せんせい、けっこんしよう ~樹の場合
ふいに気になって体育館の外を眺めると、一階の職員室と、三階の左から二つ目の教室に煌々と明かりが灯っているのが目に入った。昼の明るい中の大勢の生徒達で溢れる学校を見慣れているからか、日の落ちた夜の校庭はどこか寂しく感じられ、暗闇の中、灯される白い光に何だかほっとする。
その三階の窓際に人影が見えて、口元が緩んだ。
彼女は金曜日いつも夜遅くまで残って仕事をしている。それが、俺を待つ口実ならいいのに。俺が彼女に会うために後輩の指導を口実に、卒業した小学校へ顔を出しているように。
「小野木先生、宮城先生のこと好きだよな」
水分補給をしながら騒ぐ子ども達の集団からそんな言葉が聞こえてきた。
横目で見ると五年生達だ。
最近の五年生は集まるとすぐに恋話に花が咲く。いや、それは六年生もそうか。自分が五年生の時だって同様だったように思う。
告白されたり、付き合ったりなんてことが五年生あたりから始まるし、サッカー少年団にいると自分達が中心になることが多いから恋バナにはことかかない。なにしろ、サッカーをしてると何気にモテるのだ。
少年団の五、六年生にもなると対外試合が多くなり、そのいくつかはホームグラウンド……つまり自分の学校での試合だから、土日に暇を持て余している同級生が見てるなんてことも多い。そして、真剣試合の公式戦なんてやっていようものなら、見ていた女子の半分ぐらいはレギュラーで出てる男の子に恋してしまうらしい。カッコいいのだそうだ。中学に入ってもこの連鎖は続いていく。
小学五年生で彼女持ちも少なくないしな。
自分たちがそういう状況に置かれてるもんで、他人の恋路も気になるらしい。俺も良く探りを入れられている。
「宮城先生って、あの、りおちゃん先生?」
俺の隣で同じく水分補給中の蹴人が興味有りげに話しに参加しやがった。
「蹴人先輩、樹先輩、宮城先生を知ってるの?」
そりゃ、知ってるに決まっている宮城リオは……
「俺ら五年の時の担任だったぜ? 地獄耳のりおちゃん先生だぜ、ちょーこえーの」
三年前、五年二組のガキ大将だった蹴人はぶるりと体を震わせた。
当時の五年二組はやんちゃトップの蹴人さえ抑えられれば、比較的スムーズな運営ができるクラスだった。ただ、その蹴人を抑えるのが大人である教師には一番難しいのだ。大人には反抗的で扱いにくい子供だが、その実仲間想いの熱い奴である蹴人は、懐に入れた友達や後輩にはとてつもなく弱い。そして奴は、自分の全行動を把握している俺が裏切っていた事など、これっぽっちも想像していないだろう。
俺は卒業まで、些細な雑事……ガキどもごときの事で、宮城リオが泣くことがないように細心の注意を払っていた。そして、それは今でも同じである。なにしろ、何故か代々サッカー少年団にはやんちゃが集まるという傾向があるからだ。だから、こうやって卒団した後でも後輩たちの指導に顔を出している。まあ、それだけが理由じゃないけどな。
「りおちゃん先生、小野木に狙われてんの? 小野木結婚してなかったっけ?」
聞きたかったことをあっけらかんと質問してくれる蹴人がありがたい。
「母さんが、離婚したって言ってたよ」
現在の少年団保護者代表委員長を母に持つ六年生が答えてくれた。俺が在団していた時から思っていたが、少年団保護者の学校関係者に対する情報網はえげつない。俺が六年の時に母が代表委員長をしていたから尚更そう感じる。親達は子供に聞かれていないとでも思っているのか、結構平気で世間話の中に暴露ネタを取り混ぜてくるのだ。そして、若い教師やコーチは見張られてでもいるかのように情報が筒抜けだったりする。
不倫なんかしようものなら恐ろしいことになるのは目に見えている。実際、自分の母経由で聞いた話がいくつかあったりするのだ。
そういえば、三年前の宮城リオと小野木の件も、母から話を振られたんだっけな。ふと、当時を思い出した。
あの時母が「小野木先生ってかっこいい?」って聞くから始めは意味がわからなかったのだ。その後、当時担任だった宮城先生の名を出して何やら尋ねたそうな素振りをしたのを不審には思った。最終的に母は「十二歳差なんて守備範囲よね。どっちも独身なんだし。周りがとやかく言うことじゃないものねえ」と一人で納得していた。
その言葉の意味が理解できたのは俺が日直で、社会科係の二人ともう一人の日直と一緒に社会準備室に教材を取りに行った時だった。
気がついたのは俺だけだった。
いつもは敏い女子も、さすがに学校でそういうことが行われるなんて微塵も思ってないだろう。担任教師の上気した頬も、学年主任の緩みきった口元にも、気まずい雰囲気にも気づいたのは俺だけだった。
小野木の口元に涎のような糸が引いているのを見たのも、一番初めに部屋に入った俺だけだった。
少女マンガ大好きな母を持つ俺には、説明を受けなくても状況を把握するのは一瞬だった。何がショックだったかなんて当時はわからなかったから、できるだけ平静を装って、何もなかった振りをした。
教師二人ともが、明らかに安堵して肩の力を抜いたのが感じられた。
そして、俺の「好き」が担任教師を恋愛対象としてみている好きなのだと意識したのもその時だった。母に言わせると、男は一目惚れする生き物らしいから、きっと俺は彼女と初めて会った時からそういう目で見ていたのだろう。自覚はなかったけどな。だからあれだけ、好きだの結婚しようだの四年生の間は言えたんだよ。
俺は彼女と小野木の逢引を見て、初めての失恋を経験したんだ。母が言ってた十二歳の年齢差とか独身だとかいう言葉がすとんと収まるべきところに収まった。つまりは母は、二人は結婚を前提に付き合っているという話をしたかったのだ。十歳の子ども相手にする話じゃないけどな。
で、俺は間が悪いというか、いいというか、そんなことがあった数日後、今度は保健室で小野木と保健講師の逢引を見てしまうわけだ。彼女の時とは違い、もうちょっとすごいやつを。
独身とはいえ、節操は必要だと思う。あの時からだ、小野木を教師として見られなくなったのは。
それから三ヵ月後、小野木と保健講師は入籍し、保健講師は三月で学校からいなくなった。明らかにデキ婚だよな。小野木がどっちを本命と思っていたかはわからない。でも、今から思うと、三十歳近かった保健講師のほうが後がなかった分、彼女より上手だったってことだ。
そんな二人が三年で離婚って、大人の恋愛事情はわからないよな。小野木が浮気したかな? あの保健講師、浮気ぐらいで離婚を選ぶような人には見えなかったけど。……まさか実は子どもの父親が他の男だったなんて、ま、そんなドラマみたいなことねーか。
俺が一人で過去を思い出している間にも、やつらは下種の疑りってやつを展開していた。
「でもさ、宮城先生ってさ、夜練の帰りに良く会うけど、昼間と違ってボーっとした顔してんじゃん?」
「あるある! あれって」
「絶対小野木となんかしてるよな」
思わず俺は吹いてしまった。
こいつら絶対俺らが五年の時よりませてるぞ。
むせる俺の横で蹴人が「小野木とりおちゃん先生?」と、呆然と呟いている。自分たちの言っていることがいまいち理解できていない小学生とは違い、健全な中学二年生である蹴人は今絶対に想像したに違いない。なまじ話題の二人を知っているだけにリアリティがあるのかもな。
ムカついたので、奴の頭を二発殴っておいた。彼女の姿を夢想する権利は俺にしかないのだ。
金曜日の云々は俺のせいにしても、子供達にこんな風に噂されるなんて、迂闊すぎるぞ、先生。
「ほら、お前ら、休憩終わりだ五人づつ分けてミニゲームするぞ。蹴人、お前Aコートの審判な」
ぶちコーチが俺をもう一つのコートの審判にしようとしていたので、俺はもう一人のOBへすかさず口を開いた。
「麗華先輩、審判よろしく。俺、便所行って来ます」
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宮城リオは俺の彼女だ!と大声で宣言したい。
まあ、できやしないけどな。そんなことしたら、即先生が捕まってしまう。青少年保護育成条例違反で。いわゆる淫行罪というやつだ。
それに、俺は彼女だと思ってるが、先生はそうは思ってない。
秘密にしてるつもりなんだろうけど、たまに合コン行ったり、友人に紹介されてデートしたりしているのを俺は知っている。母達の情報で。
先生の自宅は俺達の小中学校の校区内ではないが、余裕で自転車出勤できる範囲だ。つまり、生活圏が重なっている。それは、常に保護者から見られているということなのだ。
先生は良く、土曜にバッチリおしゃれして駅を利用している姿を見られている。母達曰く、あの格好は男に合うに違いないとのこと。俺には判断つかないが、女同士で会う時と、男が混じっている時では服装や化粧が若干違うのだそうだ。恐るべきは母達である!
中学二年なんて恋愛対象にならないよな。とは自分でもちゃんと理解できるのだ。俺が三歳児に欲情できないのと同じだ。それでも、いい続けていれば、いつか洗脳されて好きになってくれるんじゃないか、なんて都合のいい事考えている。
だって、実際先生はキスすることに文句は言うけれど、嫌がってるようには見えない。俺とのキスは絶対好きだと思う。
だから、俺は今日も同じ言葉を口にする。
「僕が結婚できる年になったら、結婚してあげるって言ってるのに」
でも、つい愚痴っぽくなってしまうのは許してよ。俺がいるのに男探しなんてするから悪いんだよ。
「余計なことを言ってないで、さっさと行きなさい。何抜けてきてるのよ」
「金曜日の夜にしかこうして会えないのに、冷たいなあ」
冷静な口調で教師らしく叱る先生に、泣きたいような怒りたいような複雑な気持ちになった。だから、もう一度先生にキスをした。ちょっとしたお仕置きのつもりで深く口付ける。ディープキスなんてさ、ただの唾液の交換なのに、何でこんなに甘くて美味しくて気持ちいいんだろう。
初めて口付けしたときからこの甘さは変わらない。いや、あの時は涙でちょっとしょっぱかったっけ?
そうだ。小野木が結婚したって聞いて、振られて大泣きしている先生に付入ったんだ。
泣いてる所を俺に見られて恥ずかしくて、耳まで赤くしながら涙で顔面ぐしゃぐしゃにして、化粧も完全に取れちゃってたし、目も真っ赤で瞼が腫れぼったくて、それが堪らなく可愛くて。
そういや、この教室だったよな。あの時の先生を思い出して、ちょっと楽しくなった。
「また五年二組なんだね」
「そうよ、また五年二組よ」
先生も当時を思い出したのか、なにやら感慨深げに呟く。
「学年主任はまた小野木なんだね」
言い出したのは俺だけど、昔を懐かしんでいたら嫌な事も思い出してしまった。口に出してしまう辺り、俺も修行が足りない。さっきの団の奴等の会話が気になっているのだ。
なのに先生は何も答えず、平然とした顔で俺を押し退けて机の上を片付け始めた。
「練習、見てあげてるんでしょ、早く行きなさいよ」
冷たく、また追い払うようなことを言う。これが動揺しての照れ隠しとかだったら、嬉しいのに。やっぱりちょっと腹が立つので、先生の台詞は無視することにした。どうせ今更体育館に戻っても、時間までミニゲームをして終了だから、俺の出番はない。審判は麗華先輩がしてくれているしな。
「小野木、離婚したって? あいつ、僕のせんせに厚かましい事言ってない?」
僕のという部分を強調して言ってやった。先生はそれに反応して、僅かばかり眉根を寄せた。そんな顔したって知らないよ。俺のものだって、会う度言ってるでしょ。今更否定はなしだよ。
俺は彼女が逃げられないように両手で可愛い顔を覆った。
先生は出会った時より、小さくなってると思う。まあ、俺が大きくなってるとも言うのだけど。
そっと、甘くて柔らかい唇を啄ばんだ。
「腹立つなあ。せんせ、迂闊すぎるよ。変な噂流されないでくれる?」
そして、この可愛さは反則だ。
生徒達の噂など知らない先生は、不思議そうに首を傾げた。そこへ、俺は更に深いキスを繰り返す。彼女が俺にしがみ付いて体を預けてくるまで何度も何度も……。
恍惚とする先生の耳元へ囁く。それは約束の言葉。
「後四年だからね、せんせ。浮気なんてしないでよ」