ランドリー
去年のゼミ誌に投稿した作品です。読んでやってください。
部屋中に脱ぎ捨てられた自分の抜け殻のような衣類を一つずつ屈んで拾っては、乱暴に 洗濯かごに入れる。この作業が面倒くさくて仕方なかった。風呂場にかごを置けば良かっ たといつも思うのだが、すぐに行動に移すことはなく結局同じ過ちを繰り返していた。そ してきまって、自分の部屋に洗濯機があればこんなことにはならないのに、という考えに 至っていた。家には洗濯機がないのである。幸い、自転車で三分、歩けば十分の所にコイ ンランドリーがあるのだが、今はその足となる自転車もない。昨日の朝、アパートの駐輪 場から姿を消していた。車体の色は二つとないような藤色で、洗濯かごが積めるようにと、 別で買った大きいかごを取り付けたママチャリだった。まさしく「愛車」と呼ぶのにふさ わしい自転車だった。数ある中から何故よりによって犯人はあの自転車を盗んだのだろう、 と考えてみたりもしたが、それは同時に自分のセンスを疑っているような気もした。
振り返ればここ数日良いことが無かった。「つめた~い」を押したはずが、自販機から出 てきたのは熱々の缶コーヒーだったり。九月末頃だというのに朝起きたら腕やら脚やら四 か所を蚊に食われていたり。古本屋で買った推理小説を読んでみたら最初から最後のペー ジまで、犯人である人物の名前に赤線が引かれていたり。そのような小さい、どこに怒り をぶつけて良いかわからない出来事が沢山あった。そしてその止めとでもいうべき出来事 が、自転車の盗難であった。駐輪場に立ちつくし、全身の力が抜け落ちるのを感じながら 「ない」という声を絞り出した自分はさぞ滑稽だったろう。 「なんでよりによってこんなに重いの」
洗濯かごを両手で抱えながら言い、二十段あるアパートの階段をゆっくり降りた。一階 に降りると、夜の街を煌々と照らす月が空に浮かんでいた。普段より大きく見えたのは、 去年の九月九日以来、一年と十九日ぶりのスーパームーンのせいだろう。今朝のニュース で天気予報士が目をキラキラさせながら見どころを語っていた。心なしか餅をつくウサギ に見える模様もいつもより少しだけ迫力があった。
月明かりはまるでこの町の隅に潜む闇を奪い去ったかのように全体を照らしている。そ れを邪魔する者も今日はどこにもいなかった。そんな満月に監視されたような夜道を急ぎ 足で、コインランドリーへと向かった。その道中、僕はあの晩のこととある彼女のことを 思い出していた。
彼女に出会ったのは先月の中ごろ。いわゆる偶然だった。いや、正確に言えばまだ出会 ってはいない。僕が一方的に彼女を、彼女の「声」を知っているだけだった。
猛暑の晩、なかなか眠りにつけずに偶然点けたラジオの「922」という周波数から聴こえ てきたのが、彼女の声だった。その声は今にもラジオのノイズや野外の蝉の鳴き声にかき
海沼 蒼太
消されそうなほどにか細く、そして優しかった。電波の向こうから聴こえてくる彼女の声 はどこまでも透明で、まるで実態などこの世に存在しないような、そんな気さえもした。 「つきからやってきたから、なまえは、つきこ」
僕がそう思ったのは彼女がいつも言うこの挨拶のせいかもしれない。彼女は自分を月か らやって来たと謳っていた。たどたどしく日本語を喋り、まるでこの世の不条理になど触 れてこないで生きてきたとでも言わんばかりに、素直に、あるがままの自分を声に乗せて 表現していた。今日食べた板チョコレートが美味しかった、この曲のここが素敵だ、あれ が欲しい、などと実に他愛もない話ばかりだったが、その純粋さと顔を知らず、声しか知 らないというミステリアスなシチュエーションに、僕はどっぷりと浸かっていった。気付 けば暑さや蝉の声の煩わしさなどは忘れ、三日に一回という不思議な放送日程にも何も言 わず、ただそれだけを生きがいに生活していた。気付けば僕は彼女の虜になっていた。
壁の一面に並べられた十数台ある洗濯機の中、たった一台、自分が回した洗濯機だけが 動いている。洗濯槽が回るたびに衣類も飛び跳ねるようにして洗濯機の中をぐるぐると回 っている。僕はその光景を長椅子に腰掛けながらじっくりと眺めていた。もはや洗濯機の 稼働音と自分の鼻息しか聞こえず、また窓から見える外の景色も何も変わらず。まるでこ の空間だけが時を刻んでいるような、そんな錯覚に堕ちはじめていた時だった。 「お、回ってるねえ」
ボリューム調節がバカになっているその声の方をはっと振り返ると、入り口のドアにも たれかかるようにして一人の中年男性が立っていた。顔全体を真っ赤にさせて右手には缶 ビール、第三ボタンまではだけた白いワイシャツと、その上に袖を通さず羽織るようにし て着ている灰色のスーツ。誰がどう見ても立派な酔っ払いであることがわかった。 「回ってるなあ。よかったぁ」
と中年男性が大声で言うと、唯一動いている僕の洗濯機の方へやってきて蓋にぴったり 顔をつけてもたれかかった。蓋ののぞき窓に反射して映るその表情はまさに「恍惚」その もので、僕は思わず
「回ってますよ」 と応えてしまった。すると彼はその言葉を待っていたかのようにすぐさま振り返り、満面 の笑みで言った。
「実は俺さ、リストラされてさ」
突拍子もないその発言に戸惑い、どうしたら良いかわからず、僕は壁にかかっている時 計へと目を移した。時計は二十三時を回っていた。
「お前は屁理屈ばっかりのピーター・パンだ。大人にもなりきれてない、そんなやつに 用はない。なんて上司に言われてさ。間もなくリストラよ、ひどいよなあ」
突然のリストラ告白から約五分間、男性はノンストップでリストラ話をしていた。
「そこからはずーっとヤケでさ、金をおろしてはスロットへの繰り返し、一日中パチスロ 三昧よ。ティンカー・ベルさん助けてくれよ、って感じだよ」 きっと僕以外にも何度もこの話を聞かせていたのだろう。慣れた様子で話を展開させ、ス トーリー仕立てで笑わせるポイントがあり、ちゃんとオチがついていた。ベテラン芸人の 漫談を聴いている気分だった。その話術のせいか、すこしずつ彼に興味を持ち始めていた。 「数あるギャンブルの中でどうしてスロットなんですか」 「いい質問だねぇ。まあでも、カジノが合法だったら俺はルーレットをやってたなあ。な んでかわかる?」
「いや、全然。回ってるくらいしか」
「お、大正解!」
二つのものの共通点から、「回っている」を絞り出して言ってみたものの、まさかそれが 本当に正解だったとは思ってもいなかった。彼の口から出た軽い大正解と言葉とこれほど までになく浅はかな理由に、少しでも彼に興味を持った自分が恥ずかしかった。 「俺ってさ、回ってるものが大好きなの。言ったら地球だってぐるぐる回ってるだろ。ん で、太陽の周りも回ってるだろ。そんな星の上でさ、俺はぐるぐる回ってるものを見てい るって、なんだか面白くないかな?」 「いや、ちょっと良くわからないっす。それならレコードプレイヤーとかでもいいんじゃ ないですか?無駄なお金も使わないし、曲を聴いてリラックスしながら見てられるし」
彼はお見事と言い、僕に左手でサムズアップのジェスチャーを取ってみせた。 「まあそこは、スリルが欲しいっていう俺の性格だな」
と言い終え、大声で枯れたような笑い方をした。 「回っているものってのは全部繋がってるんだよな。円とか球みたいにさ。自分の前から 始まったものが三百六十度回りまわって自分に戻ってくる。それが面白いんだよな」 「でも、それってなんていうか、つながりっていうかこじつけって感じがするんですけど」 と僕が言い終えると、男性は眉間に皺寄せ「わかってないねえ」と口にし、この場所で最 も大きな洗濯機を指さした。そして、 「今から少しだけ、理屈っぽくなるけど聞いててね」 と、二人きりでの会話には不釣り合いなほどの声量で僕に言った。
「準備は良いか若者よ」
僕は渋々頷く。
「よろしい。あ、ところで君の名前はなんて言うんだ?」 僕はひな壇芸人のように大げさに、座っている長椅子から転げ落ちてみせた。
「当ててもいいか?」
「あ、どうぞ」
「じゃあ、鈴木だ」
「じゃあ、それで」
「じゃあ、って」
リズミカルかつ淡々と、今度は老舗漫才師のように僕らの会話は進んでいった。 「じゃあ、鈴木くん。たとえば僕が今指さしている洗濯機の中に、女性の下着が入ってい るぞ。なんて言われたら君は信じるか?」 「はい。とりあえずは覗いてみます。忘れ物で残っているかもしれないし」 「だよな。それじゃあその洗濯機の中に、キリンがいるぞ!なんて言われたら、君は信じ る?」 「いや、それは信じないです。いくら一番大きい洗濯機とはいえ、このなかにキリンなん か入るわけないし、そもそもコインランドリーにキリンなんかやってこないし」
キリンがいかにこの場所に不釣り合いなものかを僕が滔々と語っている間、それに同調 するように彼は頷いていた。しかし、それが終わると目尻に皺が出来るほどに笑った顔を 彼はこちらに向けて言った。
「もし、誰かの忘れ物だったら?」 「キリンを忘れ物、ですか。そんなの絶対ありえないですよ。第一キリンなんて動物園の 飼育員でもない限り飼わないし。なによりキリンを洗濯なんかしませんよ」 「それなら、これがそもそも洗濯機じゃなくて、なにかどこかにワープできるような装置 で、過去や未来に行けたりどこか遠くの、んー。たとえばアフリカに行けるようなものだ ったらどうする?」
僕は今まで彼の言うような酷いこじつけを聞いたことが無かった。一つの条件を提示し ておいて、それを否定されたらその条件のひとつ前を疑い、それがダメならもう一つその 前を疑い、堂々巡りの論争だった。徐々に彼に対して、呆れた感情が湧きあがってくると 同時に最後に彼の言い分はどこに着地するのだろうか、という点が気になった。 「いいか、鈴木君は洗濯機と見越したうえでその発言をして、洗濯機以外はあり得ないと いうような口ぶりで語っていたわけだ。でもそれが君の中でだけ作られた常識だったとし たらどうだ。もしも本当にこれがワープ装置で、本当に向こうにはアフリカの景色が広が っていて」 「そんなどっかの映画みたいな話あるわけないじゃないですか。そんなのはおっさんのく だらないこじつけにしかすぎないと思います」 「確かにこじつけかもしれないな。でも、君が自分の中だけでこれはこじつけだ、と判断 して端から開けなかった蓋の向こうに、こじつけとまったく同じ景色があったら、それら を架空、空想、妄想で終わらせたことになる。信じずに開けなかった蓋で、君は本当の現 実を一つ、架空のものにしているんじゃないか」
迫真の長台詞とでも言おうか。彼の口から饒舌に解き放たれた言葉の数々に、僕は圧倒 された。彼の心の「熱」のようなものが垣間見えた。そして僕の心に先ほどまで存在して いた、「こじつけ」「くだらない」という考え方も、彼の言葉たちによって熱せられ、なん
としてもこの論争に打ち勝ちたいという感情に煽られていた。 「そんなに言うなら、この目で真実を確かめてみますよ。この勝負、僕が勝ちますからね」
自分でもなぜそんなにムキになっているのかよく分からなかった。ただとにかく今は、 この論争に打ち勝つ、それがしたかった。僕は彼の指差す一番端に並べられた大きな洗濯 機の前に歩みを進めた。そして蓋の銀の取っ手を右手でぐっと強く握った。僕は何も言わ ず、へらへらしている彼をじっとり睨みつけて、力いっぱいにその蓋を開けた。自分の勢 いとは裏腹に、密閉されていた空気がプシュ―っと情けない音を立てて外へと逃げて行っ た。僕は恐る恐る、その洗濯機の中を覗き込んだ。
「どうだった?」 酔いがまわっているせいか、おぼつかない足で彼も僕の元へと駆け寄ってきた。
「あった」 自転車が駐輪場から消えていた時と同じように、腑抜けた声を発した。全身からどんど
んと血の気が引いていくのが分かった。僕はただ洗濯機の中を呆然と見つめることしかで きなかった。
洗濯機の中には、大人の掌に乗るほどの大きさの、キリンのぬいぐるみがポツンと座っ ていた。
「まさか入ってるとはねえ」
「信じてなかったんですか?」 「いやあ、信じてたよ。信じないときっと説得力が出ないなと思ったから」
男性は痰を絡ませた笑い方をすると、長椅子の一つに腰掛けてずっと右手に持っていた 缶ビールを口に運んだ。缶ビールが傾くたび、喉元を過ぎる音がテレビコマーシャルのよ うに大げさに鳴った。 「あの、おっさんに一応聞きたいんですけど、たとえばの話ですよ」
僕は洗濯機の中のキリンのぬいぐるみを掴んで、彼の隣へと腰かけた。 「もし仮に僕が、月から来た。って言ったら、信じますか?」 「あー、月か。今日はスーパームーンなんだっけ。だからそんなことを言い出したのかい?」 「いや、そういう事じゃないんですけど、とにかくですよ。あくまで仮の話です」
先ほどの熱が残っていたせいか、勢いで口走ったものの思っていた以上に、彼の反応が 薄かったためこの質問を急きょ取りやめようとした。 「いやあ、俺は信じたいな。現代に現れたかぐや姫、的なニュアンスで」 「そうですか。信じてくれるんですね。ちょっとホッとしました」
内心信じてもらえないものだと思った。なぜなら僕自身がそうだったからだ。「つきこ」 のラジオを初めて聴いたとき、僕は彼女の存在をあくまで設定であると決めつけざるを得 なかった。現実的には考えられないものに僕はすぐに蓋をした。信じるということを遮断 していた。ところがすぐ隣にいる彼は違っていた。自ら可能性を閉ざすのではなく、その
真実を確かめるために、すべてを信じていたのだ。 「鈴木くんが本当に月から来たのなら、一つ聞いてみたいことがあるんだ」 「いや、僕は」
「まあまあ、また聞いてちょうだいよ」
「はあ......」
彼はもう一度缶ビールを口へ運んでは喉を鳴らした。そして口の端からこぼれた滴をシ ャツの袖で拭くと、真剣な顔つきで言った。 「ジョン・レノンのあの叫びは、月に届いていたかい?」
時刻は二十三時三十分。針がてっぺんにたどり着くと、いつもの周波数「922」から少女 のか細い声が聞こえてきた。
「みなさん、こんばんは。きょうもつきからやってきたしょうじょ、つきこのちゃんす おぶむーんらいと、すたーと」
「あ、始まった」
僕はラジカセを洗濯かごから取り出し、手慣れた手つきで一発で「922」に周波数を合わ せた。彼女の声に耳を傾けようとすると、隣から再び質問が飛んできた。 「君は、ビートルズを知ってるか」
「はい。少しだけ」
「じゃあ、Mr.moonlight って曲は?」 「それは知らないです。曲はいまいちよく知りません。有名なやつしか」 「まあ、正確に言うとビートルズのはカヴァーなんだけど。その冒頭でジョンが月に向か って吠える狼みたいに、ミスタームーンライト、って叫ぶように歌うんだ。その声があま りにも衝撃的で、格好良くて、昔から本当に月に届いていればいいのにって思っていたん だよ。だから月から来たって言ってる君なら、分かってくれるかなと思って」
僕も本当はその曲を知っていた。その曲は、つきこがラジオのエンディングでオルゴー ルバージョンを使用していたからだ。彼女が曲名を言わないので探すのに苦労したが、原 曲を初めて聴いたとき、曲の冒頭のジョンが叫ぶように歌うところで、彼の言うような衝 撃を覚えたのは確かだった。
「まあ、君には分からないか。月から来ていないわけだし」 そうつぶやくと彼はアルコールが抜けたようになり、自ずと静かになった。出会ってから今までお酒の席のようなテンションで話していた彼とはまるで別人の様で、なんだか少 し奇妙であった。 「なんか期待に応えられず、すいません。でももしかしたら、この人だったら分かるかも しれないです」
黙り込んだ彼を見ているのが落ち着かなった僕は、ボリュームを上げたラジカセを彼と 僕の座っている間に置いた。彼の視線がラジカセへと向く。
「随分懐かしいものを持ってるなあ」 もの珍しそうにラジカセを手に取ると、それを舐めるように色々な角度から眺める。 「いや、大事なのはそれじゃなくて、その声の子なんですけど」 「ああ、そうなのか、ごめんごめん」 彼は音量のつまみを最大まで回すと、二人だけのコインランドリーという空間に彼女の声 が響いた。
「じつは、きょうは、みなさんに、いわないといけないことが、あって......」 「きょうでこのばんぐみは、さいしゅうかいです。わたしはきょう、つきに、かえり、ま す......」
「え?」
「ん?」
「ええ!」
思わず語尾が裏返った。
「ん?」
彼は僕が驚いている理由にいまいちピンと来ていない様子だった。 「鈴木くんみたいな冗談を言う人だね、このパーソナリティは」
おどけたように彼は笑って言った。
「いや、彼女が本当の。本当に月から」
やってきた、と言おうとした時、自分が当たり前のように彼女の存在を信じているとい うことを知った。今まで引っかかっていた、「月からやってきた」という点を、いとも簡単 に信じている自分がいた。
「そうか、君は信じているんだな。月から来たってこと」
彼は察するのが早かった。 「だからさっき、君は自分が月からやって来たら、なんてことを言ってたんだね。合点が いったよ」
「いや、その。別にそういうわけじゃ」
心の中を簡単に見透かされたのが無性に恥ずかしくなり、僕は必死に言い訳をしようと した。しかし、彼は全てを理解したかのように、うんうんと頷いて微笑むと僕に言った。 「もし彼女が、本当に月からやって来ていて、きょう月に帰らなければならない。って言 われたら君はどうする?」
難しい質問のように聞こえた。しかし、冷静に考えてみると簡単に僕の中で答えが出て いた。それはきっと今日ここに来ていなかったら辿り着かなかったような答えであった。 「彼女の言っていることを信じます。閉じていた蓋の中を覗いてみようと思います」 「いいねえ。スーパームーンの晩、月に帰る不思議な彼女。面白いな。今までのどんな蓋 の向こう側よりも、面白いなあ」
物思いにふけるように、優しく角のない声で彼はつぶやいた。 「なんかこんなこと言うの、すごい照れるんですけどスーパームーンだけでも、一緒に見 に行きませんか?」
途端、腹部に手を抑え今日一番の声の大きさで笑った。 「なんで笑うんですか。好意で言ったのに」 「ああ、それは申し訳ない。悪気はないんだよ。でもさ、俺はほぼ毎日スーパームーンを 見てるんだよ。ほら」
指差す方を見た。店内の電灯が洗濯機の丸い蓋の形どおりに反射している。僕の眼前に、 十数個のスーパームーンが広がっていた。 「じゃあ、さいご。いつもおわりにながしていた、わたしの、いちばんすきなきょくを。 これをききながら、みなさんと、おわかれ。ざ、びーとるずのみすたー、むーんらいと」
店内いっぱいに、ジョンの魂のこもった歌声が響き渡った。
気付けば月明かりの中、僕は走り続けていた。いつもの見慣れた街並みも、月明かりの 下では違った一面を見せている。深夜零時を回った商店街は人通りもなく、不気味に街灯 が点滅しているだけだった。僕はその中を精一杯駆け抜けた。何にも遮られずに月を眺め たかった。ただその一心で、僕は駆け抜けた。商店街を抜け、狭い路地裏へと入り込む。 そこには街灯という存在自体がなく、僅かばかりの月明かりが、僕の行く道を案内してく れているようだった。
「あった」 渇いた喉から絞り出る声。走り疲れたせいで今度は感覚ではなく身に染みて力が抜けた
のを感じた。僕の眼の先には、敷地内に小高くなった丘のある公園があった。僕はもつれ る足をどうにか急がせ、丘の上へと登った。空を見上げると、僕の視界いっぱいに大きな 月が輝いていた。
「すごい」
言葉で表現するにはそれが精いっぱいだった。恐ろしさを覚えるほどにはっきりとした 輪郭と、グロテスクなほどに良く見えるクレーターを併せ持つその月に完全に圧倒されて いた。恐怖とも取れるその迫力に、一度落ち着こうと目を瞑り、深呼吸をして呼吸を整え た。目を開く。もう一度月と対峙する。そして僕は大きく息を吸った。
「ミスタァ」 と叫びかけた時だった。僕の後ろ、丘の下の方で、自転車の急ブレーキのような音がし
た。驚き急いで振り返ると、自転車に乗った女性の姿があった。その女性の肌は街灯のわ ずかな灯りでもよく分かるほど透き通るように白く、眼鼻立ちの整った端正な顔立ちであ った。僕は一瞬にしてその女性の虜になった。彼女とともに月を見ていたい。そんな気持 ちになった。
しかし、見とれているのも束の間。彼女は地面に着いた足を前に蹴り上げると、自転車
が少し後退した。そして今度は左足をペダルに掛け、右足で地面を後ろに蹴り上げた。 「え?えぇ」
と僕が声を出したころには彼女は丘の三分の二を自転車で登っていた。そしてわずか数 秒で遂に、僕のいる頂上へと上り詰めた。彼女は足を地につけ、月ただ一点を見上げてい た。月明かりに照らされたその横顔があまりにも綺麗で、凝視していることが恥ずかしく なり僕は、伏し目がちに目をそらした。
「あれ、これ。え、待って」 スーパームーンの煌々とした輝きにより、なんとなく見覚えのある数字の羅列と、はっ
きりと見覚えのある自転車のボディのカラーが僕の眼に飛び込んできた。色は藤色、カゴ は洗濯かごの入る大きさの別売りのカゴ。彼女の乗っていたのは、僕の「愛車」と酷似し ていた。
「あの、これって。数日前、どこかで」
そんな質問に彼女は答えることもなく。僕は彼女の自転車に気を取られているうち、彼 女の現実離れした行動を見落としていた。いや見落としていたのではなく、脳内で理解し、 処理をするのに時間がかかっていた。彼女は二、三歩またバックすると勢いをつけて自転 車を漕ぎだし、宙を舞った。少年と宇宙人の友情を描いた有名な映画のワンシーンのよう に。いとも簡単にふわりと浮いて見せ、そのままぐんぐんと月に向かって前進していった。
「なんでよりによって僕の自転車で」
彼女に対しての愚痴がこぼれる。彼女の姿と自分の自転車は見えなくなっていた。先ほ どの偉大な月明かりとは別人のように靄がかかり、いつもの闇の中に僕は居た。僕はもう 一度、深く息を吸い、呼吸を整えた。あの歌のジョン・レノンのように、僕は見えなくな る月に叫んだ。
「ミス・ムーンライト。またあした」
ありがとうございました。これは僕が去年体験した「ついてない出来事」を基に、いろんな映画や音楽、小説やテレビなどから引用とオマージュを混ぜ込んで作った作品です。すべてがうまくいった!!!と完成後自分で思ったくらい、自信作です。なるべく「つきこ」の存在を「透明」「純粋」「幻想」的に書くのが一番難しかったです。タイトルの「ランドリー」はコインランドリーが舞台だから。というだけなのですが格闘技の稽古である「自由に技をかけあう」という意味の「乱取り」みたく、個人的にはものすごく自由な頭で書きました。伝えたいことはすべて「コインランドリー」でのおっさんとの会話にあります。それを踏まえた上でもう一度読んでみても面白いかもです。