オレがすきなのは ~蹴人の場合
担任の先生が怖い顔をして書類を眺めていた。それに対比するように、オレはへらへらと笑っている。
何のことはない、先生が眺めているのは見事に丸のないオレの答案用紙だ。三年生になってすぐの実力考査の結果だった。
「お前なあ。確かに去年新人戦優勝してるから、絶対に無理とは言わんが、サッカー一本で推薦で行くにしても、基本的学力がなければどこも取ってくれないんだぞ?」
「そんときはそんとき考えます~。総体終わらないと、オレ難しいこと考えられないと思う」
オレの答えに先生が頭を抱えた。
でもしょうがない。オレ馬鹿だし。サッカー以外のことなんか頭にあるはずないじゃん。
「お前、池澤と仲良かっただろ。せめて、部活の後の一時間とか、あいつに勉強教えてもらったりできないのか?」
「樹? 何で樹とサッカー以外のことをすんの?」
樹の成績について口にした先生の話にぶっ飛んだオレは、一階の進路指導室から三階の教室まで猛ダッシュで戻り、ものすごい勢いで窓際に座る奴に詰め寄った。
「いつき、いつき、いつき! お前ものすげー頭良かったんだな! オレに勉強教えろ!」
「ヤだ」
オレの方を面倒くさそうに一瞥して、奴はそうほざきやがった。
「お前ね、ちょっとは考えてから返事してくれても罰は当たらないと思うぞ」
「だって、お前馬鹿だもん」
いや、確かにオレはとてつもなく頭が悪い。自分でも自覚しているほど頭が悪い。それでも、親友の頼みをそんな素気無く返すことないだろうよ。
「いつき~冷たいことを言うなよ。親友だろう~」
情けない声を上げながら、奴を背後から羽交い絞めにしたところ、「ええい、うっとおしい」という掛け声とともに強引に引き離される。
親友に対する態度がひどくないか? と、再度抗議しようと顔を上げたオレの視界の中で動く人影にびっくりした。
窓の向こう、広いグラウンドを挟んで中学校校舎と平行に建っている小学校校舎の三階廊下で立ち話をしている小学校教師に見覚えがあった。
「あれ?あれ?あれ?あれ? りおちゃん先生がいる」
びっくりして大声を上げてしまった。
オレの声に、教室にいた同じ小学校出身の奴らがわらわらと集まってくる。その時親友から舌打ちが聞こえたように思ったけど、気のせいだよな?
「りおちゃん先生って、宮城リオ先生?」
「ほらほら、小学校校舎の中。三階の所で子供と話してるだろ」
「ええ~、お前あんなのよく見えるな」
おおよ。勉強嫌いのサッカー好きのオレの両目は2.0だぜ。それ以上は測れないから2.0止まりだけど、もしかすると5.0ぐらいあるかもしれないな。目には絶対的な自信があるオレだ。だから間違いない。あれは地獄耳のりおちゃん先生だ。
「あ、そういや、妹が宮城先生が隣の学校に移動したって言ってたな。隣って、本当に隣だな」
呟いたのは小学六年生の妹を持つ元クラスメイトで現クラスメイトだった。
この中学校には三校の小学校の卒業生が集まっている。1つは中学校の隣に並んで建っていて、いまオレ達の目に映ってる小学校。オレの卒業した小学校はここから案外近くて、十分もかからない。そして三つめの小学校は中学から一番遠くて、歩くと二十分はかかる。
隣の小学校といっても中学の校区外の可能性の方が高いものなのだけど、運がいいのか悪いのか、宮城先生は元教え子が大量に通っている中学の隣の小学校に赴任してきたというわけだ。
「へえ、久しぶり、オレ五年の時担任だったんだ」
懐かしくてそう言うと、他の奴らも同様の感想を口々に上らせていく。
「なあ、いつき、りおちゃん先生、あんなに可愛いのに、すげー怖かったよなあ。なあなあ、部活終わったらさ、校門で待ち伏せとかしたらりおちゃん先生に会えるかな」
思わず嬉しくなって、再び親友に抱きつくと、奴は超絶不機嫌そうに俺を睨んできた。
そんなに抱きつかれるのが嫌なのか? 確かに、さっき羽交い絞めした時も嫌そうにしてたけど、そんな汚物でも見るような眼を向けることないじゃないか。
「ほら、りおちゃん先生が担任だった奴ら誘ってさ」
懲りないオレは樹に体重を預けながらしつこく言い募ってみる。周りの奴らもそれに便乗しようとしてて、同志が増えていった。
「迷惑になるだろ」
ぼそりと奴が呟いたが、そんなの行ってみなければわからないし、案外先生だって懐かしがって喜んでくれるかもしれないじゃん。
オレの意見は皆に支持されたが、部活の後では遅すぎるということで、放課後すぐに校門のところに行ってみることになった。最終的に男女合わせて有志はなんと三十人を超えた。そりゃそうだよな。俺たちの学年は四年から六年までりおちゃん先生に受け持ってもらったから、直接担任だった奴らは結構な人数になる。
「んじゃ、先生に言っとくよ。お前ら全員遅刻だって。俺は先に部室行ってるわ」
放課後、興味なさそうに言うのは我がサッカー部のキャプテン朝陽だった。
「俺、あの先生、あんま知らないんだよな」
そうだったっけか? 首をかしげるオレに、朝陽が頷く。
「夕香が三年間担任だったから、俺全然接点なくてさ」
なるほど。夕香とは朝陽の双子の姉である。双子で同じクラスになることがないから、夕香が三年間担任だったなら、朝陽は別のクラスだよな。
「夕香があの先生好きだったから、連れて行ってやれば喜ぶんじゃねえの?」
言われて、オレは自分の顔が苦虫を噛み潰したように歪んだのがわかった。
それを見た朝陽が呆れたようにため息をつく。
「お前らもなあ、いつまで喧嘩拗らせてんだか。いい加減仲直りしろよ」
仲直りも何も、喧嘩した覚えねえし。あっちが勝手にオレを無視してるだけだし。
ぜっかく、りおちゃん先生を見つけて上がりまくりだったテンションが一気に下降する。
朝陽の奴、わざとだよな。ムカつくぜ。
樹を誘うつもりで教室に戻ったオレは、そこでその樹と談笑している夕香を見つけて、更に気が重くなった。
普段人見知りで、男子生徒とほとんど話さないくせに、樹にだけは昔と変わらない可愛らしい笑顔で話しかけるんだ。あんな顔してて、小学生の時はバリバリサッカー少女だったんだから、びっくりだ。小学生の時の夕香を知らない奴らは勘違いして、あの暴力女をお淑やかだの大人しいだの好き勝手なこと言ってやがるしな。
そんでもって、そんな楽しそうな顔してたら樹のことが好きなの、もろバレじゃねえかよ。で、樹だって満更じゃなさそうで、二人で他人が入れなさそうな空気作ってるから、疎外感を感じてしまう。
そう思って、オレが声をかけるのを躊躇っていたのに、悠斗の奴、何乱入してるんだよ。チームメイトだった昔馴染みの気安さか? いや、そこは空気読もうぜ。
二人を連れて歩き出した悠斗が、オレに気付いて手を挙げた。その後ろで目を反らす夕香と、極悪な目をオレに向ける樹。
「蹴人ぉぉ~、お前も早く行こうよぉぉ」
うげ、樹ちょー怒ってんじゃんか。悠斗、ホントに空気読んでくれ。
その後押し掛けた小学校で、りおちゃん先生はオレ達を見て驚いていたが、迷惑そうではなかった。やっぱり喜んでくれてたと思う。
子供たちが帰った小学校の正門で、中学生たちに囲まれている小学生教師という構図もちょっとおかしいよな。実は中学の教師が驚いて慌てて様子を見に来たぐらいだ。説明を聞いて納得はしてくれたものの、ちょっと離れて今も監視している。
彼女を見つけた時の勢いと興奮が消えてしまったオレは、女子たちと話しながら微笑むりおちゃん先生とその先生に一生懸命話しかける夕香をぼんやり眺めていた。
確かに、朝陽が言ったように、夕香は嬉しそうだった。さすが双子の弟。良くわかっている。
何だか手持無沙汰だったので、同じように少し距離を置いて夕香を見守ってる樹の背に体重を預けた。オレより背が低い樹は、体重を預けるのにちょうどいいのだ。
「蹴人。お前死にたいらしいな」
低い声でぼそりと囁かれた。
「だって、お前も暇そうだったんだもん。ね、飽きちゃった。グラウンドへ戻る?」
「発起人はお前だろうに」
「え~。もう会えたし満足だよ」
それに、このままいても女子の迫力に押されて話なんてできなさそうだったし、何が気になるのか時折樹を見るためにこちらに視線を向ける夕香にも苛立ちを覚える。
「宮城先生! オレら部活行ってくるわ。またね~」
そう声をかけると、りおちゃん先生が一瞬驚いたような顔をしてから、オレの方を見てドキリとするほど可愛らしく微笑んで手を振った。
あんまりドキドキしたので、オレは親友を引っ張って、慌ててその場を後にした。
オレが四年生の時新卒で赴任してきた、若い先生だってのは知ってたけど、あんなに美人だったっけ?
他の女の先生と比べてダントツ若かったから、小学校の中では一番可愛くて優しく思ったのは確かだ。だけど、オレにしてみれば、先生で大人で、そういう目で見る対象じゃなかった。今もそうだ。二十八歳なんておばさんじゃん。ああ、でも先生じゃなきゃ、きれいなお姉さんって感じ? いやいや、オレは何を考えているんだ。
「蹴人……お前」
部室の前で引っ張られてた樹が、オレをじっと見上げてきた。変に敏い親友のことだから、混乱してるこのドキドキを気づかれてしまったのかも。更にオレの鼓動が跳ねた。
「悠斗忘れてきてるぞ」
「あ……」
そっちね。うん。忘れてたわ。
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樹の頭に顎乗せてうだうだしてたら殴られた。
お前のその位置がちょうどいいんだよお。
と叫んだら、もう一発食らわされた。昔っから容赦なく俺の頭を叩くよな。だから、オレ勉強できなくなったんだよ。うん、きっとそうだ。
力説したら、また殴られた。暴力反対デス。
「やる気ないお前らの勉強見てやるほど、暇じゃないんだけど」
あ、額に怒りマークが見えるよ、樹クン。
「俺も勉強なんかしたくないよ、意味わかんねえし。でも中間と期末どっちも英国数、四十点以上取らないと、総体に出してもらえないんだよお」
改めて口に出してみるが、やっぱりその条件は俺には無理なような気がしてならない。
同じくと呟いたのは朝陽と悠斗だ。他の奴らは、実はそれなりには学業に力を入れていたらしい。みんなサッカーやらずに陰でお勉強してたのかよ。ていうか、レギュラーじゃないのに勉強もできてない悠斗、お前やばくないか。
「朝陽、俺一人じゃお前ら見るの無理。お前と蹴人はマンツーマンでやらないと駄目だ。明日から夕香連れてきて」
「げ、それ絶対夕香嫌がるぞ」
「うん。騙してでも連れてきて」
「……。わかったこうしよう、明日から俺んちで勉強しよう。そしたらもれなく夕香がついてくる」
有無を言わさずというやつだな。背に腹は代えられない。どれだけ気まずくても、総体に出られないよりましだ。
と思ったが、勉強会に夕香が参加するのもそんなに悪くなかった。小学校時代を思い出す。
初日、夕香にこれでもかというほど嫌がられ、朝陽より成績が悪いオレは奴の母に驚愕されたものだが、数日過ぎると夕香も慣れてきて、嫌味を言わずに教えてくれるようになったし、奴らの母はオレの絶望的な成績に同情して、非常に協力的にいろいろ便宜を図ってくれた。オレ達が遊んでいないという情報を、オレの母親に毎日LINEで報告していたのも知っている。そのお陰で、うちの母はここ最近ご機嫌だ。
そうして、毎日部活の後に勉強して、テスト一週間前で部活が休みになると朝陽の家で三時間も勉強する日々が続いた。すると、オレと朝陽は体が動かしたくて仕方がなくなる。
「んで、お前らは何しに来たわけ?」
金曜日、夜練が始まろうとしている体育館の入り口で、かのちゃんコーチがオレ達を見下ろした。
「テスト前でボールに触れない。サッカーしたい」
「蹴人と朝陽らしいな。夕香、久しぶりにお前も入って行けよ。六年が一人足んねーんだわ」
そう言って、かのちゃんコーチが一緒に来た夕香にビブスを放り投げた。
「オレ達は?」
「お前らはいらん。グラウンドででも遊んでな」
冷たいお言葉をいただいた。まあ、この時期、日が落ちるのが遅いから、全然余裕でグラウンドを使えるんだけどね。
太陽が沈み、周囲がだんだん暗くなってきたところで、オレ達は体を休めた。
ふいに体育館入り口から声がかけられる。
「はい。おつかれさま」
疲れて体育館横の壁に凭れていたオレ達に、そう言って冷たいスポドリの500mlペットボトルを差し入れてくれたのは夕香だった。当番の母がくれたらしい。ありがたく頂戴する。
「どうだった?」
「久しぶりで、体が動かないよ。楽しかったけど。あ、朝陽、私の代わりに入ってきてよ」
「おう!」
気軽に引き受けて、朝陽が体育館に姿を消す。
「じゃあ、暗くなってきたから、私帰るし」
「えっ、待ってよ」
無意識に夕香を引き留めてしまう。最近普通に話せていたから、それが嬉しくて、もう少しこうして話していたいと思ってしまった。なのにオレの余計な口ってば、何も考えずに疑問をひょいっと表に出してしまうのだ。
「あのさ、ずっと聞きたかったんだ。二年生の時から、怒ってただろ? 最近は普通に話してくれるけどさ。オレ、なんかした?」
「別に、怒ってなんかないわよ。片思いって分かって、むしゃくしゃしてただけ」
視線を外して、夕香がつっけんどんに言葉を紡ぐ。
そのセリフにドキッとした。彼女が誰かに片思いしている。
「夕香の好きな奴ってさ、もしかして……」
うわ、オレってば、何てこと聞いてんだ!? 素直に教えてくれるわけないのに。
内心慌てたものの、オレの慌てぶり以上に、夕香が真っ赤になってしどろもどろになって俯くから、逆に冷静になれる部分があった。
耳まで赤くして恥ずかしがる姿が可愛いと思う。
「しょうがないでしょ。あんだけ好きだって言われたら、その人が気になって、そこから好きになっちゃっても」
白い頬を染めて、夕香が恥ずかしそうに暴露する。
サッカー三昧だった小学生の時は一年中小麦色の肌だったその頬は、いつしか真っ白になっていた。吹奏楽部の夕香は体育の時間以外日に焼けることがないからだ。
昔は同じぐらいの身長だったのに、今はオレが彼女の頭のてっぺんを見下ろしている。男の子に間違われるぐらい短かった髪が背中で揺れ、骨ばっていた体はいつの間にか丸みを帯びていて、胸だってはっきりわかるぐらい大きくなってる。
もう子供じゃない。女らしくなった。そして、昔以上に可愛らしくなった。
細い肩を抱き寄せたくなって、思わず伸びてしまった手に、オレは愕然とした。
あれ? あれ?
オレは熱くなる頬を感じて、少しばかり困惑する。
こんな風に腹が立つのも気になるのも、夕香だけだ。可愛くて抱きしめたくなるのも夕香だけだ。樹と一緒にいるのを見てムカムカして情緒不安定になるのも夕香だけだ。サッカー以外でオレに頭を使わせるのも夕香だけだ。
夕香だけが他の誰とも違うんだ。
そのことに気付いたオレの心臓は激しく鼓動を打ち鳴らす。
ドキドキとか、ドキッとかそんな可愛らしいものじゃない。負けられない試合のPK戦で、オレの一蹴りが勝負を決める時のような、恐ろしいほどの心臓の音に呼吸すら苦しくなる。
これって、オレは夕香のこと好きだってことか?
樹といる夕香を見てイラッとするのは嫉妬ってこと?
改めて気づいた自分の気持ちに、オレはパニックに陥っていた。
そしてオレは不用意に口を開く。伝えたいことを混乱した頭で伝えられるほどオレの頭は賢くないことすら忘れて。
「お前が好きだっていうなら」
そう言葉を紡いだ時の夕香の驚いたような恥ずかしいような顔が可愛くて。そんな顔をさせる野郎が羨ましくて仕方がなくて。だけど、オレは親友だから、好きな子と親友の気持ちを優先しなきゃいけないわけで。そうか、オレがその片思いの相手と仲がいいから彼女も嫉妬して、オレに当たっていたんだなって、腑に落ちる部分もあったりして。
泣きたい気持ちで続きを口に乗せた。
「オレ、応援するから! 樹とのこと!」
その瞬間、見事なキックが俺の下腹にヒットした。
主人公が馬鹿なせいで、着地点を見失ってしまいました。
前半が冗長かな。書いてて楽しかったけど。
「~夕香の場合」に続けたいのですが、ゴールできるかなあ(不安)