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第2話 飛びこんでみた

 図書室でオカルト関連の書籍を当たっていると、あっという間に十七時になっていた。たいしたことは調べられなかったが、やはり清めの塩は有効であるというのが、どの書籍でも共通していた。


 俺は調理実習室に忍びこみ、食卓塩を拝借してプールへ向かった。幽霊など信じてはいない。いないのだが、備えあれば憂いなしだ。


 校舎を出て、体育館と部室棟のあいだを抜けると、プールが見えてきた。


 ――……ん?


 逆光でよく見えないが、なにかが動いたようだ。俺は手で(ひさし)を作って目を細める。


 金網の向こうを人影が歩いている。長い髪、短いスカート。女生徒のようだ。


 ――犬飼さんか? それとも……。


 その人影がプールサイドを移動して、そして飛び込み台の上に立った。


 ――え?


 おかしい。なぜ制服のまま飛び込み台に上がるんだ。幽霊が自殺したときの状況を再現しようとしているのか。あるいは――。


 犬飼さんが、幽霊に誘われ、引きずりこまれようとしているのか。


 ――いや、まさか。


 そう思いこもうとしたとき、人影が宙に身を躍らせた。


 ざぶん、と水しぶきがあがる。


 そして、静寂。


 鳩尾のあたりがきゅうっと痛むような戦慄が込みあげてくる。


「い、いやいやいやいや……!」


 俺は駆けだした。なにか起こっているのかは分からないが、とにかく見過ごすことはできない。


 コンクリートの階段を駆けあがり、開きっぱなしの金網扉を走り抜ける。


 プールサイドにはスクールバッグと靴がきれいに並べられていた。


「っ!」


 スクールバッグには、色とりどりの花が閉じこめられた小瓶――ハーバリウムのキーホルダーがぶら下がっている。


 ――犬飼さんの……!


 水面を見る。なにも浮かんではいない。しかしぷくぷくと泡の立っている箇所がある。


 考えている暇はない。俺はバッグを放りだし、靴を脱ぎ捨て、プールに飛びこんだ。


 腕で水をかいて歩みを進めるが――。


 ――(おも)っ!


 シャツやスラックスのせいで水の抵抗が大きくなり、思うように進まない。歩くことはすぐにあきらめ、身体を浮かせて水をかく。ややましになったものの、やはりスピードはあまり出ず、気持ちばかりが焦る。


 ようやく泡の立つ場所にたどり着き、底に見える陰に手を伸ばす。


 その瞬間。


 水面が盛りあがったかと思うと、それを突き破るように人影が現れた。


「うおわあっ!!」


 それは髪の長い女生徒だった。


 ――まさか、誘われたのは、俺……?


 恐怖と驚愕に身を硬直させていると――。


「あっはははは!」


 女生徒が笑った。顔に張りついた髪をかきあげる。


「驚いた?」


 その顔も声も、犬飼さんのものだった。


「……」


 なにが起こったか分からず、なにも言えないでいる俺を見て、犬飼さんはまた笑った。


「ごめんごめん。そんなにびっくりするとは思わなくてさ」

「それはいいんだけど……」

「溺れてると思って、助けにきてくれたの?」

「あ、ああ」


 犬飼さんは急に俺の首に腕を回し、抱きついてきた。


「え、ええ!? ちょ」

「ありがと。嬉しいよ」


 冷たい水のなかにいるせいで、犬飼さんの体温が妙に温かく感じる。


「やっぱり桝谷は――」

「え?」


 くすっ、と笑った吐息が俺の耳にかかり、背筋がぞくっとした。


「なんでもない」

「そ、そう……」


 なにを言いかけたのか気になりはしたが、そちらに脳のリソースを割く余裕はなかった。


 なぜなら――。


 ――柔らかい……!


 俺の胸に彼女の胸が押しつけられている。ぴったりと密着しているから鼓動まで感じとることができる。


 彼女の鼓動はずいぶんと早い気がした。さっきまで息を止めていたからだろうか。しかし俺の鼓動が早いのは運動のせいだけではない。


「ちょ、ちょっといったん離れようか!」


 俺は犬飼さんの細い肩をつかんで引き剥がした。身体は離れたが、彼女の手は俺の首に回ったままだ。


「どうしたの、慌てて」

「い、いや。とにかく、水から上がろう」

「このまま抱っこして運んでくれる?」

「それはちょっと」

「じゃあ、おんぶ」

「それもちょっと……!」

「ふふっ、冗談」


 犬飼さんの手がようやく俺の首から離れた。俺はほっと息をつく。


 ざぶざぶと水をかき分けて移動し、はしごをあがる。犬飼さんに手を貸したほうがいいかと思い振り向いたとき、身体にぴったりとシャツの張りついた彼女の姿が目に飛びこんできて、俺は慌てて顔をそむけた。


 ――薄いグリーンでした……!


「どうしたの? ――あ」


 犬飼さんが察したような声をあげた。


「透けちゃってるね」

「う、うん」

「お礼に見てもいいよ。――わたしのじゃありがたみがないかもだけど」

「あるよ!」


 思いのほか大きい声が出て、俺ははっとした。


「ご、ごめん」

「ううん」

「とにかくお礼はいらないから」

「そっか」


 犬飼さんもはしごを上がり、プールサイドに座った。すると今度は背中にブラジャーのベルトやホックが透けて見えるので、視界に入らないよう俺は彼女の隣に座った。


「それより、いったいどういう状況?」

「『どういう』って?」

「溺れてたわけではないのか?」

「違うよ。潜ってたの」

「自分の意志で?」

「そう。今日で四回目かな」

「そんなに?」

「なんかむしゃくしゃしたときにさ、こうするとすごく落ち着くんだ。嫌なことが身体から溶けだしてくみたいで」


 先生に小言を言われて、むしゃくしゃして飛びこんだということらしい。犬飼さんならどこ吹く風と受け流しそうな感じがしていたから、ちょっと意外な感じがした。


「それにしたって、制服のまま飛びこむなんて」

「そのほうがアガるし」


 へへ、と悪びれもなく笑う。


「噂もいい感じだったでしょ?」

「噂?」

「夕暮れの幽霊」


 岡田や山澤が話していた怪談だ。


 しかし――。


「『いい感じ』って?」

「夕暮れの幽霊。わたしが広めました」

「…………………………………………………………。――はあ!?」

「長い長い」

「え、だって、な、なんで?」

「プールに飛びこんだところを誰かに見られてたらしくて、ごまかすために。みんな楽しそうに噂してたでしょ?」


 たしかに盛りあがってはいた。


「まあ、ここまで広まるとは思わなかったけど」

「じゃあ、つまり、嘘……?」

「そう。恋に破れて死んだ女生徒はいないし、誰も引きずりこまれてない」


 俺はしばらく呆然としたあと、「ほお……」と吐息した。


「よかった……」

「フィクションの女の子が無事だったから? ロマンチストだね」

「じゃなくて……、なんていうか、うまく言えないけど。――とにかく、犬飼さんがなんともなくてよかった」


 犬飼さんは俺にとって憧れであり、尊敬の対象だ。彼女がいない学校生活なんて想像できない。


「……」


 犬飼さんはちょっと困ったような表情を浮かべた。


「なにその顔」

「いや~、ほんと……、そういうとこだぞ」

「え? な、なにが」

「桝谷はいいひとだなってこと」


 などと、照れくさそうな顔をする。


「俺はべつにいいひとなんかじゃ……」

「桝谷が桝谷のことをどう思ってるかは知らない。わたしは桝谷こと、いいひとだと思ってる」


 自信があって、ちょっと不遜で、実に犬飼さんらしい言い回しだ。俺は俺のことをいいひとだとは思っていなかったけど、彼女がそう言うならもしかしてそうなのかもしれないと勘違いしてしまいそうだ。


「とにかく、ごめんね」


 犬飼さんは片目をつむり、手を合わせた。


「え、なにが?」

「嘘ついちゃったし、そのせいで桝谷がびちょびちょに」

「それはべつに」

「もうやめるから。先生も疑いはじめてるし」

「もしかして今日の呼びだしって」

「生活態度がー、服装がー、将来がーとか言ってたけど、最後に夕暮れの幽霊についてなにか知らないかって聞かれてさ」

「ああ……」


 証拠はないが、不審には思っているといったところだろう。


「だから、もしこの事実を先生に知られたら大変なことになっちゃう」

「そうだな」

「やばいなあ。わたし――桝谷に弱みを握られちゃった」

「うん。――うん?」


 ――弱み?


「バラされたらわたし、学校にいられなくなるかも……」


 犬飼さんは地面に手をつき、俺のほうへ身を乗りだした。胸の谷間がちらりと見えて、俺は空を見あげた。


「ねえ、お願い。みんなには黙っててくれないかな。その代わり、わたし――」


 ぼそぼそとした声で言う。


「桝谷の言うこと、なんでも聞くから」

「……え?」


 俺は思わず視線をもどす。


「どんなに恥ずかしいことでも……」


 犬飼さんは頬を染め、目をそらした。


「いや――」


 もともと告げ口なんかするつもりはない。そう伝えようとしたところ、


()()()も弱みを握られちゃうなんて……」

「ふたつ?」


 夕暮れの幽霊の件は分かる。でも、あともうひとつは?


「だからもうわたし、桝谷には逆らえない……」

「ま、待って。なに弱みって。全然記憶にないんだけど」

「記憶に、ない?」


 犬飼さんはいやいやをするみたいに首を振る。


「なんて恐ろしい……」

「はい?」

「つまり、桝谷にとっては取るに足らない些細なことで、誰かにぽろっと漏らしてしまうかもしれないと」

「え? あの――」

「分かった。わたし、もっと頑張って奉仕するから。どうか、どうかあのことだけは……!」

「いや、どのこと?」


 犬飼さんは息を飲んだ。


「それって、ネタはふたつだけじゃないってこと?」

「なんて?」

「も、もう逃げられない。桝谷の好きなようにされちゃうんだ……。わたしは、そう、言わば『奴隷』」


 と、自分の身体を抱くようにした。


「いや……、そもそも、弱みってなに?」

「弱いところ、弱点、後ろめたいと思っているところ」

「意味ではなく。俺が握ってるっていう犬飼さんの弱み」

「幽霊の噂と、あとひとつは……」

「あとひとつは?」

「とても口にできない……!」


 ――なんなんだよ……。


 犬飼さんは横ピースした。


「じゃ、そういうわけで、明日から命令よろしくです」

「そんな、バイト初日みたいなノリで」

「それより帰りどうするの? ジャージ貸す?」

「ジャージ持ってきてるのか? 体育もなかったのに」

「飛びこむかもしれないじゃん」

「知らんけども。でもそんなことしたら犬飼さんが困るだろ」

「シェアするとか」

「シェア?」

「桝谷が上を着て、わたしは下」


 ――俺が上ってことは……。


 ちらっと犬飼さんを見る。濡れたシャツはいまだに乾きそうにない。


 ――透け透けのまま外を歩くってことじゃないか!


「それは駄目だ!」

「すごい勢いで否定されたんですけど」


 犬飼さんはけらけらと笑った。


「じゃあ逆にする?」


 ――逆?


 それならば犬飼さんの下着は周囲の視線からガードされる。しかし俺が下を穿くということは、ふだん犬飼さんの下半身が触れているものを俺の下半身に装着するということで――。


 ――だ、駄目だそれは! なんか……、変な気分になっちゃうだろ……!


 間接キスならぬ……、ならぬ……。――まあなんと形容していいのか分からないが、とにかく間接的ななにかになってしまう。


「それもまずい……!」

「じゃあどうするの?」

「このまま帰る。うち、遠くないし」


 と、立ちあがってスクールバッグを引っつかんだ。


「べつに遠慮しなくていいのに」

「いや、これは俺の都合というか。とにかく大丈夫だから」


 犬飼さんは「そう?」と肩をすくめた。


「人目は避けてね。新しい都市伝説が生まれちゃうから」

「気をつける」


 靴下を脱ぎ、靴を履く。「じゃあ」と挨拶して立ち去ろうとしたところ。


「それと!」


 犬飼さんが付け足した。


「明日からたくさん奉仕するから、よろしくね」

「それ、本気だったの?」

「冗談でこんなこと言うわけないじゃん」

「冗談だからこそ言いそうなんだけど」

「でも弱みを握られてるのは本当だし」

「だから、その弱みっていうのは――」

「言うつもりないけど」

「記憶にないんだから弱みにつけ込むなんてできないだろ」

「わたしに奉仕されるの、嫌?」


 と、 悲しげに眉を歪める。


「嫌、じゃない」


 嫌なわけあるか。でも――。


「とにかく、奴隷とか命令とか、そんなのふつうじゃ」


 俺は言葉を切った。


 ――違う。


 ふつうかふつうではないか。そんなジャッジになんの意味がある。青春の本質はそんなところに存在しない。


 犬飼さんを見た。急に黙りこんだ俺をいぶかしげな瞳で見つめている。


 ――俺は……。


 俺は大物になりたい。自尊心があり、細かいことは気にせず、自分に言い訳しない、そんな者に俺はなりたいのだ。


 そんな人物ならきっとこう言う。


『世間の常識など知ったことか。俺のやりたいようにやらせてもらう』


 俺のやりたいこと。それは、犬飼さんともっと関わりを持つこと。話しかけてもらうだけじゃなくて、もっと、強く。


 こんな千載一遇のチャンスに、ふつうかふつうでないかなんて大事の前の小事だ。


 なら答えは決まってる。


 犬飼さんを見おろす。


「本当にいいのか?」

「……え?」

「俺に奉仕したいんだろ?」


 俺はしゃがみこみ、犬飼さんの顔を覗きこむように見つめた。彼女は怯えたように身をすくませ、こくりと頷いた。


「う、うん。――はい」

「ならそうすればいい。その提案、乗ってもいい」

「あ、ありがとう……ございます」


 呆然とする犬飼さんに背を向け、俺はプールをあとにした。


 帰り際、プールのほうに目をやると、犬飼さんがすっくと立ちあがった。そして、


「っっしゃー!!」


 と叫び、両腕を高々と上げて飛びあがった。


 ざぶん! と水しぶきが上がる。砕けた水が夕焼けの光を反射してルビーのようにきらきらと輝いた。


 ――なにやってんだ……?


 自らの意志で飛びこんだようだし心配はないと思うが……。あとは誰かに見つからないことを祈るばかりだ。


 校門を出る。できるだけ人通りの少ないルートを歩くが、完全に無人というわけにはいかず、道行くひとは俺に不審げな目を向けてくる。


 ふだんの俺ならどこかに身を潜めて制服が乾くか周囲が暗くなるのを待ったことだろう。しかし今日の俺は少し大胆な気分になっていた。


 原因はもちろん、さっきの出来事だ。


 夕方の風が濡れた肌から体温を奪う。しかし心は熱く火照っていた。

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