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第9話 うまく褒めたい

 体育の授業が終わり、俺は水飲み場でがぶがぶと水を飲んでいた。


 ――生きかえるう……!


 汗となって身体の外へ出ていった水分が急速に補充されていく。


 授業内容はドッジボールだった。


 俺はこのドッジボールという球技が大嫌いだ。


 たとえばボーリングなら『ボールでピンを倒す』。サッカーなら『ボールをゴールに運ぶ』。それがもっとも基本的なルールだ。


 ドッジボールの場合、『ボールをひとにぶつける』。


 ――野蛮すぎるだろ……!


 どれだけ血の気の多い人間が作ったゲームなんだ。痛いし、疲れるし、まったく楽しくない。


 しかも俺はそこそこ避けるのがうまいらしく、最後のほうまで残ってしまうこともしばしばで、だから余計に疲れるのだ。


 立っているだけでも汗が噴きだすような炎天下で、よってたかって投擲されるボールを避けつづけるなんて、世が世ならちょっとした刑罰である。


 蛇口を閉め、口を拭おうとしたところ――。


「うおっ!?」


 すぐ横に犬飼さんが立っていたのに気がつき、思わず悲鳴が出た。


 彼女はにやにやと笑っている。体操服のシャツの半袖をまくっており、露わになった細く白い肩がまぶしく輝いて見える。


「桝谷、なんでこんなところで水飲んでんの?」


 ここは部活棟近くの水飲み場だった。グラウンドから校舎への帰り道とは反対方向にある。


「ここなら空いてるから」

「なるほどー、たしかに」

「誰がぼっちだ」

「言ってないけど」

「犬飼さんこそなんでこんなところに?」

「そりゃ桝谷が見えたからじゃん」


 なんで当たり前のこと聞くの? と言わんばかりに首を傾げる。嬉しくて顔がにやけてしまいそうになるのを俺は必死で堪えた。


「ってか外あっついねー」


 と、手で庇を作って空を見あげた。


「そうだ」


 犬飼さんはなにかを思いついたように顔を明るくした。


 ハーフパンツのポケットからハンカチをとりだし、じゃばじゃばと水で濡らした。


「拭いてあげる。――じゃなかった。拭いてさしあげますね」


 しなを作って言い、じりと俺に歩み寄る。


 俺は一歩後ずさった。


 犬飼さんがさらに一歩進む。


 俺はさらに一歩後退した。


「なんで逃げんの!?」

「だって、なんか体勢が怖い」


 犬飼さんはまるでタックルを狙うレスリング選手のように腕を前に出し、中腰で迫ってくる。指摘され、彼女は背筋を伸ばした。


「しょうがないじゃん。こういうのまだ慣れてないんだし」


 と、ちょっと拗ねたように言う。


「だから慣れさせて」


 性懲りもなく、襲いかからんばかりの構えをとる。


「せ、せめてふつうに頼む」

「ふつうって言われても……」


 ちょっと考えたあと、犬飼さんは背筋をぴんと伸ばし、ぎくしゃくとした足どりで距離をつめてきた。今日日、二足歩行のロボットのほうがよっぽど人間らしい動きをする。


 ――まあ、さっきよりはましか……。


 犬飼さんが目と鼻の先まで近づく。レモンのような、グレープフルーツのような柑橘系の香りが彼女の身体から立ちのぼってくる。


 ハンカチが俺の額に触れた。


 冷た……くはない。しかし肌の火照りが吸いとられていくようで気持ちがいい。


「けっこう背高いね」

「平均くらいだけど。――座ったほうがいい?」

「うん」


 俺は水飲み場の(へり)に腰かけた。


 犬飼さんが屈むとシャツの襟ぐりが広がって、ボーダー柄のブラジャーが露わになった。


 俺は慌てて明後日の方向を向く。


 ――ほんと、胸元が緩すぎる……!


「ちゃんと前向いて」


 俺は顔を正面に向け、目だけ上に動かした。


 湿ったハンカチが顔をなぞる。額、頬、口元、顎。そして首筋。


 ぞくっとした。


「あ、ここ、気持ちいい?」

「というか、くすぐったい」

「そ。じゃあ、気持ちいいんだ」


 犬飼さんはくすっと笑った。彼女なかでは『くすぐったい=気持ちいい』らしい。


 ハンカチが首筋から、ゆっくりと鎖骨のほうへ動く。襟をくぐり、胸板のほうへ――。


 俺は弾かれたように立ちあがった。


「ちょちょちょ、ストップストップ! もう充分だから」

「身体のほうも拭いたほうが気持ちいいよ?」


 ――もうすでに気持ちよすぎてどうにかなりそうなんだよ……!


「もうだいぶん楽になったし」


 しかしそんな本音を吐露できるわけもなく、俺は適当にごまかした。


「そう?」

「あ、そのハンカチ、洗って返すから」

「いいよ、べつに」


 ぎゅうとしぼってポケットに入れた。


「あの、それ……」

「なに?」


 俺は両手で頬をはさんで言った。


「変なことに使わないでね」

「変なことってなに!? わたしそういう目で見られてんの?」

「いや、ちょっとした冗談」


 公園の一件みたいに変な空気にならないようにと思ったのだが、あまり成功とは言えなかった。


「そろそろ教室もどるか」

「……いいけどさ、その前に」


 犬飼さんはそわそわと身体を揺すった。


「どうした?」

「わたし、奉仕したじゃん?」

「うん」

「だからさ、――み、見返りがほしいっていうか」


 ――見返り?


「分かった。そのハンカチ自由に使っていいよ」

「一回すべった冗談かぶせてこないで!」

「じゃあなに?」

「だから……。ほ、褒めてよ……」

「褒める……」


 なんだそんなことか。


「分かった」


 こほんとせき払いをし、俺は言った。


「グッジョブ」

「……」

「よし、じゃあ帰ろう」

「ちょっと待って!」


 俺は手首をつかまれた。


「なに?」

「いまので終わり? ってかなんで英語?」

「ああ、すまん」


 俺は親指を立てた。


「よかった」

「……」

「よし、じゃあ帰ろう」

「嘘でしょ?」

「ちゃんと日本語にしたぞ」

「もう言語の問題じゃないんだけど。――はい、もう一回」

「……と、とてもよかった」

「『とても』がついただけじゃん!」


 本当はなにが問題か分かっている。犬飼さんも察したようだ。


「もしかして、桝谷」

「な、なに?」

「褒めるの、めちゃくちゃ下手?」

「っ」


 そう、俺は褒めるのが下手だ。というかそもそもあまりひとを褒めたことがない。基本的に褒めるという行為は、自分の立場が相手と同等以上のときに効力を発揮するものだ。生まれてこの方、小物として生きてきた俺に、誰かを褒めるという機会はまったくなかったと言っていい。


 自分の立場が下でも褒めることはできる? そうかもしれない。だが、目上のひとを下手に褒めると馬鹿にしているととられそうだし、それよりもまず、能力の高さを見せつけられると感嘆よりも『どうして俺はこうなれないんだろう……』と落ちこんでしまい、褒めるどころではなくなる。


 いずれにしろ、俺は小物であるが故に上手に褒めることができないのだ。そう自己分析している。


 いまも犬飼さんを褒めようとすると、ぐっと喉がつまって言葉がうまく出てこなかった。


「ごめん」


 そう謝ったのは犬飼さんだった。


「わたし、桝谷にいろいろ求めすぎだよね」

「え、いや」


 俺が言うべき謝罪を先に言われてしまい、言葉につまる。


「無理言ってごめんね。気にしないで。――じゃ、帰ろ?」

「あ、うん」

「それより聞いて。さっきの体育で乃々がさ――」


 湿っぽくなりそうな話は打ちきりとばかりに、犬飼さんは明るく話はじめる。


 気を遣わせてしまった。以前の俺ならそれだけで、軽く二週間は自己嫌悪に陥ることができただろう。


 しかし今日は違う。だって、犬飼さんはこう言った。


『わたし、桝谷にいろいろ求めすぎだよね』


 俺は、彼女に求められている。その事実が俺を奮い立たせていたから。


「――って、桝谷、聞いてる?」

「いやまったく!」

「逆に清々しいな」

「でも期待には応えるから!」

「……はあ?」


 犬飼さんはきょとんとした。


 見てろ。褒めまくって、その顔をでれでれの照れ顔にしてやる。

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