8 「ファルマコン」
「ウワーッ! 今度は悪魔が出てきた! おおぉ女神、女神よ。どうか哀れな子羊をお助けください!」
「誰が悪魔だこの野郎」
アンカーの悲鳴に、悪魔もといセシルが青筋を立てる。セシルの片腕からは炎が揺らいでおり、それがまた凶悪な顔面と見事に組み合い、本当の悪魔のようだとトゥーリは思った。
「弟がすみません……」
羞恥で頬を赤く染めたノートンが、ずっと騒いでいるアンカーの頬を張る。小気味よい音が教会に響いた。
「俺はノートン・エアハルト。こっちは弟のアンカーです」
「双子か」
「一卵性です」
容赦ない制裁を見て幾分か気分の紛れたらしいセシル、己の腕にまとわりつく炎で長椅子を燃やさないように気を付けながらどっかりと腰かけた。
「ノートンさん、彼はセシルです。私の恩人で、一緒にアップルニードから来ました」
「アップルニードから?!」
またしてもアンカーが大袈裟に驚いて大声を上げるので、ノートンはきつく睨みつけながら背中を叩く。
「お前少しは落ち着けよ。ギャーギャー子供みたいに騒ぎやがって」
「落ち着いていられるか。アップルニードから来て、この悪魔はファルマコンをキメてやがる。あっちも相当やばいってことだ!」
「ファルマコン?」
聞いたことのない言葉にトゥーリは首をかしげる。腕が燃えていることと関わりがあるようだが、セシルは苦虫を噛み潰したような顔で黙っている。アンカーはセシルを睨みつけているし、ノートンも眉をひそめていることから、そのファルマコンというものはあまりいいものではないように思える。
「やばいぞ、兄弟。胡散臭い奴は追い出そう」
「彼女は俺の恩人だぞ」
「女神は残ればいい」
「彼は彼女の恩人だ。なら俺の恩人でもある」
「屁理屈こくな! ファルマコンを持ってるってことは、こいつも他の連中と同じくらいのろくでなしだ。ジャンキーめ」
「待ってください。ファルマコンとは何なのですか」
話題に取り残されていたトゥーリが慌てて三人の顔を見回しながら尋ねたが、双子が声を上げる前にセシルが鼻で笑った。
「余計なことはいい。しばらくここを根城にする。使われてる形跡はないみたいだからな」
「おい勝手なこと言うな! ここは俺らの縄張りだぞ」
歯をむき出しにして威嚇するアンカー。セシルはまとわりついていた炎を振り払って消すとその巨躯に釣り合わない素早い動きで、アンカーの首根っこを掴んだ。「ひっ」と掠れた小さな声が震える唇から発せられる。同時に彼はセシルによって汚れた石床にねじ伏せられていた。
「こ、ころ、す、……う、うう……、ころすのか、よ」
「口の利き方を知らねえようだな小僧。殺しは何度もやってる。今更罪悪感などわかねえよ」
「セシルやめてください!」
「弟が失礼をしたのは俺が謝りますからどうか! どうかお願いします、その手を――」
「ならお前が代わりに死ぬか」
「セシル!!」
またらずトゥーリが非難の声を張り上げると、セシルはちらりと一瞥してからやがて大きな溜息をついた。ぶつぶつと何やら呟き、アンカーを解放する。
「ほんとうにすみません……。でも、私たちには行くところがないのです。しばらく、ここにいさせてもらえませんか。大人しくしていますから」
首を解放されせき込むアンカーの背中をさすりながらトゥーリは懇願した。アンカーはばつの悪い顔をしてノートンを見上げる。ノートンはしばらくの間を置いてから頷き、トゥーリの元へ跪いて視線を合わせた。
「あなたは俺の恩人です。あの時も言いましたができる限りのことをしてあげたい。でも、ここも奴らの監視下です。俺がこんなことを言うのは失礼かもしれませんが、どうか目立つような行動は控えてもらえるとこっちとしてはありがたい」
「もちろんです、ありがとうノートンさん!」
「トゥーリさんは、あなたはソフテルの事情を知らないようですね。アップルニードから来たのなら仕方のないことだと思いますが、ファルマコンのことを知らないようじゃここではとても生活なんかできませんよ」
ノートンは意味ありげな視線をセシルへ投げかける。
「あんた、この人に何も話してないのかよ」
立ち上がろうともせず、石床に座り込んだままアンカーが吐き捨てる。トゥーリは視線をセシルに向けたが、ふいと逸らされて終わった。
「……アーチャーのことは聞いています」
「あいつから兄貴のことを助けたのが女神なんだよな。女神は工場で何をしてたんだ?」
「女神……?」
「すみません、弟は熱狂的な信者で」
「そんなことはどうでもいい。話なら後にしろ」
ノートンはあまりセシルを刺激したくないようで、舌打ちをするアンカーを引っ張って教会を出ていく。見送ったトゥーリは改めてセシルを見つめて近づいた。
「ファルマコンとはいったい何なのですか。あの二人は、まるでドラッグのような言い方をしていました」
「お前には縁のないもんだ」
「教えてください。私に足りないのは、ここで生活する情報と知恵です。教えてくれないのなら私は……」
数時間前に死にかけたばかりなので不吉なことは言いたくなかった。
口を噤んだトゥーリを見ていたセシルだったが「座れ」という一言とともにポケットから小さな銀製のケースを取り出した。ふたを開けると、ぞっとするほど毒々しい真っ赤な錠剤がいくつも転がっている。
「それがファルマコン……」
「ブラックマーケットで流通し始めた正規品だ。服用すれば一時的に遺伝子が書き換えられ常人離れした能力が発揮できる。俺が持っているのは炎だ。飲めば発火が自由自在というわけだ。同時に耐性もつく。つまり熱さも感じなければ火傷もしない。全身が炎そのものになる」
「さっきの、火を出していたのはそれなんですね……」
「私生活ではかなり重宝するだろうな。飲めばすぐ悪魔の友人になれる。だが、これは過ぎると毒になるものだ」
「ファルマコンは過剰摂取や限度を超えた常用により、強い副作用を出す」セシルは言葉を一旦切ってから続ける。ドラッグに似た依存性や禁断症状、過度の興奮による倫理に欠けた行動や言動、精神崩壊を起こす危険性のある猛毒の薬がファルマコンなのだという。
トゥーリにとっては小説の空想上の産物のような話だが、実際にセシルから吹き上がる炎を間近で見ている。その存在を嫌でも受け入れざるを得ないのだ。
「頻繁に使うから毒になる。俺は副作用の起きないラインを弁えている」
「そうですか……」
そうは言ってもトゥーリにとっては、セシルの持つそれに嫌悪を覚えられずにはいられない。そんな恐ろしい症状と戦わなくてはならないファルマコンは、やはり薬というよりドラッグだ。しかし、ソーに殺されそうになった時、無事に逃げられたのはセシルがファルマコンを使ったからだ。彼はファルマコンの危険性を理解していて使っている。ならトゥーリは否定的な言葉を紡ぐことはできなかった。
「こんなもの、アーチャーは作って何をしようとしているんです」
「ビジネスだ。膨大な金と権力が手に入る。考えてみろ。これを欲しがらない奴がいると思うか。頭のいい連中はアーチャーのパトロンになるか、アクロイド社の傘下にくだるか。どっちにしろ奴にとってはいいことだらけだ。こいつをコントロールしているうちはな」
トゥーリが錠剤に触ろうとすると、セシルはすぐに蓋を閉じてポケットにしまってしまった。
「ファルマコンを持つ者同士の泥沼のファイトを見てみたいもんだ」
「ディープダイブのトップに立つつもりでしょうか。でも、そうなったら……」
「恐ろしさは身を持って知っただろう。ソフテルはすでにアーチャーの庭になりつつある。ソフテルの技術と情報網は掌握済み。逆らえば抹殺される。これが一か月経たずに起こっている。とんでもないスピードで侵略されてるってことだ」
「他の地区は、どうなんでしょう」
「……知るか。ソフテルだけじゃ満足していないのは分かるがな。おまえ、アーチャーがまともな神経を持ってると思うか? おかしいのは奴だけじゃない。あいつを囲む全員が、頭の螺子が片っ端から錆びてるか歪んでるんだ。これからのことなんか、想像できるものか。もう遅い。そろそろ寝床を探すぞ」
アップルニードのことを口にしようとしたトゥーリだが、知ってか知らずかセシルはそこで会話を切り上げた。しつこく話をするのも、今のセシルにとっては煩わしいに決まっている。これだけ教えてもらえたのだから、ひとまずトゥーリは満足することにした。
頷いたトゥーリが立ち上がると、突然セシルが腕を伸ばしてきて抱き寄せてきた。
「えっ――」
かぁっと今まで感じたことがないくらい、トゥーリの顔に熱が集まる。地下で彼に縋りついて泣きわめいたことも思い出してしまい、ますます恥ずかしくなる。
「ど、ど、どうか、したんですか……?」赤面を見られないように俯き、声が緊張で裏返りそうになるのを耐えておずおずとセシルへと尋ねる。
「……何でもない。俺の気のせいだ」
すぐに体が離れていき、同時にセシルの体温も失われた。トゥーリはまた別の意味でほうっと胸をなでおろす。セシルは何者かの気配を感じたのだろう。それなのに抱き寄せられただけで浮かれ、離れていったぬくもりを恋しく思う自分がとんでもなく間抜けな存在に思えた。




