1 零戦
「ぁぁぁぁあああああああああああ!!」
口から洩れる叫びは自分自身の、中島防人の声だとわかっている。
けどどうしようもない。どうすることもできない。
なぜなら防人、現在絶賛「墜落」中だからだ。
(だぁから空は! 飛行機はイヤだったんだぁぁああああっ!!)
こっちは心の叫び。
もう目も口も開けていられないのだ。
身体は重力の作用に忠実に、落ちている。
高度六千とか七千メートルから人体が落ちたら、落下速度は最終的にどれほどのものになるのか。
いまこの状況で冷静に考えるのはとても無理、な防人に代わって計算すると、防人の体重が六十キロ弱、高度約六千メートルで、最終的に時速百八十キロ弱ほどになる。
けっこうな速度で走っている車の窓から顔を出すと、すごい風で顔が痛いくらいだし、ヘタをすると目も開けていられないどころか呼吸もできない。
せいぜい時速百キロいかないくらいでそれだ。
その数倍すごいヤツ、と思えば間違いない。
ちなみにスカイダイビングで飛び降りるのは、せいぜい高度二千とか三千メートルだ。
だからそれはもう、風圧ってもので身体がギュゥゥゥゥ、と押され、つぶされるような、風圧だけで死ねるような、それほどの圧迫感。
(いや、「感」じゃないし、マジ圧迫! マジ死ぬ!)
なぜ。
なぜこんなことになっているのか。
ことの起こりは修学旅行だ。
(てか、そんなとこから語り起こしてる場合かよ!)
思わず自分で自分にツッコミを入れようと口を開いたが、
「ヴぉあぉぁああああ! ごぉあああぉあおごろごごおおぁあ!」
くらいにしか発せられなかった。
簡単に言うならば、飛行機が落ちた。墜落した。
墜落した、は結果であって、いまこの時点、防人が落下中のこの瞬間には、まだ墜落ではない。
空中分解、空中爆発、くらいが適当だろう。
修学旅行でオーストラリアへ向かう城北工業高校二年の一行が乗っていたカンガルーマークのボーイング787。
最新鋭機に防人が喜んだのもつかの間、就寝時間中に、不意に大きな音がして目が覚めた。
爆発音か? と思ったらもう空中にいた。
その直前に、身体は揉みくちゃというかゴンゴン、ガンガンぶつけられ、屈伸や柔軟運動でも絶対やらないような超無理無理な姿勢を超乱暴に強いられ、と思ったら、すべてが取り払われた自由な空間にいた。
つまり空中に投げ出されていた!
そこから先は、落ちるしかない。
だから今、落ちている。
回りなんかぜんぜん見えない。気持ちの余裕も、物理的にも無理だ。
だから爆発し、四散した旅客機の機体がどうなった、とか、同級生や先生たち、客室乗務員のお姉さんたちとかは、確認のしようもなかった。
いちばん確実なのは、今まさに、防人といっしょに落ちている、だろう。
意識があるか、身体は全部そろってるか、は別にして。
最初にチラッ、と海が見えた。
落ちる先は海だろう。水深千メートル、とかの……。
時速百八十キロで叩きつけられる水面は、コンクリートと同じに決まってる。
死んだ。
まちがいなく死ぬ。
過去形と現在形の違いは、あと数秒の差でしかない。
それほど確実に訪れる「未来」。
未来、って将来のある明るい言葉じゃなかったのか。それが百パーセントDEATHだとは。
DEAD、DEATH、DIE、どれがどの時制だったか。そんなことが一瞬頭に浮かんで、
(あと数秒しかねーんだぞ! もっと別のこと考えろ! もっと、これまでの人生走馬灯とか、そういうヤツ!)
防人は念じたが、なにも浮かばなかった。
いよいよダメか。
いや、ダメにはもう決まってるのだが、誰だって自分の死を、というより自分自身を、スペシャルでプレミアムな、特別なものだと、そうしたいと思っている。
けど、無理なようだ。
とどのつまり、防人はスペシャルでもプレミアムでもない、ただの一般人、一般男子高校生、それも成績は中の下、特別な家系でもなく兄弟姉妹もなく、彼女いない歴=年齢の、どうでもいい、ただの日本の人口の約一億三千万分の一でしかないわけで、その死もまたただの犬死に、雑魚死に、モブ死にでしかない。
(短けえ人生だったなぁ)
「もが! もぼぼぐぽがぉぼ!」
まだ十七の誕生日を迎えていない、正味十六年間、日数にして六千日弱、時間にして……とにかく、その人生が短かったのか、よくわからない。
が、長くダラダラ生きてもしかたないし、ガンとかで痛く苦しい闘病を何年も強いられるのもゾッとする。
そうだ。ただひとつ救いは、このままなら一瞬で死ねるということ。
苦痛もなく、瞬間的に死が訪れるだろう。
そこだけは唯一ラッキーと言えるかも。
(行けるかもしれないしな……天国ってとこへ)
防人はもう無理に考えるのも、思い出すのも止めた。
ただ、待った。
すべてを受け入れる、その瞬間を。
(……んぉ?)
とつぜん、風向きが変わった。
いや、というより、
「落ちて、ない。つーか、登ってる!?」
猛烈な速度で落下していた防人は、今、猛烈な速度で空を昇っている。
上昇しているのだ。
その証拠に、目を開けると登って行く先、頭の上は空で、輝く明るい太陽が見える。
落ちている、と思ったら昇っていた。
わけがわからない。
が、こうなったら、海に叩きつけられて死ぬのは免れたのか。それともこんどは成層圏を突き抜けて宇宙で窒息死か。
そもそも全部、錯覚で幻なのか。
(はんっ! 正解は③! だろ)
そんなにうまくいくはずがない。現実はラノベとは異なる。
都合よく異世界だの別次元だのへ転生したり召喚されたりするわけがない。
ちょっとした幻を見せて、安心したところを海へドボン。
もしかすると、これがそうかもしれない。死のまえの、走馬灯がわりなのかも。もっともそれだって、脳内になんとか、ていう物質が分泌されてるとか、そういう……。
「だいじょうぶ、ですか!?」
声がした。
それもごく間近で。
声だけじゃない。手も、握られている。
(とうとう幻だけじゃなくて、幻覚まで……もう、マジで終わり、死ぬんだな、オレ)
「しっかりしてください! 目を開けて!」
女性の声だ。それもかなり若い。
感触だって。感じる。あたたかくやわらかい、それでいて華奢な、手。
「こんな土壇場、どん詰まりで色気とか萌えに走るとは。オレの脳みそ、そうとう腐ってんな。それとも、よくやったって感じ、か……」
自分の声、言葉が聞こえる。
さっきまで、風圧で口を開けることもできなかったのだ。驚いて防人が目蓋を開く。そこに、
「よかった! 気が付いたんですね!」
顔。近い! それも、
「かわい、ぃ……ぇええ? ああっ!?」
大きな黒い瞳がまっすぐにこっちを、防人を見つめていた。
秀でた額に、切りそろえた前髪。真っすぐな黒髪は、ポニーテールにまとめて、なびいていた。
一見して十代半ば、つまり、
(女子高生? いよいよオレの妄想もここまで、って……いや、ある。ちゃんとあるぞ、手が繋げる。顔だって!)
「えっと、キミは」
防人が話そうとしたときだった。
「すいません! わたしをつかんで! 抱きついてください!」
少女が言う。それも、さっきよりずっと真剣な表情と声だ。
「は? いや、抱きつくって、見ず知らずの、いま会ったばかりの人にそんな。それも女子高生なんかに抱きついた日にゃ、痴漢決定で警察に突き出されるから。痴漢冤罪で人生棒に降ることになるし! ……あれ? この場合冤罪じゃないのか。というより、人生もう終わってたんじゃ」
さまざま考えが交錯するなか、
「時間がないんです! すぐ、抱きついてください。もう、落ちちゃう!」
さらに少女が。
よく見ると、その姿はかなり変わっている、というより異様だ。
(メカ? 背中に、いや、腕や脚にもメカ……それも)
プロペラとか、翼に近い。
そして気付いた。
ゴゥッ! と吹きつける強風。息もできないほどの風圧。
「やっぱり落ちてる! 間違いない!」
「しっかりつかまって! 早く! いいですか、ぜったい手を離さないでくださいね!」
「ぅあっ、は、はいぃ!」
逆に少女のほうが、グッと防人を引き寄せる。
ほとんど抱きかかえられるようなかっこうになりながら、防人も少女の腰にしがみついた。
(いいのか、これ!)
だがそれしかない。
少女の身体、背中のほうは例のメカでいっぱいで、つかまるところがないからだ。
それにしても、
(これだけで飛んでるのか? 鳥人間とか、そういうメカとはちょっと違うみたいだけど)
ネットの動画なんかで見る、超小型ターボファンエンジンを背中につけて飛ぶ「ひとり乗り」飛行機。
ひとり乗り、というより人=飛行機の、だから鳥人間、なんて呼ばれたりする飛行デバイスのそれとはずいぶん印象が異なっている。
なんというか、
(ちょっとクラシックっていうか、レトロな)
そこまで考えたときだ。
「きゃぁああああー! やっぱりダメぇええ! ふたりだと重量が……引き起こし、できませんっ!」
迸る悲鳴。見ると、少女が歯を食いしばりながら、なにかに耐えている。いや、けんめいに力を込めていた。
「だいじょうぶか! どうしたんだ」
思わず防人が聞くが、なんとなく状況はつかめた。
少女は防人を抱えたまま、落下を止めようとしている。少なくとも、この垂直落下をゆるやかな降下に変えようとしているのだ。
「どうしても、速度が落ちなくて。それで、強引に引き起こそうとすると、機体の強度が……」
「つまり、バラバラになるってことか」
バラバラならもう防人は経験している。乗っていた旅客機が空中分解して空へ放り出されたのだから。
「ごめんなさい!」
少女はあやまるが、その顔には笑みが浮かんでいる。眉は思い切り「八」の字に下がっていたが。
「オレがいるから、ダメなのか? オレを抱えてるから。だったら、オレを離せばいい。オレが手を……」
(この子まで巻き添えにすることはない。そんなのダメだ。死ぬならオレだけでいい。もともとその予定だったんだから)
防人が手を自分から離そうとすると、
「ダメです!」
ギュッ、と握られた。引き戻される。少女に抱き締められた。
「おおお、おいっ!」
「ひとりでなんてダメです。落ちていくあなたを見て、助けようとしたのはわたしです。だから最後まで!」
「いや、でも!」
それでも少女は手を離さない。
防人は、ハッとした。
(オレなんて、プレミア感皆無の雑魚キャラ、モブキャラなのにこのコは……オレを助けようとして、最後まで)
これまでの人生で、防人が人の命を助けたことなんてない。助けようとしたことだって、なかった。
なのにこのコは。
自分を犠牲にしてまで、防人を救おうとしてくれている。
「でもダメだ! このままじゃふたりとも犬死になっちまう。なんとか……なんとかならないのか、なんとか!」
少女が手を離さないなら、ほかに方法は! ……ない。やはりない。なんとも、ならない。
(やっぱりか。ひとりがふたりに増えたって、うまくいかないのは変わらないってか。くそっ! せめてこのコだけでも)
防人が目をやると、海面がどんどん近づいて来ていた。
ただ一面の青から、波の動きまでが見てとれる。さらに、ときおり白い波とう見てとれるころには、
「……っ」
えっ、と思うと、さらにギュッと抱きしめられた。というより、少女は防人をかばって、自分の身体やメカで包み込もうとする。
防人の身体より先に、自分が海面にぶつかるように、だ。
たとえ、けっきょくはふたりともザクロのように潰れてしまうとしても……。
(ダメだ、ダメだダメだ、なんとかしろ、なんとか、なんとか! なんとか!!!)
そのときだった。
「えっ」
こんど、つぶやいたのは少女のほうだ。
つられて、防人も目を開く。その目に、
「これ、は!」
金色の霧のようなものが見えた。しかも防人の身体から漏れ出している。風にも飛ばされず、それは少女の身体へと流れて、
「ほぁぁあ、すごい、力が湧いてきます。身体が、全部元気になって……できます! わたし、できる! ぇぇぇええええーーーいっ!!」
表情が変わる。
自信にあふれた顔になって、力を込める。無理をする感じはまったくない。得た力を自在に操っていた。
そして、
「ぉぉぉおおおおー!」
急に落下速度ががくんと落ちた。と思うと、降下角度までが変わる。ほぼ垂直、九十度だった角度がじょじょにゆるやかに、ついには、
「やった! やったぞ!」
水平飛行に。上昇に転ずる。海面とはもう、すれすれの距離。波の飛沫を浴びながら、
「やりました! できました、あたし!」
「うん、すごい! すごいよ、やったな!」
ふたり、こんどは笑顔で、お互いに抱き合っていた。
もう恐ろしいほどの風圧もない。身体が折れそうなGももうかからない。
心地よい風が顔をなぶり、髪をなびかせる。
あらためて、防人は少女の顔を見た。
「っ……はい?」
見返されて、
「あ、いや。あの……オレは、中島防人。キミは?」
名乗ると同時に、尋ねた。
少女はにっこり笑って、言った。
「防人さんですね! わたしは、零式艦上戦闘機二一型です!」
「ああ、れいし、き……零、へっ?」
「ただ零戦、でも、二一型、でもいいですよ」
「零戦……ゼロ戦、ぁあ。って、はぇぇぇえええ!?」