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第三話 「ボクは、花歩の存在が、いつも、すごく嬉しい」

 夏休みが終わり、始業式で久しぶりに会った美紗と真結にカレができていた。


「いつの間に?」

「夏休みの間に」

 それぞれ同じ部活の人らしく、夏の間中一緒にいたせいか、なんとかくそんな感じになったらしい。

 いい感じ、とは聞いていたけれど、それがイコール、付き合う、だとは思っていなかった。

「なんとなくなの?」

「なんとなくじゃない? わざわざ付き合ってくださいって宣言して付き合う人もいるだろうけど、なんとなく一緒にいて、お互い好きだってなったら、そうじゃない?」

 そうじゃない? と真結に言われたところで、そうだね、と答えられるほどの経験はない。


 始業式が行われる体育館に向かいながら、小声で話す。

「花歩も渡良瀬と付き合ってるんじゃないの?」

「たぶん付き合ってないと思う」

「何そのはっきりしない感じ」

 はっきりしていないから、はっきりしないのだ。


 渡良瀬くんは夏休みの間に三回うちに泊まっている。

 その間何かあったかといえば、一緒にご飯を食べる、海外ドラマを観る、抱きしめ合う、添い寝する、それ以外にない。

 よくわからないことは度々あったものの、肝心なことは何もない。ふわっと抱きしめられるたびに心が傾いていくのは私だけじゃないと思うけれど、気のせいかもしれない。

 そもそも私自身がはっきりしない。好きは好きでも情熱的に一気に燃え上がるような気持ちではなく、静かに雪が降り積もっていくような、そんなあやふやな高まりだ。


「でも一緒に講習受けてたでしょ」

「一緒に講習受けると付き合ってることになると思う?」

 つい、確証がほしくなってしまう。

 美紗と真結が私を間に挟んで顔を見合わせている。なんとなく呆れた雰囲気なのがいたたまれない。言わなければよかった。


 二人とも目立たないようにしているけれど、美紗は美人だし、真結はかわいい。実は男子に人気があることも知っている。目立たないようにしているわけでもないのに目立たない私は男子とは無縁だ。


「行きも帰りも一緒だったんじゃないの?」

「一緒だったけど……」

 前方に陽炎のような渡良瀬くんを発見した。相変わらず存在が無機質だ。

「仲よさそうに見えたけど」

 真結は講習には参加していない。美紗とは数学の講習で一緒だった。

 美紗からはそこで告白されたことは聞いてはいた。その表情から美紗の気持ちはなんとなくわかっていたものの、実際に二人にカレができたというのは、少なくない衝撃と焦りを生む。

「渡良瀬くん、教え方が上手いから、ついわからないと訊いちゃってただけだから」

「でもさ、渡良瀬が誰かと話してるの初めて見たけど」

「確かに。誰かと話してるの見たことないよね」

 実は私もない。そもそも存在に気付いたのは最近だ。

「私さ、花歩と一緒にいるの見て、初めて渡良瀬の顔と名前が一致したわ」

「私まだ自信ない。そういえば、うっきーの名字が浮田だって知ってた? 夏休みに入って初めて知ったよ」

「へー。ってか、あんま喋んない人だと名前まで気にしないからなぁ」

 私と同じで人付き合いが広くない美紗と真結の話を聞きながら、少し前を歩く渡良瀬くんの背中を眺めていた。

 うっきーってどんな人だったっけ、と思いつつ、学校で声をかけても大丈夫かな、とも思う。


「声、かけてもいいと思う?」

「は? 別にいいんじゃないの?」

 呆れ顔の美紗の声に後押しされ、小走りに背中に追いつき、声をかけた。

「渡良瀬くん」

 振り向いた渡良瀬くんの歩く速度が落ちる。それが嬉しかった。

「おはよ」と声をかけると、「ん」と返される。すぐ後ろに美紗と真結の気配がした。

「今日金曜でいい?」

「いいよ」

 嬉しくて心なしか声が弾んだ。

 そこから教室ひとつ分歩いたところで、後ろから美紗が話しかけてきた。


「ねえ、会話それだけ?」

 思わず渡良瀬くんを少しの角度で見上げる。同じ角度で見下ろす渡良瀬くんも言われた意味がわかっていないようだった。

「暗号?」

 真結の呟きに、思わず笑ってしまう。確かに暗号だ。

「ねえねえ、今日部活ないから、みんなでお昼食べにいこ。紹介したいし。渡良瀬もいい?」

 渡良瀬くんの足が止まった。驚いたように目を見開いているのが、長めの前髪の奥にはっきり見えた。

「都合悪い?」

「いいの?」

 訊いたら聞き返された。

 後ろに続く人の邪魔になっているようで、渡良瀬くんの腕を少し押して、歩くよう促す。

「渡良瀬、都合悪い?」

「いや……」

 驚いたままの渡良瀬くんは、始業式の間中、隣で肩を強張らせていた。


 うちの高校はかなり自由で、全校集会などの集会時に出席番号や背丈順に並んだりしない。クラスごとに集まった順に二列に並ぶだけだ。それで特に混乱もない。入学式と卒業式だけは出席番号順に並ぶ。


 始業式が終わり、教室に戻る道すがら訊いてみた。

「もしかしてお昼の約束嫌だった?」

「嫌じゃない」

「いいの?」

 それにたどたどしい頷きが返された。ちょっと笑ってしまいそうだ。

「緊張してる?」

 ばっ、と渡良瀬くんがこっちを向いた。図星らしい。

「美紗も真結も私の友達なの」

「知ってる」

「私に似た感じで自分のペースを持ってるから、渡良瀬くんとも気が合うと思う」

「いい?」と訊いてきた渡良瀬くんが、北棟へと続く廊下を曲がった。ついてこいということなのだろうと思い、あとに続く。

 後ろにいた美紗と真結が不思議そうな顔をしていた。


 人気がなくなったところでくるっと振り向いた渡良瀬くんが、そっと抱きしめてきた。どきん、と心が悲鳴を上げる。

 学校なのに! と焦りながらも、いつものようにそっと丁寧に抱きしめ返す。

 遠くに聞こえるざわめきよりも、自分の胸の音の方が大きく響いて、あやふやだった自分の気持ちが確かな輪郭を描いた気がした。


「お昼、楽しみだね」

「うん」

 首元に顔を埋めた渡良瀬くんが、ふーっと、長い息を吐いた。くすぐったくて少しだけ首をすくめた。




 課題の提出をし、担任から二学期全体の行事説明などがあり、ホームルームが終わる。

 鞄を持って立ち上がったまま途方に暮れている渡良瀬くんに近付き、驚かさないよう、そっと声をかける。

「もう行ける?」

 ぎこちなく頷く渡良瀬くんの緊張が伝わってくる。いつもより口元が引き結ばれている。

「花歩ー!」

 廊下から真結の声が聞こえた。

 渡良瀬くんの腕をそっと押して、「行こう」と声をかけ、連れ立って教室から出る。


 美紗の「二組の真野」と真結の「四組の鎌田くん」との紹介に、二人の男子に向かい「二見です」と会釈し、「同じクラスの渡良瀬くん」と紹介する。私たちは三組だ。


 真野くんは陸上部の短距離の選手らしい。鎌田くんは吹奏楽部で主にシロフォンという謎の楽器を担当しているらしい。

 渡良瀬くんが小さく「シロフォン?」と呟くと、鎌田くんが「木琴だよ」と答えていた。

「じゃあ、グロッケンは?」

「は? 花歩知らなかったの? 鉄琴だよ」

 呆れた真結に「信じられない」と怒られた。口をとがらす真結は仏頂面でもかわいい。

 真結と鎌田くんは二人で全てのパーカッションとやらを担当しているそうで、ほかにもティンパニーや曲によってはドラムやシンバルなども扱うらしい。ほかにも様様な楽器の名前を並べられたけれど、正直どんなものかわからなかった。

 うちの学校の吹奏楽部はかなり規模が大きく、いわゆる強豪らしい。それすらも知らなくて何度も真結に「信じらんない」と怒られ続けた。

 クラッシックは未だに苦手だ。


 真野くんはスポーツ選手らしく身体が大きいせいか、一瞬怖い感じがしたけれど、はきはきと話す声は明るく朗らかだった。手足が長くすらっと背も高い美紗と並ぶと、二人ともモデルみたいに華やかだ。

 鎌田くんは渡良瀬くんほどの身長に少し垂れ目で、話し方も柔らかく、見るからに優しそうな人だ。ふんわりとかわいらしい真結と雰囲気が似ている。


「二人とも優しそうでよかった」

 前を歩く二組は、それぞれで会話している。当たり前に手を繋いでいるのを見ると、お互いにはっきりした存在である彼女たちが少し羨ましくなった。




 入ったファミレスはお昼前だったせいか空いていて、コーナー席に案内してもらえた。

 真結に鎌田くん、真野くんと美紗、私に渡良瀬くんの並びで席に着く。


 メニューを渡良瀬くんと一緒に見ながら、何にしようか悩む。

「渡良瀬くん何にする?」

「肉」

「そういえばこの間もステーキ食べてたよね。お肉好きなの? 今日はハンバーグ?」

「うん」

「私どうしよう。家であんまり食べないからパスタにしようかな」

「ん?」

「ほら、一人分だとソースとか面倒くさくて」

「いい?」

「あ、そっか、そうだね、じゃあ今日はパスタにする? じゃあ私もお肉系にしようかな」

「ん」

「あ、半分こしてもいい?」

「うん」

 決まったところで顔を上げると、みんなの不思議そうな顔があった。

「え、なに?」

「あのさ、花歩、なんで渡良瀬の言ってることわかるの?」

「なんで『いい?』から『じゃあ今日パスタにする?』になるわけ?」

 思わず渡良瀬くんを見れば、彼も私同様、美紗と真結に言われた意味がわかっていなかった。

 今の会話を思い出しながら、順を追って説明する。

「一人だとパスタはあまり食べなくて、渡良瀬くんがいれば二人分になるから、市販のソース使って簡単にできるなって思って、じゃあ今日はパスタにしようかなって?」

 説明がこれで合っているのかがわからず、語尾が曖昧に上がる。


「えっ、今日の夜も一緒にご飯食べるの?」

「うん」

「うん、って花歩、だって……」

 美紗が耳元で「家に呼んでるの?」と訊いてきた。美紗と真結は私の一人暮らしを知っている。

「うん」

「それで付き合ってないの?」

 そこが私もわからない。思わず首をひねると、いきなり刺々しい雰囲気になった美紗が私越しに渡良瀬くんを睨みつけた。


「花歩のこと、好きなの?」

 美紗の咎めるような声に、慌てて反対側を見れば、渡良瀬くんがすんなり頷いた。

「おおっ」と響めいたのは真野くんと鎌田くんだ。真結は楽しそうな顔をしている。


 この場合、渡良瀬くんの「好き」と美紗の言う「好き」はイコールじゃない可能性がある。

「えっとね、渡良瀬くん、美紗の言う好きは、人として好きの好きじゃないよ?」

 自分でも回りくどい言い方だと思ったけれど、渡良瀬くんは「知ってる」と真顔で答えた。急に体温が上がった気がした。

「そっか」

「いい?」

「うん」

 笑顔で頷きながら答えると、渡良瀬くんは嬉しそうに笑った。私も嬉しい。


「ごめん、今の会話わからない」

 真結が軽く手を上げながらそう言うと、毒気を抜かれたような美紗も、真野くんや鎌田くんまでもが手を上げた。

 さすがに説明する気にならず、にやけそうな顔を引き締めながら、定員さんを呼ぶためにテーブルの端に置かれていたチャイムを押した。


 散々「解説しろ」だの「暗号禁止」だの言われながら、渡良瀬くんが少しずつみんなに馴染んでいく。嬉しいような淋しいような、複雑でいてなんだかほんわりした不思議な気持ちになる。


「そういえば、二学期の校外学習って山だっけ?」

 うちの学校は修学旅行がないせいか、一学期と二学期に校外学習が行われる。二年二学期の校外学習は一泊だったはずだ。

「そう。確か今年は、志賀と那須と蓼科の三つに分かれるはず。去年は海だったらしい」

 真結に鎌田くんが答える。

「どこにする?」

「真野くんと鎌田くんはクラスの子たちと一緒じゃなくていいの?」

 訊けば、適当に混じる、と二人からマイペースな答えが返ってきた。美紗や真結と気が合うのもわかる気がした。

「花歩はどこがいい?」

 真結に訊かれ悩む。正直行ったことがないから地名を言われてもピンとこない。どこも同じに思える。

「どうしよう、渡良瀬くんはどこがいい?」

「いいの?」

「いいよ」

「だから、暗号禁止だってば」

 美紗の笑い声に、真野くんが「俺、今のはわかった」と笑っている。

「どこ?」

「蓼科」

 それを訊いた真野くんが「じゃあ、みんなで蓼科だな」と言えば、渡良瀬くんが驚いた顔になった。

「いいの?」

「いいだろう? なに、渡良瀬は俺たちと一緒じゃ嫌なわけ?」

 驚いた顔のまま首を振った渡良瀬くんが、小さな声で「いいんだ」と呟いた。

「先輩から聞いたんだけど、定数になると閉め切られるらしいから、申込用紙配られたらすぐに出さないとね」

 鎌田くんの声に、みんなが一斉に「わかった」と頷く。




 帰りがけにスーパーに寄って、パスタの材料を買う。ソースがたくさんあって迷った。

 渡良瀬くんがずらっと棚に並ぶレトルトのソースをじっと眺めている。

「ほら、パスタって一人前百グラムだけど、私の一人前ってその半分より少し多いくらいで、一人前のソースだと余るのね。かといって半分取っておけるわけでもないし、ソース多いと味が濃すぎて嫌になるし、一人前食べると胃が痛くなるし。おまけにパスタは作り置きできないでしょ」

 納得したのか、渡良瀬くんの視線がほかのソースに移った。

 一通り眺め終わり、渡良瀬くんを見れば、新商品のポップが付いたソースに目が釘付けだった。

「それにする?」

「いい?」

「いいよ」

 ほかにも色々買い込んで、マンションに戻る。

 今日は初めから着替えを持っていたのか、渡良瀬くんはそのまま部屋まで付いてきた。と思ったら、買い物袋をキッチンに運ぶと、一旦家に帰った。

 渡良瀬くんはいつもさりげなく紳士で、そんな風に扱われるとどうしていいかわからなくなる。とくん、とくん、と胸が騒いで困る。

 冷蔵庫に買ってきたものを入れながら、付き合うことになった実感が今更ながら湧いてきた。


 真希さんに電話する。




 歯を磨き、シャワーを浴び終えたところで、インターホンが鳴っていることに気付き、慌ててバスタオルを巻いてモニタをのぞき込む。

 解錠ボタンを押し、急いで服を着る。とりあえず、部屋着のキャミワンピ一枚で、再び鳴ったインターホンに、玄関のドアを開けた。

「ごめん、何回か鳴らした? シャワー浴びてた」

「大丈夫」

 さすがにマンションの入り口で待つのは嫌だろう。

 このマンションは中層棟と低層棟のふたつからなり、この部屋は三階建ての低層棟の三階にある。

「あのね、オートロックの暗証番号、2323だから。解錠の仕方、わかるよね」

「二見?」

「そう。やっぱりダメ?」

 真希さんにも、その暗証番号はない、と何度も変えるよう言われている。言われているものの、ほかに覚えやすい番号が浮かばず、そのままになっている。

「あとね、これ合い鍵」

「いいの?」

「いいかなって」

 驚いたように目を丸めていた渡良瀬くんが、感慨深げに渡した鍵をゆっくりと握り込んだ。

「その代わりに真希さんに会ってほしいの、嫌じゃなければ」

 真希さんについてを簡単に説明すると、あっさり頷いてくれた。付き合ったばかりで嫌がられるだろうと思ったのに、あまりに平然と頷くから驚いてしまう。

「本当にいいの? 一応お母さんにあたる人なんだけど」

「いい」

 握りこんだ鍵を返すまいと背中に手に回して隠そうとする渡良瀬くんが少し面白い。

「なくさないでね」

「なくさない」

 その「なくさない」は鍵だけのことじゃないように聞こえた。渡良瀬くんの目がすごく真剣だったからかもしれない。




 渡良瀬くんはサスペンスやミステリーが好きだ。

 次に見始めたドラマもまたもや犯人がわからない推理もので、観るたびに頭を悩ませてしまう。


「もう少し涼しくなったら、どこかに出掛ける?」

 不意に思い付いて訊いてみれば、渡良瀬くんがまたもや目を丸くしていた。

「家の方がいい?」

「たまになら」

「うん。たまには出掛けよう」

 すっかり定位置になった渡良瀬くんの足の間、紅葉を見に行きたいな、と小さく呟きながら、彼の膝の上に顎をのせた。なんとなくちょうどいい位置に膝がある。

 かすかに、髪に何かが触れた。ゆっくりと首を傾けると、渡良瀬くんが怖々とした手つきで髪をひと房摘まんでいた。とくん、と胸が鳴る。


「髪、伸びたよね。そろそろ切ろうかな」

 初めて渡良瀬くんと一緒に帰ったときは鎖骨のあたりで毛先が揺れていた。今はそれより少し伸びている。

「いいよ」

「ん、じゃあ、伸ばそうかな」

 なんだか照れくさくなって、彼の膝におでこを付けた。とくん、とくん、と胸が鳴る。

 そっと、丁寧な仕草で髪が梳かれている。それがなんともいえず心地よくて、つい、うとうとと微睡みかけてしまう。

「眠い?」

「んー。今日初めて会った人たちだったから……」

「緊張?」

「うん、緊張した。真野くんも鎌田くんも、普通に話せてよかった。美紗と真結のカレが、あの人たちでよかった」

「人見知り?」

「うん。なんか、慣れない人だと何か話さなきゃって思うから、緊張して疲れる」

「うん」

「でも渡良瀬くんは、話さなくても一緒にいてくれるから、すごく好き」


 髪を梳いていた指先が止まった。

 そっと腕を引かれ、ソファーの隣に座らされる。


「ボクでいい?」

「ん。渡良瀬くんがいい」

 そっと抱きしめられて、そっと抱きしめ返す。また、とくん、とくん、と胸が鳴る。

「私でいい?」

「花歩がいい」

 渡良瀬くんが口にした「花歩」の音が、とてもきれいなものに聞こえた。

「もう一回呼んで」

「花歩」

 耳元で丁寧に発せられた音が、特別に響いた。

「渡良瀬くん、あのね、手、繋いでもいい?」

 身体がゆっくりと離され、手が握られる。私よりずっと指が長くて、大きくて、骨張っていて、あたたかい、男の人の手だった。

 じっと繋がれた手を見つめながら、気持ちを伝える。

「今日、美紗も真結も、カレと手を繋いで歩いてたでしょ」

 さっきから、胸が騒がしくて苦しい。

「あれ、羨ましくて。そしたら渡良瀬くんが、いい? って言ってくれて、すごく嬉しかった」

 繋いでいた渡良瀬くんの指先が動いて、指が絡まり合う。

「ボクは、花歩の存在が、いつも、すごく嬉しい」

 真剣な目で一言ずつ丁寧に言われて、胸が一杯になって、嬉しいのに苦しくて──涙が滲んだ。




 か、ほ──……。

 かほ──。


「花歩、起きて」

 んー、と唸りながら寝返りを打つ。

 肩が掴まれて揺さぶられた。

「花歩、起きて!」

 んー、と唸りながら、薄目を開けた。目の前のシルエットの向こうから射し込む光は、まだ朝の角度だ。眩しくて目を瞑る。


「渡良瀬くん、まだ早くない?」

「誰かいる」

 誰か? んー、と唸りながら身体を起こす。途中で渡良瀬くんが背中を支えてくれ、自分で起きるよりも早く起こされた。


「真希さん?」

 半透明のアクリル引き戸の向こうで人影が動く。

「起きた? 開けるわよ」

 からら、と軽い音を立てて引き戸がスライドしていく。

「んー、ちょっと早くない?」

「課長が今日休日出勤だって言うから、ちょうどいいと思って一緒に出てきた」

「また課長って呼ぶ。お父さんまたいじけるよ。もう課長じゃないし」

 何年か前によくわからない横文字になったはずだ。日本企業なのだから日本語でいいのに。


 もう一度寝ようと身体の力を抜こうとしたら、渡良瀬くんに「寝るな」と無理矢理背中を支えられた。

「パニーノ買ってきたわよ」

「ありがと」

「花歩ちゃん、さすがに彼がかわいそうよ」

 言われて目元を擦りながら渡良瀬くんを見れば、寝癖が付いたまま、気まずそうな顔をしていた。

「あ、渡良瀬くん、真希さん。お父さんの奥さんになってくれた人。真希さん、彼が昨日話した渡良瀬くん」

「渡良瀬くん、先に顔洗う?」

 真希さんの提案に、一瞬目を彷徨わせた彼は、「はい」とお行儀のいい返事をして洗面所に向かった。

「花歩ちゃんも起きなさいよ」

「んー。昨日遅くまでドラマ見ちゃって」

「あとでお昼寝すればいいでしょ」

 渋々起き上がり、ベッドを整えて洗面所に向かう。不安そうな顔の渡良瀬くんが待ち構えていた。

「真希さんは大丈夫だよ」

 そう言いながら、彼の前髪をぱちんと留めた。

 急いで顔を洗って、渡良瀬くんと一緒にリビングに戻る。


「渡良瀬くん、どれにする?」

 照り焼き、エビとアボカド、ローストビーフ、とひとつずつ指差しながら真希さんが訊いた。

「真希さん、私全部食べたい」

「はいはい、そう言うと思った。渡良瀬くんもそれでいい?」

 はい、とお行儀よく返事をする渡良瀬くんの緊張が伝わってくる。

 真希さんがパニーノを三つにカットしている。

「渡良瀬くん」

 名前を呼んで、そっと抱きしめる。そっと抱きしめ返され、首元に顔を埋めた渡良瀬くんは、いつもより大きく息を吐いた。それなのに肩の力は抜けない。

 背中をぽんぽんと手のひらで緊張を解すように叩く。


「大丈夫?」

「なんとか」

 身体を離すと、そこでようやく渡良瀬くんは床に敷かれた小さな布団の上に仰向けで転がっている小さな物体に気付いたのか、ぎょっとした顔になった。

「ああ、弟の歩」

「寝てるから起こさないでね。起きるとうるさいから」

 真希さんに向かって何度も小さく頷いている渡良瀬くんが面白い。

「渡良瀬 駿です。花歩さんとお付き合いさせていただいてます」

 席に着く前に、渡良瀬くんがそう言って真希さんに丁寧に頭を下げた。渡良瀬くんの名前は、かける、だった。

「二見真希です。花歩ちゃんの親友です」

 真希さんはいわよる継母だけれど、その前に一番の理解者だ。


 先に食べましょ、話しはそれから、と軽やか笑う真希さんに従う。

 私と真希さんの倍の量が渡良瀬くんのお皿にのっている。渡良瀬くんはわりと朝からもりもり食べる人だ。もりもり食べるわりに痩せている。


 食べ終わるタイミングを見計らったかのように弟の歩が目を覚まし、ぐずり始めた。

 真希さんが歩を抱き上げソファーに座ってあやしている間に、渡良瀬くんと一緒に食器を片付け、ソファー座る真希さんの前に二人並んで座った。

 なぜか真希さんまでソファーから降りて歩を抱えながらラグの上に座る。足を崩す私や真希さんとは違い、渡良瀬くんは姿勢正しく正座している。

「渡良瀬くん、一度両親にご挨拶したいんだけど、できるかな」

 渡良瀬くんは束の間口を噤んで考え込んだあと、「難しいと思います」と真希さんの顔を真っ直ぐ見返した。真希さんも真剣な顔で渡良瀬くんを見つめている。私もよくこの目に見つめられてきた。

「そっか。それは何かあったとき、渡良瀬くん自身が責任を取ると考えていいのかな」

「かまいません」

 きっぱりと言い切る渡良瀬くんの眼差しは真剣そのもので、いつもの彼とは違って見えた。

「ちなみにご両親は今どこに?」

「父はおそらく国内にいません。母はおそらく実家のある島根にいます。彼らは四年前に離婚しています」

 おそらく、という投げやりに聞こえた言葉は、彼がその二人に興味がないことを言外に伝えてきた。彼ら、という言葉からは嫌悪すら感じた。

「渡良瀬くんはどこに住んでるの?」

「桜ヶ丘にアパートを借りてます」

 初めて知る事実に、驚きを隠せなかった。

「花歩ちゃん知らなかったの?」

「うん、知らなかった」

 俯いてしまった渡良瀬くんを見て、慌てて言葉を繋ぐ。

「あ、一人暮らしだったことにびっくりしただけ」

 ぱっと顔を上げた渡良瀬くんに、「知ってたら毎日一緒にご飯食べたのに」と小さく文句を言ったら、彼は少しだけ目を細めた。

「ちなみに家賃や生活費は? ご両親が払ってるの?」

「いえ、全て自分で払ってます」

 またしてもびっくりした。

「でもうちの高校、バイト禁止だよね」

「祖父の遺産が……」

 そう言って、ぽつぽつと話し始めたことに、私も真希さんも顔をしかめてしまった。


 渡良瀬くんの父方のおじいさんは、彼が中学一年の終わりに他界した。その際、遺産の全額を渡良瀬くんだけに残したらしく、そのせいで両親との間がギクシャクし、結果、両親は彼の存在をないもとのして扱うようになった。

 遺産管理を任されている弁護士さんと話し合い、家を出て、一人暮らしを始めたのが中学三年生の時だったそうだ。


「遺産といっても莫大なものではなく、手元に残ったのは数千万ほどだったのですが……」

「ご両親は許せなかったのね」

 はい、と小さく呟いた渡良瀬くんは、悲しいだろうに平然としていた。

 数千万円は私にとって想像もできないほど莫大だと思うけれど、彼にとってはそうでもないらしい。

「高校の入学手続きなどは全て弁護士の堺さんにお願いしています。堺さんには会えると思います」

「わかったわ。念のため、連絡先だけあとで教えてちょうだい」

 はい、と答える渡良瀬くんは、小さな声で「言わなくてごめん」と呟いた。

「渡良瀬くん、一緒に住む?」

「いいの?」

「いいよ」

「よくないわよ。花歩ちゃん、二人ともまだ未成年なのよ」

 真希さんが苦笑いしている。

「ここでどれだけ一緒にいてもいいけど、やっぱり住所が一緒になるのはまずいわ」

「一緒にいてもいいの?」

「だって一緒にいるつもりでしょ? 成績落とさないでよ。あと、避妊はしっかりしなさい」

 いきなりのきわどい発言に、渡良瀬くんは特に怯むでもなく「その時になったらしっかりします」と真顔で返していた。

 むしろ真希さんの方が、「一緒に寝てるのにまだなの?」と驚いたあとに、「ああ、だから見られても平気だったのね」とよくわからない納得の仕方をしていた。

 真希さんは時々こんな風に私にはわからない納得の仕方をする。


「それから、福澤先生にはお付き合いしてること、報告しときなさいね」

 いきなり出てきた担任の名前に、渡良瀬くんが不可解な顔をした。

「あのね、福澤先生、真希ちゃんのいとこなの」

「だから」

「そう、ちょっと気にかけてくれてるの。みんなには内緒ね」

 渡良瀬くんが素直に頷く。

「あと、お正月は渡良瀬くんもうちにおいで」

 驚いて目が丸くなっている渡良瀬くんに、真希さんが笑いかける。

「一緒に年越ししましょ。ついでに花歩ちゃんと一緒に歩の相手もして。私も正月くらいゆっくりしたい」

 さっきからじっとしていない歩をあの手この手であやしていた真希さんの本音が出た。歩き始めたせいか目が離せない。今も目の前で尻餅をついた歩を渡良瀬くんが焦りながら抱きかかえている。


「もうひとつ」

 と、渡良瀬くんは私に歩を預け、自分の鞄の中から何かを取りだした。それをローテーブルの真希さんの前にすっと差し出す。

「ボクは、中学二年の時に一年半ほど休学しています。ですので、実際には花歩さんより、ひとつ年上になります」

 差し出されたカードは運転免許証だった。

「渡良瀬くん、免許取ったの? いつの間に?」

 思わず口を衝いた言葉に、「放課後と夏休み」とだけ返された。渡良瀬くんが少し震えているように見えた。

「ボクの事情は、これで全部です」

 俯いてしまった渡良瀬くんに手を伸ばす。膝の上で握りしめている拳に、そっと、できるだけ丁寧に手のひらを重ねた。


「渡良瀬くん、五月二十五日生まれなのね」

 その真希さんの声にはっとした。俯いたまま顔を傾けた渡良瀬くんと視線が絡む。

「あの日……」

「ボクは、最高のプレゼントをもらったんだ」

 それはあの日、日誌に記入した日付だった。


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