ。本当に嫌がってはいないようだ。俺はちょっとほっとした。
交差点で信号待ちをしていたとき、彼女は言った。
「わたし、考えを改めた」
「考え?」
「桝谷は、なんというか……、奥ゆかしすぎる」
「はじめて言われたわ」
「だからさ、これからは勝手に奉仕するから」
決意に満ちた表情で言う。
「見ててね、わたしの忖度力」
――なにその単語……。
控えめなのか押しが強いのか。
犬飼さんがどんな奉仕を仕掛けてくるのか。そもそも『弱み』とはなんなのか。期待、不安、気がかりがごちゃ混ぜだ。
俺は精一杯の笑顔を形作った。
「よ、よろしく」
「なにその喉が渇いたアルパカみたいな顔」
「どんなだよ……」
ともかく、今日からは登下校のときによく分からない孤独を感じる必要はなくなったのだから、それでよしとしよう。