第11話 俺のツボ
教室のゴミを外のゴミ捨て場に捨てた。かけ声や、上履きがワックスのきいた床をこする音が聞こえてくる体育館の横を通りすぎ、校舎へ引きかえす。
今日も日差しが強い。ただ歩いているだけで汗が噴きだしてくる。俺は校舎一階にある水飲み場へ足を向けた。
蛇口を上に向けて水を飲んでいると、ひとの近づいてくる気配があった。
「桝谷」
声がかかって顔をあげる。
「ああ、犬飼さん」
濡れた口元を手の甲で拭おうとすると、
「あ、待って待って」
と、彼女は制止して、スカートのポケットからハンカチをとりだした。
「それはわたしの役目だよ」
そう言って俺の口に手を伸ばす。
俺の口元を真剣な眼差しで見つめ、丹念に拭う。
その顔をじっと見つめてしまう。胸が苦しくなるような、締めつけられるような、ふわふわするような感じがする。
――これがオキシトシン……。
「はい、しゅーりょー」
犬飼さんはにっと笑う。
「ありがとう。――あ」
俺は左右を見渡す。誰もいない。
チャンスだ。
俺は犬飼さんに手を伸ばした。彼女はびっくりしたように首をすぼめる。
「な、なに?」
「前に褒めろって言っただろ」
「言ったけど、でも」
「いいから、じっとして」
「う、うん……」
手を頭に乗せる。犬飼さんはぴくりと震えたが、逃げることなくじっとしている。
俺は彼女の頭を撫でた。
――頭の形良っ……!
卵のような、手のひらのくぼみに吸いつくようなカーブだ。俺はそのさわり心地を楽しむように、ゆっくりと手を動かす。
犬飼さんは嫌がってはいないが、少し戸惑っているような表情だ。
彼女のそんな顔も嫌いではない。いや、正直ちょっと好きだ。しかし不安がらせるだけでは駄目なのだ。
姉ちゃんのアドバイスを思いだす。
――好きなところを伝えて、感想を付け足す……。
「犬飼さんは強くてかっこいい」
「……」
「けど最近、一緒にいる時間が増えて、拗ねたり、駄々をこねたり、甘えたり……、そういうところが見えてきて、それがすごく……」
「すごく?」
――素直に……。
俺は頭に浮かんだ言葉をそのまま口にした。
「俺のツボ」
犬飼さんはきょとんとしたあと「ぷっ」と吹きだした。肩の力が抜ける。穏やかな表情だ。
俺は顔の輪郭をなぞるように手を滑らせ、頬に触れた。犬飼さんは目をつむり、気持ちよさそうな顔で、俺の手に頬をすり寄せるような仕草をする。
背筋がぞくっとする。胸が熱くなる。
そういえば、オキシトシンは撫でたほうにも分泌されるらしい。この感覚はそれだろうか。
柔らかさをたしかめるように、親指の腹で頬を撫でる。
そのとき突然、背後から声がした。
「なにやってんのー?」
「うおおっ!?」「きゃあああ!?」
俺たちは同時に叫び声をあげた。
振りかえると、そこにいたのは今古賀さんだった。
犬飼さんは胸に手を当てて言った。
「の、乃々か……」
「ね~、なになに? っつか桝谷くん? とからんでんの初めて見たんですけど」
「べ、べつに、ちょっと話してただけ。ね?」
「あ、ああ」
俺はこくこくと頷いた。
今古賀さんは「ふ~ん」といかにも納得していなさそうな声をあげ、手に持っていた小袋からグミをひょいと口に放りこんだ。
もぐもぐ咀嚼しながら言う。
「でもなんか~、サラの乳揉んでなかった?」
「揉んでねえ!!」
まともに話したこともないのに激しくツッコんでしまった。
「ええ? やらしい感じでもにゅもにゅしてたように見えたんだけど」
――ど、どうなんだ……? 俺としては撫でていたつもりだったけど、親指で頬をむにむにしたのは事実だし、それは揉んだうちに入るのか……?
頬をむにむにしたからといって校則に違反するわけじゃないが、噂になると厄介だ。
「ち、違うんだ。あれはほっぺたに……」
「ほっぺたに?」
「ほっぺたについてた生クリームを拭いてただけなんだ!」
「そ、そう! 桝谷に拭いてもらってたの!」
犬飼さんは察して同調してくれた。
「生クリームぅ?」
今古賀さんは眉間にしわを寄せる。
――さすがに苦しかったか……?
さらなる追求を覚悟した、そのとき。
「わたし生クリーム好き! ケーキ食べるときも生クリームは最後に残すんだよ。ケーキはイチゴよりもスポンジよりも、やっぱ生クリームなんだよなあ」
今古賀さんは生クリームのほうの話を広げた。
「わたしも生クリーム食べたい! どこ、どこ?」
「もう食べちゃったから」
「え~? じゃあ食べに行こ! パンケーキ!」
「いまから?」
「だってもう生クリームの口になっちゃったもん。ほら!」
と、犬飼さんの手をつかみ、ぐいぐいと引っぱっていく。
「あ、桝谷も来る?」
「いや、俺は遠慮しとく」
「そ。じゃ、またね~」
犬飼さんは玄関のほうに引きずられながら、俺に苦笑いを向けた。
ふたりが去ってから俺は長い安堵の息をついた。
――今古賀さんが今古賀さんで助かった……。
教室にもどる。ほかの掃除当番はすでにいなかった。
ゴミ箱を鞄に持ちかえて学校を出る。
妙に静かな気がするのは隣に犬飼さんがいないからだろう。
しかし、寂しいわけじゃない。むしろ――。
俺は自分の手を見た。犬飼さんに触れた感触が鮮明に蘇ってくる。
彼女のことを考えながら、ひとりで帰る帰り道も悪くないと思った。




