再会
遠く、痺れる頭に微かな唸りが転がった。ごうんごうんと、機械が呼吸をしているような音。冷蔵庫というイメージがぼんやりと脳裏に浮かぶ。
痛みを感じた。刺すような、小さな針の痛み。
下半身からじんわりとその熱が広がって、体の隅々にまで届く。軋んだ体が機能を取り戻した気がした。
目を開ける。瞼が千切れてしまわないように、そっと。
白い景色。なんだろうと思っているうちに、一際大きな物音がくぐもって聞こえた。
ぷしゅ、と何かが噴き出した……密閉した蓋を開けたみたいな。途端、光に目を奪われる。
眩しさに滲んで、ぎゅっと瞼を閉じると、気が付けば地面に叩きつけられていた。結構な勢いでぶつかったけれど、感覚が膜を張られたように鈍く、呼吸が苦しいだけで痛みは感じなかった。
「さ……む、い……」
ひどくしゃがれた声が出た。これが、自分の発した言葉なのかと疑う間もなく、体がどうしようもなく震えて、喉が掠れる。じたばたとみっともなくもがいていると、空を切っていた手が何かを掴んだ。
まだ定まらない視界に映ったのは、オレンジ色の長く幅広いもの。それと、柔らかい感触。布だ、タオルだ。
ひたすら巻き取って、それに包まった。体中をのろのろ這う水滴をやんわりと拭って、どこからか吹く生温い風にしばらく身を任せる。……少しずつ、温かくなってきた。
「はぁ……」
怠い。このまま横たわっていたい。
そこへ、お腹が空腹を示して抗議してきた。どうやらそうもいかないらしい。
仕方がないので起き上がって、部屋を見渡してみる。隅は薄暗くて何があるかも良く分からず、不気味な重低音だけが蠢いている。目の前には、清潔な白のテーブルが寂しげに立っており、上には同じく白い箱が4つ、無造作に置かれ、天井の心もとない明かりに照らされていた。
「うーん……」
とにかく、箱を漁ってみる。入っていたのは学校の制服で、男物が2つと女物が2つ。
そこでようやく、私は自分が妙な服を着ていたことに気が付いた。例えるなら、ウェットスーツか。
これでは自分の体形がもろに分かってしまう。気恥ずかしいし動きづらいので、取り敢えず着替えておこう。
水でぴったり張り付いていた為、結構苦戦した。
脱いだら、体をタオルで拭きながら、サイズの小さい方を引っ張り出す。
下着と、ブラウスにスカートに、上着。最後に一応、リボンも着けた。うん、しっくり来た。
まだ、頭はぼんやりするけど。
「それにしてもここ、どこだろ……」
疑問が頭をもたげる。でもまずは、
「やっぱりご飯!」
他の箱も制服以外に何かないか中身を逆さにしてみたものの、見つからず。代わりに自分のポケットに膨らみがあることに気付いた。
取り出すと、それは丸みを帯びた入れ物。開けると、中には指輪が収まっていた。つまんで、光にかざして見る。
その指輪は薄明かりの中で、金と銅の色に鈍く光った。手入れはされていても、あんまり綺麗ではないし、なにより武骨すぎて女性に贈るデザインじゃない。辛うじて、親指にはまるが。
「重……っ」
予想以上に重い。まぁ、別に外す理由もないから、このまま着けておいてもいいだろう。そんな気分だ。
「さて」
目標は以前達成されず。他に、別の場所へ続く道がないか探してみようと見回す中で、仄かに照明の当たる、継ぎ目のある色の薄い壁があった。近付くと、取っ手が付いている。渾身の力で引いてみると、身動きするのを嫌がるように床を擦りながら扉は開いた。
一つ、思いついたことがある。
これは『明晰夢』ではなかろうか。噂の又聞きのみで体験するのは初めてだけど、余りに生々しい感覚だ。普段こんなことを体験している人の気が知れない。
部屋より明るい、短い灰色の廊下をおっかなびっくり進むと、いくつかのドアと表札から食糧庫と書かれた部屋を発見した。ノブを回して、押すとどうやら鍵は掛かっていない様子。
なんだか不気味で、いつゾンビとか巨大クモが現れても不思議じゃない。出てきたら一巻の終わりだ。
とはいえ空腹には勝てないので、ちょっとだけ食糧庫の扉を開けてみる。
パッと自動で天井が灯って、現れたのは厳重なロックがされた冷蔵庫や、他には無造作に並べられた段ボールの山。その内の一個を引き寄せて、封を開けてみる。
「むぅ……」
中々力が入らない。夢の私はなんと非力なのか。それに、明晰といえど、いやだからこそか、まだ頭が判然としない。
やきもきしながらやっとのことでテープを剥がして、中身を覗く。
携帯食料だった。エナジーバーと簡素な文字で書かれている。
しゃにむに包装を破って、早速一口頬張った。
「……んまい」
おいしすぎて涙が出てきた。そのまま全部食べてしまいそうになったが、喉の渇きを警戒して、半分ほどで止めた。とにかく、腹減りはこれで収まった。
それならば、もうちょっと奥へ行ってみよう。
食糧庫を一旦後にして、先へ伸びる道を進むと、円状の広場に突き当たった。
金網越しには無数のケーブルやら機械やらが露わになっていて、舞台の裏側を思い出させると共に、耐久性が心配になった。
複雑な装置に感心しながら、中央まで寄ると、
『おはようございます』
突然、挨拶された。凄く滑らかな女性の合成音声だ。向くと、ど真ん中には立て看板じみたディスプレイが鎮座していた。
「お、おはようございます」
思わず機械に挨拶を返してしまう。彼女はお構いなしにモニターを起動した。中々失礼な奴である。
瞬間、私の顔が画面に映る。ちょっと痩せている。
「現実も、そうなのかな」
ちょっぴり不安になる。
『結城悠里さんですね?』
機械が流暢に聞いた。
「えぇ、まぁ」
答えた後で、何を言ったものかと考えている内にがたりと床が嫌な揺れ方をした。
『エレベータを起動します』
「は?」
機械がそう言うや否や、また空間がぐらついたかと思うと、地震よろしく轟音を立てて床が動き出すではないか。
「ちょ、ちょっと!?」
問い質そうととしても、機械は何も答えない。仕方がないから座って待つことにする。
このエレベータはどうやら斜め上に動いているようで、だいぶ時間が経ってやっと動きを停めた。
「はぁ……」
安心したような、逆に落ち着かないような。
息をついていると、ドア代わりの金網が役目を終えてスライドし、出口を指し示してくれた。
「ありがと」
やっぱりウンともスンとも言わなかったが、もうそんなことは鼻から期待していない。だけど、あらゆるものへの感謝はとっても重要なことだ……と、たぶん誰かが言っていた。
エレベータを後に、入口とは反対側を貫く道を通ると、そこはまたすぐ扉だった。最初の部屋の戸はなんとか開けられたが、こちらは戦車の砲弾でも壊れなさそうな巨大さと厚みだ。
これはどうにもならない……という訳でもないらしく、前に立つと、自然と扉のロック機構が動いた。一個一個、まるで自分に解除のお手本を見せるかのように、くるくる回ったり、シリンダがとんとんと持ち上げられたり。それが数回ほど続いて、ようやく扉が両脇へ退いた。
「……っ!」
視界が潰れるほどの強い光が差し込んできた。
腕で顔を覆って、目が慣れるのをじっと待つ。一人間抜けな格好で立ち尽くして、ようやく光と向き合えるようになった。
「こんな息苦しい場所は、さっさと抜け出さなきゃ」
私は一歩を踏み出した。
〇
草原……いや、森だ。端々に青々とした木々がどこまでも広がって、まるで海を割ったみたいに、雑草が一本道をつくっていた。
「……凄い」
圧倒されてしまう位の自然。遠く向こうには、やけに角ばった形の緑が見える。ビル、だろうか。
景色に見惚れていたら、足元にこつんと軽い衝撃が伝わった。
「ん?」
足元を見ると、殻を被ったクルミの実だった。拾い上げたところで、
「おうい、待て待て!」
と、これまた足元から野太い声。見遣ると、一匹のリスが小走りで駆け寄って来ていた。いや、待て待て。
「リ、リスが……喋った……!?」
「何を言ってんだあんた。とりあえず、それを返してくれよ」
「あ、どうぞ」
ずいぶん尊大な態度のリスだが、どう見ても姿は動物のそれである。ひとまず、しゃがんでクルミを彼の目前に置いてやる。
「サンキュー。お前、中々良いヤツじゃないか」
「ど、どういたしまして」
褒められた。悪い気はしないけど、なんだか複雑な気分だ。リスはそんな私を気にせず、器用にクルミを割って、中身を食べ始めていた。可愛い……声はおっさんだけど。
「ところでお前、名前は何だ?あ、俺はゴッケな」
ゴッケ……少し言いづらい。そもそもここでは種族名など関係ないらしい。第一、リスなんてのは人間が勝手につけた名前なんだから当然か。
「私は、えっと、悠里って呼んで」
「ユウリ、な。よろしく」
遠慮なくクルミを齧りながら、ゴッケは言った。私も、ふわふわした心地で頷き返す。
急に、どっと疲れが体に圧し掛かってきた。そろそろ、限界かもしれない。
「あ……」
膝が震え、かくんと折れて尻餅をついてしまった。まるで今、重力に充てられたみたいだ。
幸い、地面は柔らかい土なので痛くはなかった。
そのまま空気に身を任せるように、頭までストンと落す。そよ風がひんやりとして気持ち良く、土の匂いがどこか懐かしい。
「どうした?」
草を掻き分けてゴッケが顔の傍まで来た。毛の一本一本が鮮明に見えて、円らな瞳がそわそわと動く。
「ねむくって」
「そっか。じゃあ寝ろ。クルミを返してくれた礼に、見張っといてやるから」
「ごめん……」
リスの身体では、人間を守ることは出来ないんじゃ。
突っ込もうにも、口を開くのも億劫になって止める。思考に泥がまとわりつく。
重い瞼を閉じた。
〇
目覚ましが騒ぐ。手探りでばたばたと振り回すと、運よく本体を捕らえた。時間を見る。午前七時半。
のそりと体を持ち上げた。傍のカーテンをめくると、すっかりお日様は昇っていた。
「準備しよ」
出来ればもう一度布団に潜りたかったけれど、あいにく余裕がない。
布団を跳ね除けて、ベッドから飛び降りる。こういうのは勢いが大事だ。
寝巻のままえらく急な階段を下りて、台所に入る。
冷蔵庫から卵を一つ二つ取り、割ってフライパンに広げ火を点ける。手順を間違えたが気にするまい。今度は、トースタに残り数枚の食パンを投入した。
時間があるので、顔を洗っておく。
髪を梳って戻った頃には歪な目玉焼きが焼き上がり、トースタからこんがりキツネ色のトーストが飛び出していた。
「あちっ」
手の中で躍らせながら平たい皿に移し、雑に目玉焼きを乗せる。割と豪華な朝食ではないだろうか。
「いただきます」
かぶりついた。食欲はそこそこ、食べるスピードもそこそこ。
平らげたころには八時。学校に着くのはギリギリかもしれない。
慌ただしく二階を行き来して制服をとっ掴み、素早く着替える。寝巻はソファに投げた。鞄にはテキトーに教科書とノート数冊を詰め込んでおく。ちょうど整った頃に、インターホンが鳴った。
誰かは予想がついている。最後の身だしなみ確認をして、急いで玄関に走ってドアを開けた。
「やぁ」
目の前には壁……ではなく、体。見上げると、顔。一だ。
「おはよう、イチ」
「うん。おはよう」
相変わらず虫も殺せないような穏やかな顔つき。なんとなく、心が落ち着く。型にはまった安心感だろうか。
「学校、遅れちゃうかと思ってさ。来てみたんだ」
「そっか」
「一緒に行こう?」
こくりと頷いた。幼馴染ゆえに付き合いが長すぎて、今時男女二人という理由で小っ恥ずかしくなる仲ではない。
一の後ろを尾いて門を抜け、人も疎らな歩道に出た。道の傍には石垣の上に申し訳程度の樹林が敷かれ、道路に四角く区切られたアパートやマンション群をひたと隠している。
スムーズに横断歩道を渡ったところで、通りの奥から歩いてくる人物が二人。
「おうい、悠里」
「あ、亮、紗希!」
「おはようございます」
「おはよう」
いつものメンバーが揃った。
おそらく、亮が起こされたのだろう。紗希の恐ろしく綺麗な身なりに対して、亮は短い髪の毛がつっぱねていた。
「普段とおんなじだな、こりゃ」
「同じだから良いのです」
「まぁな」
四人で並んで歩く。一応、後方や前から人や自転車がやってこないか逐一気を付けるが、やっぱりあんまりいない。
「……いっか」
皆のペースに頼って、のんびり歩くことにした。
四限終わりのチャイムが鳴る。同時にこれはお昼休みの合図でもある。
「やっほー」
「来ちゃいました」
亮と紗希が隣の教室からやって来て、手近な机椅子を借りて私の元へ寄せる。お馴染みの光景だ。一はもともと私の隣の席である。
各々お弁当なりコンビニで買った品なりを提げて、戦利品みたように机に載せていく。さて私も……
「あ」
と言ったとき、三人が揃って私を見た。
「お弁当、忘れた」
正直に白状する。これは手痛い……。
「しょうがねぇなぁ」
「私のお弁当のおかず、食べます?」
「あぁ、ありがたや……」
文字通り二人を拝み倒す。一も、ちょっと間があってビニル袋からメロンパンを差し出してくれた。
「食べなよ」
「貰っちゃっていいの?」
「うん」
「じゃあお言葉に甘えて」
男子高校生にとって昼食エネルギーは重要だろうに。これは体重とか気にせず頂かねばなるまい。
丁寧に手を合わせて、食糧を頂くことにする。
「そういえばさ」
お弁当を食べながら、突然亮が口を開いた。
「どうしたの?」
「いや、最近国際情勢が悪いよなーっていう賢そうな話がしたかっただけ」
「正直だね」
「だろ?」
一の変な返しに、亮も便乗する。近頃テレビや新聞をサッパリ読んでおらず世間のことはとんと知らなかったから、私はちょっと気になった。
「どういうこと?」
「俺たちの国を挟んででっかい国共が睨み合ってんだよ。お互い主導権を握るためにな」
「ふーん」
そんなことか。興味が湧かなかったので、それだけで十分だった。
「そういえば来週、悠里の誕生日じゃね?」
「そろそろ、準備しなければいけませんね」
「四人でどこかいこうか?」
「お、いいな。俺、飯食いたい」
「ご飯を食べてる最中でしょうに」
呆れた。ノリの軽さは亮の良いところであり悪いところだ。
これでいて頭が回るからなんとなく癪にさわる。
「まぁ、近々考えようか」
「悠里ちゃんのご両親はまだ帰って来ませんか?」
紗希が聞いてきた。
「ん、そうね。お母さんは相変わらず政府関係のなんちゃらだし、お父さんは、たしかイタリア」
「そりゃまた、突飛だな」
亮がけらけら笑う。確かにその通り。
「なんでも、誕生日プレゼントを探しに行くとかなんとか……全く、何考えているのやら」
「君のお父さんのことだから、きっととても面白いものを持ってくるに違いないよ」
「どうだろ」
こうして、束の間の休憩がのんびり過ぎていった。
〇
「……!」
目が開いた。草むらの上でうたた寝していたようだ。横を向くと、リス……ならぬゴッケがちゃんと傍にいた。
「起きたみたいだな。そういや、お客さんだぞ」
「お客さん?」
「おう」
「そのひとは、どこに?」
「ここですわ」
しゃんと鳴る真新しい鈴みたいな声。女の子だ。
でも、その声は私のお腹の上から発せられた。要するに、乗っかられている。野良にしてはとても綺麗な毛並みの白猫だった。
「これだと話しづらいから、一旦降りてもらっていい?」
「あら、ごめんなさい」
彼女は本当に申し訳なさそうに言って、ぴょんと傍に飛び降りた。それに合わせて体を起こすと、骨という骨がばきばき鳴った。
「それで、キーシャ。こいつに何の用があるんだ?」
「サエマ様が、この方をお呼びになったんです」
「サエマさま?」
分からないので聞いてみると、キーシャ(というらしい)はすぐに答えてくれた。
「この辺りの森一帯を取り仕切っている方です。思慮深く、あんまり動きません。それと、相当お年を召しています」
「なるほど」
どんな動物なのだろう。まぁ、会えば分かるか。
「それじゃ、私を呼ぶ理由は?」
キーシャは碧い瞳で、私をじっと見つめてきた。ちょっとこそばゆくて、前髪をいじる。
「あなたは人間ですか?」
「ん、そうよ」
返答を聞いて、彼女は軽く頷いた。
「なれば、それが理由です」
「私が人間だから?」
「はい」
結局、詳しい事情はさっぱり分からなかった。キーシャも深くは知らないみたいだし、とにかく実際に会ってみよう。と、その前に、
「のどが渇いた……」
言うと、キーシャとゴッケは顔を見合わせて、クスクスと笑った。不快というよりかは、身内に見守られているいうな恥ずかしさを感じた。
「近くに泉があるから、道中にそこへ寄っていきましょう?」
そして、そう穏やかに言ってくれるのであった。
「じゃあ、お言葉に甘えて」
頼みながら、立ち上がる。ちょっとめまいがして足がふらついた。
「大丈夫か?」
「うん、多分」
それきり、キーシャとゴッケは何やら言葉を交わしながら、先へと進んでいった。私もついていく。
草むらを逸れて、木々の間を抜け、うっそうと茂る緑の中を歩いていった。木漏れ日が目に心地良い。
瞬間、どこかで、氷の融けたような気がした。
〇
目が覚めた。白っぽい光が刺さる。
その上を顔が覆った。陰で暗くなっても分かる端正な顔。
「眠れました?」
「うん……って、寝てた?ご、ごめん」
「気にすることないですって」
この状況、頭に柔らかいものが当たってると思ったら、膝枕でされていた。慌てて頭を持ち上げる。
紗希はクスクスと笑いながら、危うく頭突きをかます所を器用に避けてくれた。
手で口を押さえる仕草もなんだか大人っぽくて、同性の自分でもどぎまぎする。意識すると余計に決まりが悪い。
そんな私を見かねてか、優しく声を掛けてくれた。
「気持ちが焦るときは深呼吸です。ほら、一緒に……」
「う、うん」
吸って吐いて、吸って吐いて……ちょっとはマシになったかも。
そこへ、とんでもない爆弾を放ってきた。
「想いを伝えるときも、まず落ち着くことが肝心ですからね」
「ちょ、ちょっと待って待って。なんで告白が出てくるの!?」
紗希は小首を傾げて言う。
「だって、一さんのことで相談に来たんじゃないですか?」
「……え」
そういえば、そうだったかもしれない。紗希に一が好きだという事を伝えて、それだけで精神にピークが来たのだった。
「今更、逃げるとは言いませんよね?」
笑顔ながら恐ろしいプレッシャーで、詰め寄ってきた。それは、そうだ。
「勿論。ちゃんと、言うつもり」
それなら、こちらも真面目に返すだけだ。
すると、急に背中に手を回された。最初は遠慮がちに。抵抗する気はなかったのでそのままにしていると、ぎゅっと抱きしめられる形になる。暖かくて、良い香りがする。
「……私も亮君も、応援しています」
「……ありがと」
〇
長時間の徒歩の末に、森の中に泉を発見した。
四角く区切られた空間を雑草が占めて木々の侵入を止め、ど真ん中に、壊れた蛇口らしきものから水が控えめに流れ出ていた。その周りを丸く囲うように石が敷き詰められている。
「さ、お飲みください」
「あ、いただきます」
我慢できないので、遠慮なく水を掬い取ってごくごくと飲んだ。体中に水分が染み渡る。
「……ふぅ」
「落ち着いたか?」
「うん」
「おい、キーシャ……って、ゴッケと、誰だお前?」
突然、声が聞こえたかと思うと、来た道とは別の木々の間から、目の周りが黒くて体は茶色の毛並みの妙な犬がやって来た。眼鏡をかけてるみたいだ。
「あ、笑っただろ。初対面なのに失礼な奴だな」
「ごめんなさい。私、悠里っていうの。あなたは?」
「俺はウィリ。こっちのふたりは俺の友達」
「なるほど」
思ったより気さくに接してくれた。
「水を飲みに来たら偶然出会ったってわけだ」
「でしたら、ついでにあなたも一緒について来てくださらない?」
「どこへ」
「エサマに会いにいくんだと」
横からゴッケが付け加えた。すると、ウィリは別段嫌な顔もせずに即決した。
「いいぜ。そろそろ日も暮れるし、早めに行ったほうがいいんじゃね」
「そうですね。ユウリさんは大丈夫?」
「ばっちり」
「その前に、水、水っと」
こうして四人……じゃなくて、三匹と一人でエサマ様とやらに会いに行くことになった。独りでいた時の寂しい気分が和らいで、何か、懐かしいもので満たされていく。
〇
目が覚めた。まだ夜……ではなく、時計を見ると朝の五時。
「はやい……」
二度寝しようともう一度布団を被るけれど、やっぱり眠れない。仕方なく起き上がった。
そういえば、最近運動していない。
「ランニングでも、するか……」
慣れないことはするもんじゃない。でも、たまにはこういう日があってもいい。
意を決っせば次は動く。ベッドから飛び降りて、タンスから体操着を取り出し、ぱぱっと着替えた。
最低限の体裁は整えて、邪魔な髪を一つにまとめる。朝食はパン一枚。
焼けたのもいいが、このもにょもにょとした食感もなかなか捨てがたい。
食事を軽く済ませ、ストレッチをして、さぁ出発。当然、鍵は閉めておく。
住宅街を抜けて、学校へ向かう道を進む。授業もあるので、体力はあんまり消費しないように小走りで。
そろそろ冬が来る。お日様はなかなか顔を出さなくなる時分、空は夜との境目で濃紺に塗りたくられていた。暁、とでもいうのか。
車の通りも嘘みたいに少なくて、ぽつりと走り去る一つ二つから寂しげに排気ガスの音が空に吸い込まれていく。
学校に着く二番目の交差点の信号で、赤になって止まった。もう肩で息をするレベル。本当に運動不足だ。
「あれ、悠里」
「んえ?」
呼ばれた。顔を上げると、亮がこちらへ走って来ていた。白い呼気が規則正しくふわりと浮かんで、黒縁の眼鏡がちょっと曇る。
「亮、おはよ」
「おう、おはよう……珍しいな」
「こんな日もあるよ」
「そっか」
彼は屈託なく笑った。人を引き付けるような親しい笑み。一が心を落ち着けてくれるなら、こっちは元気にさせてくれる。
「一緒に行くか?」
「ちょっと、限界近いけど」
「じゃ、そこの公園まで頑張ろうぜ」
「ん」
ちょうど信号が青になった。一つ深呼吸して、先を行く彼についていく。
「はぁ、はぁー……」
「お疲れさん。ほい、水」
「ありがと」
膝に手を突いて、思い切り息を吸い込む。汗もかいた。この疲労感はいつぶりのことだろうか。亮から受け取ったミネラルウォーターを存分に飲んだ。
「……ぷはっ」
「くくっ」
「何?」
「いや、なんでも……」
亮はそっぽを向いて、自分の分のスポーツドリンクを飲んだ。口を離したかと思うと、呟くように言った。
「なぁ」
「どしたの」
「生きるっていうのは、死ぬよりも辛いことなんだぜ」
急に何を言い出すんだ、この眼鏡。思わず亮を見上げた。彼は空を仰いだままだ。
「それとな、死ぬっていうことも生きるより辛いんだ」
「矛盾してるよ」
「してないさ」
「そうかな……?」
「そうだよ」
振り向いた。なぜか、悲しい顔をしていた。口元をぎゅっと結んで、今にも泣き出しそうな。
「だからさ、やれることはやったほうがいいし、言えることは言った方が絶対に良いのさ。何があっても、どうあっても、後悔だけはしないように」
真剣な眼差しに射すくめられた。私はただ頷くばかりだった。
それに満足してか、亮は再びにこやかな笑みを見せて、けろりと晴れを見せつつある空をもう一度見上げたのだった。
「……空が綺麗だ」
〇
「どした、ユウリ?」
「え!?」
今、何を考えていたんだっけ。そもそも、考えていたんだっけ。
心配そうに見上げるゴッケを見た。隣のキーシャとウィリも見た。別段何という訳でもなかった。
「ちょっと、さっきからフラフラするだけ」
「あら、では休んだ方が……と言いたい所ですが、もう目的地ですの」
気が付けば辺りは真っ暗で昼間の暖かな自然が形を潜め、うそ寒い空気が包む。一人だったら、怖さで足が動かなくなってしまうほど。
それにさっきから、妙な囁き声が聞こえる。
「あれがにんげんか?」
「変なかっこだな」
「おお、おそろしい」
「また災いとやらを振りまくんだろう。いっそのこと殺しちまったほうが……」
なんだか物騒な言葉まで聞こえる。
目に見えない脅威は、なんであれ心細い。
「気にすんなよ……ほら、来た」
ウィリがそう小さく言った。次の瞬間、
「お止めなさい」
と、鋭い女声の一喝が森を駆け抜けた。物理的な力でも宿っているみたいに一瞬で辺りが打ち水になる。
奥の間からひっそりと現れたのは、一羽のフクロウだった。闇夜でもはっきり見える白と銀の毛に、黄色の大きな知的な瞳。彼女は私を見据えると、木の枝の一つに落ち着いた。
「あなたが、サエマ……さま?」
フクロウはこくりと頷いた。
「はい。キーシャ、ご苦労様でした。それと、ウィリとゴッケも。……お名前を教えて頂けますか?」
年老いた彼女の声が、不思議と親しみを帯びて聞こえる。本当に遠くの遠く、記憶の音叉に呼応するような。
「悠里です。えっと、何故、私を?」
「あなたを見極めるために来たのです。我々と共に暮らすにふさわしいかどうか」
「は、はぁ?」
ちんぷんかんぷんだ。不思議の国のアリスも、こういう気分だったんじゃないかしら。
これは不思議の国、夢なのに。
そんな、腑に落ちないのを感じとってか、サエマ様はほうと鳴いた。溜め息か。
「覚えていませんか。まぁ、無理もありませんか」
「……一つ、昔話をしてあげましょう」
「昔、話?」
背筋がぞわりと震えた。嫌な予感。いや、でも、これは……。
「遠く祖先から伝え聞いた話です。かつて、この世界には人間という種族が大いに栄えていました
彼らは実に不思議なもので、私たちに益をもたらすことも、害をもたらすこともありました。……まぁ、どちらかというと、害の方が大きかったようですが」
「そ、それで、本題は?」
急かす。聞きたい。聞きたくない。
心がざわめくけれど、最後の防壁はぐっと固く閉じられている。
サエマさまは目ざとくそれを感じ取ったようだ。
「それはあなたの記憶に直接、問い質すとしましょう……あなたに、その覚悟がありますか?」
逡巡する。まだ、確定していない。逃げられる。
でも、逃げたって、結局後ろから刺されるだけだ。
脚に柔らかい感触があった。キーシャが頭を擦りよせていた。
しゃがんで、目線を下げる。キーシャは言った。
「無責任かもしれません。でも、あなたなら、きっと大丈夫」
「俺らもいるぞ」
「おう」
ウィリとゴッケも寄ってきた。真っすぐな瞳に、決意が灯る。
「決めた」
重い腰を上げた。どうせ、知らなきゃいけない真実なら。
サエマさまは満足げに頷いて、
「では、私の目をよく見てください。五秒間数えた最後に、あなたは心の底に辿りつきます」
「なんと古典的な……」
呆れた。けど、やるからには真剣に。
じっとサエマさまの瞳を見る。満月のお月様を思い出した。
「行きますよ。五、四、三、二、一」
「ぜろ」
面白いように引っかかった。
〇
就業のチャイムが鳴った。一日学校の終わりは、解放感がたまらない……筈だったが、今日は一大事があとに控えていた。
あそこまで亮と紗希に言われては、流石に退くわけにもいくまい。
でも、その前に深呼吸……。
「悠里」
「わっ!?」
びっくりした。見ると、一が声を掛けてきた。
ただそれだけなのに、鼓動がおかしくなりそうだ。
「帰ろう?」
仏様のような穏やかさで、一はいつものように誘ってくれる。ついあやかりたくなるが、今日はそういうわけにもいかない。
「あ、あのね、イチ」
「うん?」
話があると分かるや否や、座って目線を合わせた。
「つ、伝えたいことがあって、その、……」
が、掠れて声が上手く出ない。もう一回言わないと、駄目だろうか。
「うん。分かった」
おろおろしていたら、存外あっさり頷いた。わかっているのだろうか、この意味。
「……後出しになるけど、そうすると、僕にも言わなきゃならないことがあるんだ」
そ、それはもしかして。いや、全く早まった気分でいけない。断られたって、珍しくもないだろう。
あぁ、緊張してきた。とりあえず、立ち上がる。
戸口を見ると、さっと二つの頭が動いた。
あの二人もきっちり観察してくれちゃっている。
亮はまだしも、紗希まで……なんだか似てきたな。
一も立ち上がったところで、ふと、遠くからサイレンが鳴った。
不快の極みのような音が鋭く唸りを上げて市中に響く。なにか言っているみたいだが、拡散して全く聞こえない。
なんだかんだ、ほんの少し残っていた生徒たちも、窓に顔を向ける。
隣を見ると、一が険しい顔をしていた。
「どうしたの、急に?」
「悠里」
今まで聞いたこともないような、緊迫した声。
自分まで気がぎゅっと締められる。血の気がすっと引いてきた。
隠れていた紗希と亮もいつの間にか隣に来ていた。私の顔をじっと見つめる。
開け放たれた窓から、ばんと乱暴にドアの開ける音がした。車だ。
「行こう、皆」
一が言った。二人は頷く。私は置いてけぼりだ。何も分かってないし、知らされていない。
「ちょ、ちょっと待ってよ!どうしたの皆、急に」
「ごめんなさい、悠里ちゃん……」
「事情は追って説明する。とにかく今は学校を出よう」
話が分からないけれど、この殺気の立ち方では従うしかないい。
私たちは廊下を小走りに駆けていく。周りの生徒は別段変わりなく暮らしていて、音楽室からは吹奏楽の練習がのんきに流れている。
「つい前に、亮が国際情勢の話をしたの、覚えているかな」
唐突に、一が聞いてきた。頭がこんがらがっているので、答えようもなく、
「ない」
としか言えなかった。
「この国を挟む二大国間は、核兵器を有している。今まで続いていた睨み合いが、ついに終わったんだろう」
「最悪の結果でな」
と苦々しそうに亮が加えた。紗希は思いつめた様子で、黙っている。
聞くのはそれで充分。後は馬鹿でも分かる。
つまりは始まってしまったのだ。戦争が。
何だかまるで現実感がなくて、ふわふわしている。
「今のは、ここをミサイルが通過したって警報だろう。今じゃニュースがあちこちでばかすかやってる」
校舎を抜けた。ちらほら帰る学生が、校門に止まるバンに目を向けている。前には二人の男女…ってあれは。
「父さん、母さん!?」
父母だった。父さんはすっかり肌が焼けて、でも相変わらず元気そうだった。お母さんはちょっとやつれたかもしれない。
「ただいま、悠里」
「ずっと留守にしていて、ごめんなさい」
「ううん、また会えて良かった……!」
心からそう言えた。二人とも無事だ。でも、あんまり喜んでもいられないらしい。
「悪いけれど、時間がないの。来て、あなた達も」
母さんが促して、すぐに助手席に乗った。父さんも頷いて、運転席に乗り込む。皆で顔を見合わせた。
選択肢は、一つだ。
ドアをスライドして先に男子が乗り込む。私と紗希が続く。三列分座席があって、私は一の隣に腰を下ろした。
シートベルトを締めて、それを確認すると父さんがエンジンを掛ける。ぐんと車道に滑り出た。
碁盤上の道路をあっちにこっちに進み、何回も折れ曲がって、とうとう止まった。
「降りて」
母さんが言った。皆が降りる。林の中をずんずんと進み、速足で、私達も後ろを歩く。途中から、舗装された道が出てきた。そうだ、話の続き。
「なんで、ここに来たの?」
母さんが静かに振り向いた。
「……もし人類に、その種の存続が危ぶまれる万が一の事態に備えて、国は人間という種族を保存するシステムを開発したの」
目前に巨大な鉄の扉が出てきた。秘密基地のシャッターといってもいいかも。
母さんは言葉を切って、シャッター横の小さなパネルをいじって、扉が鯨のように口を開ける。
ぞろぞろと入って、円形の床に立つと、また母さんが中央のコンソールを操作して、途端揺れが起こった。
「うわっ」
「すげぇ」
ごうんごうんと床は動く。これはエレベーターだった。一は感心そうに眺め、亮は興奮している。紗希はそれをなだめていた。
父さんはがっしりした腕を組んだまま、離れる入口を見上げていた。
ごとんと、動作が止まる。
「……これはある意味、死より酷い仕打ちなのでしょうね。でも、親のわがままだけど、あなたには生きていてほしいの」
「どういうこと?」
一が気の毒そうに母さんを見て、口を開こうとするが、父さんが割って入った。
「冷凍睡眠だ。万が一戦争が起こった場合、もう起こっちまったが、地上がどんな惨事に見舞われるかは想像に難くない」
「それで、私たちに未来を担わせるってこと?」
冗談じゃない。気持ちは分かる。分からないけど、分かる。生きていてほしいという気持ちは。
でも、それは、あまりにも。
「……皆まで巻き込んで」
「一君たちにはあらかじめ事情を話しておいたの。ご両親の承諾を得て。あなただけを置いていかないように」
「自分勝手よ……!」
「ごめんなさい……本当に」
「私たちのことはお気になさらず。必ず、上手くやってみせます」
「そうそう。もしかしたら、ただの杞憂ってこともあるだろうし、何でもプラスに考えなきゃ損だぜ」
二人が励ましてくれた。でも、思いを告げてくれても、私は納得がいかな……
「っ!?」
抱きしめられた。大きい体に。
温かい体温が皮膚に染み込んでくる。安らかさに、心が満たされていく。
「また、会える。きっと」
力強い言葉。この瞬間にも、空には爆弾が無数に注がれているのだろうか。
でも、今は。
ぎゅうと、抱きしめ返した。
「ほほう」
「悠里ちゃん……」
「本当に、良い友達に恵まれたわね、謙吾さん?」
「そうだなぁ、正枝……」
涙は止まった。流れていたことに、さっき気が付いた。そっと、抱擁を解く。
多分、大丈夫。もう、大丈夫。
「行こう」
全員が頷いた。暗い廊下を辿り、手動の扉を父さんが開く。
灰色の空間。薄暗くて奥まで見渡せないけれど、かすかに装置の動く音が聞こえる。
母さんと父さんがおもむろに、中央のテーブルから箱を持ってきた。
「これに着替えて。あと、金属製のものは全部脱ぐこと」
「男共はこっちでな」
部屋を隔てて、ダイバースーツみたようなものに着替える。嘘みたいな気分だ。
手伝いもあって、時間はかからなかった。向こうも終わったようだ。
母は休まず冷凍睡眠装置のコンソールを叩いて起動した。
「俺、一番乗りで」
亮が右端の装置に、乗り込んだ。真っ直ぐ立つ感じらしい。棺桶みたいだと不謹慎にも思った。
「僕も続こう」
一が奥の右側に入った。紗希を見た。なんとなく、手を握る。震えが、微かに伝わった。
「行きましょう」
「……うん」
紗希は左端に、私が奥の左の装置に入った。母さんが一声ずつかけて、三人の扉を閉めていく。空気が漏れ出すような音がした。
緊張してきた。どうなってしまうのだろう。生き残れるのか。生き残ったとして、その先は?
怖い……もう、引き返すことはできない。
「悠里」
気が付くと、父さんが見送りに立っていた。
「遅くなったけど、誕生日プレゼントだ。制服のポケットに入れたから、目覚めたときに開けてくれ」
「今じゃ、駄目?」
申し訳なさそうに頭を掻いて、頷いた。
「……分かった。待ってる」
「ありがとよ」
扉が徐々に閉まる。母さんが隣に来た。口を開く。
ごめんなさい。
「もう、気にしてないってば」
言っても、届かないんだろう。でも、言わなきゃ。
またね。
徐々に体温が奪われていく。吐息が白み意識が浅くなる。
会える、よね……。
〇
汗が止まらなかった。今まで凍っていたものが、全て溶けだして頭に流れて来た。
感情の波が一気に押し寄せてきて、どうにもならない。
ただ、叫びたかった。
「あ、あぁ、ああ……!」
声だって出ない。涙が零れ、あふれてきた。拭った。消えない。
ここが、現実だったんだ。
「……思い出しましたか」
エサマ様が、優しい声で言った。母さんの声がちらついた。
「……うん」
「今は、やるべきことがあるようですね?」
見透かしたように。そうだ、今なら分かる。三人が待ってる。
まだ、眠っている。
「わ、わ、わた、し、いかなきゃ!」
戻るんだ。駆け出す。足がもつれて、すっころんだ。また、目頭が熱くなる。
へこたれるもんか。
「悠里」
「……」
振り向かない。もう一度、立ち上がる。
「あなたが最も大切に思う者を、一番に助けてあげなさい」
分かってる、そんなこと。
走り出した。気が付くと、キーシャとウィリもついてきていた。ゴッケはウィリの頭上に。
「一緒に!」
「……えぇ!」
道を巻き戻っていく。
息が上がる。足ががくがくする。筋肉が悲鳴を上げる。
巨大な鉄の門は開いたまま。早速、入り込む。
円状エレベータのパネルに近付く。機械が認識して、ごとりと床が動いた。
もどかしい時間が過ぎて、着くや否やまた走る。
廊下を抜けた。最初の部屋だ。
「はぁ、はぁ……」
一番大切な人。皆大切に決まってる。でも、どうすれば。
「悠里さん」
「悠里」
二匹が声を掛けた。そうか、あなた達は……。
「分かった……」
息を吸い込む。開いた装置の隣に歩み寄る。
コンソールを触る。複雑かと思えば、簡単な方法のみが表示されていた。冷凍睡眠を解除するボタンを迷わず押した。
装置が音を立てて、煙を噴かしながら密閉を解く。徐々に、蓋が開く。
私は、倒れかかるその体を。
つよく、つよく、抱きしめた。