4 「地下にて」
地下に潜ってからトゥーリは休まずソフテルへ向かって歩き続けている。
太陽の光が恋しくなるものの、トゥーリのいる地点はアップルニードの中心だ。息抜きに地上へ出て運が悪ければ知り合いに顔を見られてしまう可能性もある。喉が渇いて腹の虫が鳴っても、トゥーリはアップルニードを出るまで地下にいることを決心した。
地下を利用する人間はいないに等しい。
地下は薄暗く、快適とは程遠い場所だ。汚水の臭いや腐臭もするし、何より不健全で合理的ではない。そんな場所をアップルニードに住む上流階級の人々が利用することは皆無だ。
地上ではトラムやバス、自転車や自動車などの公共機関が充実している。なのにわざわざ好き好んで地下を使う人間がいるならば、よほどの変人か浮浪者だろう。
その変人の仲間入りをしたトゥーリは、ようやく足を止めた。
「ふう……」
額に浮かんでいた汗を、腕を使って軽く拭う。
せっかくシャワーを浴びて服も新調したというのに、トゥーリは全身にびっしょりと汗をかいていた。地下は地上よりも冷ややかだが、いかんせん湿度は地上の倍以上。それに酸素も少ないせいで、歩いているだけでも次第に息が上がるという悪循環である。
丸みを帯びた壁に設置されたベンチを見つけたが、湿気とカビのせいで腐りかけている木製のそれを使う気にはなれなかった。
「ここは、中心部の真下かしら。だとすると、あと少しでソフテルへ抜けられるわ……」
湿気でふやけて張りのなくなってきた地図を、指で追いながら確認する。
アップルニードは裕福な上流階級の人々が住む地区だ。主に政治家や議員、新聞や雑誌でスキャンダルを取り上げられる役者や音楽家、有名人揃いの裕福層だ。ディープダイブの中央に位置し、そこから東西南北と四つの地区が広がっている。
北地区にドーラリー。
西地区にバウンティジョン。
南地区にフッドオール。
東地区にソフテル。
トゥーリはアップルニード以外の地区に詳しくはなかったが、ソフテルについてはラジオで流れていたニュースを聞いて知っている。蒸気機関や機械工学の技術者をたくさん輩出させ、技術者の町と呼ばれて讃えられたものの、最近では他の地区と比べてずいぶんと貧しい町になってしまったようだ。
そこに住む民層も悪くなって、彼らの生活の糧であった生産ラインは質が下がる一方。そんなところと、誰が下請けに迎え入れるだろうか。まるでスラムのようになった町からは、いつしか物騒なニュースしか流れてこなくなった。
それでも、そこそこ大きな町である。被害の少ない場所を選べばいいだけのこと。どれだけ貧しくなろうと暮らしていければ、トゥーリはどこでもよかった。むしろ、それが隠れ蓑になるのならなおさら。
再び歩き続け、何度目になるか分からない休憩を取っていると、地上への階段のほうが何やら騒がしくなってくる。半日以上も一人きりだったトゥーリには、とても新鮮に聞こえる人の声がやってきて、次々に階段を使って人々が地下へと押し寄せてきた。
トゥーリは驚いてすみのほうへと避けるが、あっという間にがらんとしていた地下が人でいっぱいになった。
「突然警報が鳴るなんて、何かあったのかしら。何か聞いてます?」
「いいえ、わたくしの主人からは何も。用心にこしたことはありませんが少々不安ですわね」
トゥーリは首をかしげた。警報とは町の外灯のあちこちに付けられた拡声器を指す。大きな事故や災害が起こると警告の意味でそこからサイレンが鳴る。地上だとさらに被害が大きくなると考えられ、住民には地下に避難するように指示が出されていた。
これは昔、大戦争が起きた時に空から攻撃を受けた際、多くの死傷者を出したことから人々は地下にシェルターを作るようになったらしい。トゥーリも詳しくは知らないものの、避難する場所は地下というのはその名残であるのだ。しかし、何か特別な事故があったのだろうか。
サイレンが鳴るとすれば、あのゲージハウスの事故くらいだが、あれは昨日の昼間のことだ。いまさら警報を鳴らすのは不自然である。
アーネスト達が巻き込まれていないことを祈りながら、トゥーリはできるだけ顔を見られないように人ごみに紛れながら歩き出す。幸いにもトゥーリを気を回すくらいの余裕のある人はいないようだ。安心して人の輪から離れようとしたが、混乱している中でもトゥーリを見つけて声をかけてきた婦人がいた。
「あなた、何か聞いております?」
派手なボンネットを被った中年の婦人だった。
「ええと、何も」
「あら、ずいぶんと酷いかっこうですこと。地下で暮らしているのかしら」
婦人は嫌な笑みを浮かべて皮肉を言う。
「あなたが持っているそれ、ワインじゃなくって? しかも見たところ年代物ね。あなたのような人がどうしてこれを?」
「おつかいの途中なのです……」
「私の夫はアップルニード警察に勤めているんですの。ですから観察眼は妻のわたくしもそれなりに持っているの。あなたは怪しいわ」
「そんなこと言われても」
「どこのご出身? その身なりはバウンティジョンかソフテル? その品を見せてごらんなさい」
面倒な人に捕まってしまったものだ。おしゃべり好きな婦人にはよくいるタイプだ。
長引けば長引くほど、内輪な話に持っていかれて、下手をすると洗いざらいぶちまけてしまうということも。婦人は息をつかせぬようにしゃべり続けるので、トゥーリは逃げる機会を完全に失ってしまっていた。
婦人の甲高い声に頭が痛くなってきた時、賑やかだった周囲が突如静まり返った。そして人々の視線はある方向へと集中する。トゥーリもおしゃべりな婦人も、同じように視線を投げかける。
視線の先には地上と地下を結ぶ階段があった。地上の光に照らされてゆらりと姿を現したのは、一人の浮浪者だった。しかし、その風貌は浮浪者というよりも幽霊のような姿に近かった。みすぼらしいかっこうに加えて、全身傷だらけの泥だらけである。
人々はそんな男の様子を認めたかと思うと、そこから悲鳴を上げて蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。
「あ……っ」
しかし、トゥーリは人々にぶつかられながらそこに立ちつくした。初めて会った時よりぼろぼろになっていたが、男はゲージハウスで手助けをしてくれたあの男だったからである。
ふらふらと階段を降りた男は、一気にがらんとした地下に視線を彷徨わせ、やがてトゥーリの姿を認めると驚いたように目を見開く。トゥーリは緊張で足が震えたが、ゆっくりと男の様子を伺いながら近づいた。
男の来ている囚人服のあちこちに乾いた血痕が点々とついており、裂けた服の間から見える筋肉質な肌には比較的新しい血がついていた。
「生きていたのか」
男がまるでトゥーリの身を案じるような言葉を口にしたので、トゥーリは安心して男に走り寄った。
「……あの時、何があったのですか。気がついたら、私は森の中にいてあなたがたの姿がありませんでした」
驚いていた男の目が据わり始め、ゲージハウスの時のように再びしかめっ面になった。
「知らん。俺こそ何があったのか教えてほしいくらいだ。護送車が横転して気づけば森の中に投げ出されてた。たいした怪我もなかったが、あのクソガキどもめが……! 恩人を見捨てていきやがって。誰がブタ箱から解放したと思ってる」
男の負っている傷は、護送車が横転した時にできたもののようだ。満足に動けない男を、他の囚人達は見捨てていったのだろう。
トゥーリは恐々と男に近付いて怪我の具合を確かめた。それほど深手ではないように見えたが、地下という不衛生な場所で放っておけば、化膿してもっと悲惨な有様になるだろう。
「手当てをさせてください」
「あぁ……、好きにしろ。変わりものめ」
男を地べたに座らせ、トゥーリはトランクケースを広げた。購入しておいたアルコール消毒液の入った瓶を取り出し、傷口に向けてそっと垂らした。予想以上に沁みるのか、男は痛みに呻いて殺されかねないくらいの勢いのある目つきで睨まれる。トゥーリは視線で殺されそうになりながら、気づかないふりをして手当てを続けた。
血と消毒液を清潔なタオルで拭き取り、幾分か綺麗になった傷口にガーゼを当てて包帯を巻く。全てアーネスト家で働いていた時、昔看護婦をしていたという年上の同僚に教わった応急処置の方法だ。
「俺を助けてどうするつもりだ」
「……どうもしません」
「そんなわけあるか。何を企んでやがる」
トゥーリは青い瞳で真っ直ぐ男の目を見つめた。
「では、あなたはどうして私を助けてくださったんですか」
「お前が、人質に使えると思っただけだ」
男の本心が分からない。
昨日は何となく、そして今は人質にするためなど、ころころと理由が変わるということは、男の言う言葉が信じられなくなる。人質にするつもりなら、トゥーリのトランクケースを容赦なく奪っただろう。他の囚人達が、女であるトゥーリを襲うことも止めなかったはずだ。
「どんな理由があっても、私はあなたに恩があります。あなたの力になりたいのです」
「だからソフテルに連れて行けってか」
「あなたを利用するつもりはありませんが、目的地は一緒でしょう……?」
「……何ができる」
「できることならなんでもします。メイドとして働いていた経験もあります」
「………………使えないと分かったらすぐに叩き出してやる」
「あ、ありがとうございます……!」
男は呆れたように溜息をついたが、それ以上何も言わずに立ち上がった。
「私はトゥーリ・アクセルソンです。あなたはええと……」
「……セシル・ミラー。セシルでいい。さっさと移動するぞ。ここにいると面倒なことになりそうだ」
「地上で何かあったのでしょうか」
「知るか」
セシルは興味がないと冷たく言って、さっさと地下を進み始めた。トゥーリも慌てて広げていたトランクケースを閉じ、離れないようにセシルの後ろを着いて行く。歩きながらセシルの体を見回すが、普通に歩いているところを見ると、護送車の転落事故のわりには骨に影響はなかったようだ。
「たいした怪我がなくてよかったです……」
「お前、この状況が分かってんのか。俺は囚人だぞ。それも脱獄した。いい気なもんだな」
とっさに謝罪の言葉が頭に浮かんだが、寸でのところで口を噤んだ。
おそらく、その言葉を口にすればセシルはきっと怒り出すだろう。トゥーリが黙ると、その選択は正解だったようで、セシルは鼻を鳴らした後は声を荒げることも掴みかかってくることもなかった。
地下はアップルニードの人々が警報のおかげで所々に固まっており、それを迂回しながら進まなければいなかったせいで随分と遠回りするはめになった。アップルニードから離れたかと思えば、進む道を塞ぐようにして人々が避難していて、再びアップルニードの中央部へ戻る。それの繰り返しのせいで、セシルは苛立ち、トゥーリは疲労を募らせていった。
それから何時間歩き続けたのか、黙々と進んでいた二人はようやく休憩を取ることにした。
トゥーリの持っている懐中時計が狂っていなければ、ちょうど今の時刻は夕方。どのくらいの距離を歩いたのか分からなかったが、地図を確認すると現在地はアップルニードの外れだ。もう少しでアップルニードを出られるだろう。
「寒くありませんか」
「寒かったらなんだ。お前が服でも貸してくれるってか」
トゥーリと若干の距離を取って休むセシルが皮肉を言う。トゥーリはどういう反応すればいいのか分からず、結局黙って買っていたワインとビーフジャーキーを手に男に近付いた。セシルはそれを見ると、初めて色めきたった声を上げた。
「気が利くな」
「護送車の中で、あなたが言っていたのを思い出したので購入しました」
「覚えてたのか」
抜栓してボトルを渡すと、セシルはまるでジュースでも飲むように喉を鳴らして半分近く一気に流し込んでしまった。トゥーリが驚いている中、セシルはボトルを持ったままビーフジャーキーの包装を破り、牙のような鋭い歯でそれらを噛み千切るので、思わずぞくりと背中に冷たいものが走る。
「お前も食え。もたんぞ」
「あ、はい」
ずいっと目の前にビーフジャーキーを出されたので断ることなく受け取る。
アルコール類は口にしたことのないせいもあって、少しだけビーフジャーキーなどの嗜好品に抵抗を持っていたものの、一口噛み締めると肉の旨味と塩辛さが舌を刺激した。失っていた活力が戻ってくるような味わいに、トゥーリは夢中になってビーフジャーキーを噛みしゃぶった。
すると、セシルが今度はワインボトルを突き付けてきた。暗に飲めと言っているようだ。ここにワイングラスやコップはないので、直に口をつけて飲むしかない。トゥーリは初めて「ラッパ飲み」と呼ばれる下品な飲み方を体験するのだった。
やや野性的な食事を終えた二人を襲ったのは睡魔だった。今まで飲まず食わずで歩き続け、ようやく食事にありつけたとなると今度は心地よい疲労感が這い寄ってくる。
トゥーリは疲労感に抗うように立ち上がろうとしたが、隣でいつの間にかセシルが寝息を立てているのを見て再び腰を地面に落ち着けた。
セシルはトゥーリが近付いても起きる気配はなかった。気難しそうな眉は不機嫌そうにひそめられている。よほど疲れていたのだろう、先ほどまで発せられていた覇気や殺気は一切感じられない。アルコールのおかげで血色がいいが、破れた囚人服に身を包むセシルが時々寒さを耐えるように四肢を縮ませているのを見ると、アップルニードを出る前にもう一度ブティックに寄ったほうがいいように思えた。
は、としてセシルは目を覚ました。すぐさま上体を起こして辺りの様子を伺うと、特段変わったことはなかった。好きものな女がすぐ隣に寝ていたこと以外は。セシルは眉をひそめて、眠りこけるトゥーリを見てすぐにそらした。
年はおそらく二十代半ばと若い娘だ。髪や肌はきめ細かく、生活も潤っていることは言われずとも見ただけで分かった。立ち振る舞いや身なりからも、それなりに大きな屋敷に勤めていたことを思わせる。セシルはそんな娘が何故アップルニードから出たがるのか、脱獄したての囚人に縋ってきたのか理解できなかった。
どういう意図があるのせよ、世間知らずな娘を利用しない手はない。かつて仲間だと思っていた服役囚がいないおかげで、娘のトランクケースに入っているであろう現金や金になりそうな高価な物は、ほぼ独り占めできる。言い包めれば上手く使えるだろう。
と、そこまで考えてセシルは自分に対する言い訳がましい理由に自嘲した。囚人時代を得て自分の性格は以前より尖ったように感じられたが、どこか甘いところがまだ存在していたらしい。
本当のところを言うと、トゥーリをどうこうするつもりはなく、ただ彼女の存在自体が気になって仕方がなかったのだ。今まで会ったこともないだろうに、どこか懐かしいような既視感を感じる。彼女に対する庇護欲なのか、ただの同情なのか、はたまた女という生き物に惹かれているだけなのか。
考えるのが面倒になったセシルはそれを打ち消すように立ち上がった。
「起きろ」
できるだけ低い声を出してトゥーリに言い放つ。
トゥーリは身じろいで、ゆっくりと閉じていた瞼を開けた。ぼんやりとしていた目はやがて覚醒し、立ち上がっているセシルの姿を認めると慌てて立ち上がった。寝起きで勢いをつけすぎたせいで頭が痛むようだったが、セシルは構わず歩み始める。
後ろからトゥーリの足音が急いで着いてくるのを耳で確認し、セシルは深い溜息をついた。これでは先が思いやられる。
「あの」
後ろからかけられた声に、セシルは面倒臭くなって凄みをきかせた目をして振り返った。怯えを含ませた目で見つめてくる彼女に、無性に腹が立ってセシルは獣のような唸り声を上げた。
「用がないならしゃべるな」
「いえ、違います。アップルニードを出る前に、一度地上へ出ませんか」
「なに?」
「眠る前に地図を確認したのですが、ここはちょうどアップルニードの外れです。ここの付近に確かお店があったと思います」
「そこで何をする」
「あなたの服と、私の服を新しく買いたいのです」
「何でだ……」
「休んでいた時、とても寒そうにしていたので……。そのかっこうだとソフテルに行っても怪しまれますし、風邪でも引いたら大変です」
セシルは拍子抜けした。
どこまで警戒心がないのだろうか。セシルが思っていた以上に目の前にいる娘は世間知らずでお人好しらしい。そんな一回り以上年下のトゥーリを見ていると、情のようなものがわいてきて不思議と気分は悪くない。
「金は持ってんだろうな」
「でも、上等な服は買えないかもしれません」
「別にいい。ならさっさと地上へ出るぞ」
彼女の瞳から怯えが消え、少しだけ笑みを浮かべたように見えたのでセシルは体を内側からくすぐられるようなむず痒さを感じて居心地が悪くなった。




