せんせい、けっこんしよう?
「僕が結婚できる年になったら、結婚してあげるって言ってるのに」
笑いを含んだ声音が私に告げる。幼さの残った声は、思春期に入って幾分かすれていた。
出会った時の子どもらしい甲高い声はもう聞けなくなっていて、それに時折どきりとする私がいる。
「余計なことを言ってないで、さっさと行きなさい。何抜けてきてるのよ」
「金曜日の夜にしかこうして会えないのに、冷たいなあ」
そう呟いて、このお馬鹿さんはまたもや私に口付けた。
五年二組の教室の担任机に手をついて、私の口腔内を舌でまさぐる。
どうして、人気のない夜の校舎で、こんな行為を許しているのか。明らかに青少年保護育成条例違反だ。でも、キス止まりで、さらに私が襲われてる場合でも、条例違反になるのかしら。
大体、こんな子供が恋愛対象になるわけがない。そうなのだ、そういう意味で好き嫌いなど考えられない。なのに、この現状。絆されちゃったとしか言いようのない状況に、私はきゅっと目を瞑る。
ああ、あの時この場所で、あんな情けない姿を見られていなければ、今こうしてこんな淫行に耽ることもなかっただろうに。
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朝四時頃に何かが壊れる音で目が覚めた。斜め向かいの二十四時間営業のレストラン駐車場で事故があったらしい。その後、言い争う声や警察が来て検分してた声が聞こえてきたから単独事故ではなかったようだ。だけどそんなこと私には関係ない、早朝の貴重な睡眠を邪魔されて、私は不愉快だった。五時にはそんな喧騒も落ち着いて、私はまた安らかな眠りへと誘われた。そこで隣の住人の目覚ましが私の眠りを妨げる。普段そんな早く起きないだろう隣人が、今日に限って早朝出勤らしい。いつもなら全く気にならないはずの隣人の生活音が、今日に限って大きく聞こえる気がするのはどうしてだ。
いらいらしながら隣人が家を出て行くのを待ち、やっと静かになったと思った時には五時半を回っていた。六時過ぎには起きなきゃいけないのに。どうせならこのまま起きていようかと考えながら、瞼を閉じた。
次に予想以上に明るい太陽の光で目が覚め、鳴らない目覚まし時計を見た後で、スマホの画面を見て血の気が引いた。
六時五十分だった。目覚まし時計は五時四十分を指したまま止まっていた。
慌てて出勤の用意をする。髪をきちんと整えている時間がないので、後ろでひとつに結び、化粧も手早く終わらせる。朝ごはんを食べている暇なんてない。途中のコンビニでパンと飲み物を買って行こう。
パンツスーツにスニーカーを履いて、急いで家を出た。そして、駐輪場で私は一瞬途方に暮れる。自転車の後輪がパンクしていたからだ。こんな時間に開いている自転車屋はないし、もし仮にあったとしても修理に出していては遅刻は確実である。
仕方がないので、私は泣く泣く駅前でタクシーを拾うことにした。二年目の新米教師の安月給の身としては懐が辛い。タクシーに乗る前にコンビニで朝食を買おうとして、棚にまともな調理パンも菓子パンも並んでなくて泣きそうになった。六枚切りの食パンなんて今はいらないのよ。
何だかツいてない一日の始まりで、気が重かったけれど、職員室に入って先生方と挨拶をする頃には大分気分も浮上していた。だけど、その後で、とどめとばかりに大きいのがやってきた。
それは職員室での朝礼の最後だった。
今日は朝からツいてないとは、わかっていた。だから、五年学年主任と保健講師の二人が並んで教頭先生の隣に立った時、ものすごく不穏な空気を感じたのだ。
「小野木先生と青木先生が入籍されました。ただ、子供達にはしばらく言わないようにお願いします」
突然の報告は拍手を持って迎えられた。
でも、私は何が起こったのか理解できなくて、目の前で起こっている現実を呆然と眺めていた。
あなたは私の彼氏ではなかったの? どうして他の女との結婚報告を他人から聞かされているの?
他の先生方が笑顔で祝福する中、きっと私はおかしな顔をしていたのだろう。私と目が合った瞬間、小野木先生が疚しそうに目を逸らし、僅かに頬を引きつらせた。
その場で泣き出さなかったのは私の意地だ。プライドをかけてでも可愛く微笑んでやる。
「おめでとうございます!」
他の人たちと同じように明るい声が出ているかしら。ちゃんと祝福しているように聞こえるかしら。大丈夫? 私はまだ笑えてる?
祝福されるのが当然だとでも言うように青木先生が照れながら笑ってる。小野木先生は、もう私の方は見ない。
あなたが立って笑うその場所は、私の隣だったはずなのに。どうして私ではないのだろう。私がこんなにも苦しいのに、どうしてそんなに幸せそうに笑えるの?
正直、年度末の三月ではなく、師走のこんな時期に入籍したことから、できちゃった婚なんだろうということは容易に予想できた。つまりそういうことなのだ。好かれている、付き合っていると思っていたのは私だけで、向こうはただの遊びだったわけで……。
その日一日どうやって過ごしていたか覚えていない。今日は金曜日だから。今日だけ乗り切れば週末は泣いて過ごしたって構わない。
ただただ、ぼろが出ないように口元に笑みを浮かべ続けていた気がする。
いつ一日が終わったのかも知らなかった。
ぱっと電灯がついた。
驚いて顔を上げると、生徒が入口の電灯のスイッチの所に立っていた。
周囲が暗闇に包まれていたことも気づかなかった。日が落ちてからどれくらいたっていたのだろう。でも、随分遅い時間なのだということはさすがに理解できた。
小学生が校内に残っているには遅すぎる時間だ。
何でこんな時間にいるのか、何しに教室に来たのか彼がそこにいることへの疑問とか、暗闇で泣いている担任の姿を見せてしまった後悔とか、慌てて涙を拭ったけども、それでも止まらない嗚咽に感じてる焦りだとか、いろんなことが一斉に襲ってきて、どうすることもできなくて、私は思わず担任机の下に隠れてしまった。
「何やってんの? せんせ?」
可愛らしい声が聞こえたけども、ここにいる理由を問わないといけないんだけども、口を開くとまだ嗚咽が漏れそうで、私は隠れたまま何もできなかった。
先生なのに、私、先生なのに恥ずかしすぎるよ。
羞恥心で身悶えしている間に、生徒は担任机を回って私の前に膝を付く。こちらを見上げる幼い顔は不思議な表情をしていた。
ありえない状況で、ありえないくらい恥ずかしくて、ありえないほど頭は混乱していたけれど、私は教師だから、こんな遅い時間に真っ暗な校舎で何をしているのかと、詰問しなければいけないことだけは判断が付いた。場合によっては叱らねばならないのだ。こんなぐちゃぐちゃな状態の私に何を言われたって、この子には堪えないような気もするけれど。
「な、なんで、こんな、遅い時間…」
毅然とした態度では言えなかった。まだ嗚咽が残っているし、担任机の影にへたり込んだままなのだ。最後まで言う前に彼が口を開いた。
「今から、体育館で団の夜練。体操服持って帰るの忘れたから、ついでに取りに来たんだ」
ああ、そういえばこの子サッカーの少年団に入ってるんだっけ。
がんばってるんだなあとか考えて現実逃避してると、彼が小さな手を伸ばして私の頬に触れてきた。
「僕なら泣かせたりしないのに」
聞こえてきた台詞に驚いて、涙と嗚咽が一気に引っ込んだ。
いや、聞き間違えたんだよ。きっと。
そう思った矢先、彼が再び口を開いた。
「僕、十一歳になったからさ。あと七年待ってよ。そうしたら、結婚できるよ」
真剣な目で私を見つめる。でも、それはいつもの冗談。結婚しようはこの子の口癖。
「な、何…」
「だって、これ」
囁く声と共に彼の顔が近づいてきたので、何をするのかときょとんとしていたら、頬を流れる涙を舐められた。
ちょっ、君、犬猫じゃないんだから!
「小野木、結婚したんでしょ? 振られた?」
慌てて後ずさった私に再び近づき、かわいい声が穏やかに尋ねる。
どうして小野木先生とのこと知ってるのよ、この子は!
再度顔が近づいてきたので、私はまたも後ずさろうとして担任机の脚に背がぶつかった。
「樹くん、ちょっと、近っ!」
担任机の下のくぼみに納まってしまった私には逃げ場がなかった。って、自分の肩にも満たない身長の男の子に、どうしてこんなに追い詰められてるのよ、私。
慌てる私とどんどん近づく彼。
いや、逃げられないと言っても相手はたかが小学五年生。力が強いのは私の方だと互いにわかっているし、明らかだ。強引に彼を排除することは容易にできる。
力任せに逃げようと、足に力を入れようとした瞬間、唇に柔らかいものが押し付けられた。
あまりの出来事に私の思考回路がショートする。
頭の中は真っ白で、何が起こったかわからなかった。
「せんせ、すきだよ。何度も言ってるでしょ」
僅かに唇が離れてささやきが耳に届く。
理解できないまま固まる私の唇にまたも重なる唇。
って、この子、舌まで入れてきてるじゃないの。あんた小学生でしょうが!
言いたいことは多々あるものの、あまりの事に私は言葉を忘れてしまった。
しばらくして我に返った私は、無理やり力ずくで彼を引き離した。
名残惜しげに私の唇を見やる彼にどきりとした……いやいや、そんなわけがない。あってはならない。だって私は教師だ。成人した大人だ。
「いたずらが過ぎます!」
そう叱り付けると、かれはシュンとしおらしくなって上目遣いに私を見上げた。
「いたずらじゃないよ。せんせ、小野木ともしてたでしょ。社会科準備室で。……大丈夫。俺以外は何があったかなんて想像もしてないよ」
彼の言葉にぎょっとした。他の子にも知られてるのかと思うと冷や汗が出る。
そんな私の反応に気づいて、言葉を付け加えるなんて、君は本当に小学五年生なのか?
「俺、早生まれのせんせとはたった十二歳差だよ。小野木といっしょ」
同じじゃない。君は十一歳の小学五年生。小野木先生は三十五歳の学年主任。そりゃ、どちらも一回りの年の差だけども、でも、絶対同じじゃないわよ。私はショタじゃないんだから。
大体、私が君に手を出したら犯罪なんだからね。
「お、小野木先生も私も大人です」
小野木先生に捨てられたからって、小学生に慰められてよろめく様な変態じゃないのよ。
二十三歳で、これからまだまだ前途洋々たる未来が待ってる身なんだから。
「じゃあ、俺が十八歳になったら何も問題はないよね。大丈夫! ちゃんとそこまでは我慢するからさ」
なんて、彼は子どもの癖に飄々と言ってのける。
我慢って何だ、我慢って。
「せんせを泣かせたりしないし、幸せにするよ。だから待っててね」
いや、そこだけ小学生ぶって可愛く言ってもだめでしょうよ。
君、さっきのキスの最中、確信犯的に胸を揉んでたのわかってるんだからね。
ただ、小野木先生よりよっぼど気持ちよくて上手なキスに、末恐ろしいと知らず震えてしまう私がいた。
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笑みが漏れたのを感じた。
何だろうと思って閉じていた瞼を開き、目の前のまだあどけない顔を見つめる。一般的にはまだあどけないはずだ。
ああ、こら、私の口の中を舐めながら思い出し笑いをするなんて器用なことしないでよ。手はしっかり私の胸を揉んでるし!
唇が離れると、私を見つめる視線がふいと外された。
薄暗い教室を見渡して、再び視線が私に戻る。
「また五年二組なんだね」
「そうよ、また五年二組よ」
「学年主任はまた小野木なんだね」
確認するように囁く声を私は無視した。この話の展開は嫌な方向へ行きそうだ。
私は彼を押し退けると机の上を片付け始めた。
「練習、見てあげてるんでしょ、早く行きなさいよ」
「小野木、離婚したって? あいつ、僕のせんせに厚かましい事言ってない?」
私は君のになった覚えはないんだけどな。と、心の中で主張しつつ、彼の勘の良さに閉口してしまう。その通りだったから。小野木先生が離婚してから、同じ学年の担任同士という気安さもあって、良く食事や飲みに誘われる。さすがにホイホイついて行きはしない。でも、振った女を誘うなんて、小野木先生も意味わからないよね。彼氏のいない私は小野木先生にいいカモだとでも思われているのだろうか。
目の前にものすごく第六感が働く子がいるというのに、そんなことを考えてしまった。この話題から離れられない気がする。
彼が私と同じ大きさになった両手で、私の頬を包んだ。視線を外させてくれない。そして逃げられない。
身長は一月前に越されてしまった。力でも、もう敵わない。
そして今度は優しく啄ばむようなキスをされた。
「腹立つなあ。せんせ、迂闊すぎるよ。変な噂流されないでくれる?」
噂?
何のことを言っているかわからなくて首を傾げる私に、更に深いキスを繰り返す。気持ち良くてふわふわして訳がわからなくなるまで何度もキスをされた。
ぼんやりする私の耳に彼の呟きが届く。
「後四年だからね、せんせ。浮気なんてしないでよ」
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最近の小中高生は恐ろしい……。