2 「ゲージハウスにて」
『まさに奇跡です。幸運としか言いようがありません。お嬢様は無傷で、そしてあなたも顔の火傷だけで済むだなんて!』
『初めまして。私はあの時、あなたに娘の命を救ってもらった者です。フランツ・アーネストと申します』
『私は妻のオードリーです。あなたに感謝してもしきれません。あなたがいなかったら、娘は私達の腕中へは帰ってこなかったのですから』
『ぜひ、あなたの名前を教えていただきたい』
『ご出身はソフテル? まあ、ご両親を亡くして独り身でいらっしゃるの? お若いのに……』
『しばらくここで静養されてはいかがでしょう。ここはアップルニードです。平和な地区ですから安心して休んでください』
『あなたの治療費と入院費はこちらで負担させていただきます。これくらいのこと、当然です。何か必要なことがあれば言ってください』
『え? 本当にそれでいいの? 私達の家で働くだなんて』
『もちろん、歓迎しますよ! そうだ、私の娘を紹介しましょう。エノーラ、お前の恩人のトゥーリだよ。今日から私達の家で働く人だ。新しい私達の家族だよ』
「…………さん、……トゥーリさん!」
ペッカー所長の声で思い出に浸っていたトゥーリは我に返った。
待合室の椅子に腰掛けていたトゥーリはすぐに立ち上がって、いつの間にか目の前に立ってたペッカー所長に慌ててお辞儀をした。
「申し訳ありません。ぼうっとしていました」
「いえいえ、お気になさらず。こんなところにお嬢さんを呼んでしまって、こちらこそ申し訳ない思いですよ。アーネストさんには色々とお世話になっています」
たっぷりとした髭を蓄えたペッカー所長は大柄で、大きな腹を制服が窮屈そうに収めている。しかし、強面であるそんな彼が頬を緩めると、動物に似た愛嬌を感じられるのだから不思議だ。
「確かに書類は受け取りました。アーネストさんから裁判傍聴の話は聞いておられますか?」
「はい。私ごときで恐縮ですが、よろしくお願いします」
「そうですか! では早速、こちらへどうぞ!」
口髭の間から白い歯を見せて笑うペッカー所長に連れられて、トゥーリは無機質な廊下を歩いた。
何度か頑丈な鉄の扉をペッカー所長が手続きをしながら潜り抜けると、目的の場所に到着する。行き止まりになっているドアには、第一法廷と彫られたプレートが取り付けられていた。
「ささ、どうぞ」
扉の向こうの法廷はよく雑誌やテレビで見かけるものと同じだった。裁判員席と被告人席、それらと一線を引くように柵で仕切られた傍聴席。簡易な法廷であるものの、緊張で張り詰めた空気が漂っている。傍聴席にはすでに何人かの人が座っていて開廷を待っていた。
「お好きな席へどうぞ。私は何か飲み物を取って来ます」
「はい」
空いている適当な席に腰掛けてトゥーリはぼんやりと、高い天井を見上げた。
言いつけは無事に済ませたが、トゥーリはこのままアップルニードを去ろうと考えていた。幸いにもしばらく不自由なく暮らせるだけの余裕はある。ただ、完全に未練がないと言えばそうではなかった。
アーネスト一家とのあの幸せな時間が過ごせなくなると思うと、トゥーリの胸は悲しみに押しつぶされそうになる。
聡明なアーネストとの歓談は勉強にもなり、社交性を身につけることができた。オードリーとのティータイムは午後で一番好きな時間だった。エノーラの世話は苦痛ではなく、むしろトゥーリの喜びだった。子犬のアルフレッドはつぶらな黒い目や甘えん坊なところが可愛くて仕方なかった。
アーネスト一家はトゥーリを愛してくれていたが、それは本当のトゥーリではなく、嘘で塗り固められた虚像の自分だ。奴隷の出身を偽り、事故を口実に一家の自宅へと転がり込んで、仕事と衣食住を確保した打算的な人間だ。
トゥーリは思わず自分の醜さに頭を抱え込んだ。
「トゥーリさん? 気分でも悪いんですか?」
ペッカー所長が紙コップを二つ手に持ちながら、トゥーリの顔を覗き込んでいた。
「いいえ、何でもありません。お気づかいありがとうございます」
「そうですか? いやはや、美しいお嬢さんが憂い表情をしてらっしゃると、年甲斐もなくどきまぎしてしまいますぞ」
「まあ……」
ペッカー所長が額に汗を浮かべ、頬を染めて言うのでトゥーリの顔にも熱が集まるのを感じた。
照れ隠しに湯気の立つ紅茶の入った紙コップを受け取り、顔を俯かせながら縁に口を付けた。
「傍聴は初めてですか?」
「ええ、貴重な体験です」
「そうでしたか。今回は殺人犯の公判です。気分が悪いようでしたら、退席して構いません」
ペッカー所長が紙コップに入った紅茶を飲みほした時、看守が扉を開けて入ってきて、トゥーリへの挨拶もそこそこにペッカー所長に何やら耳打ちをした。ペッカー所長の強面の顔がますます険しくなっていくのを見ると、どうやら悪い知らせらしい。
「トゥーリさん、ちょっと失礼しますね。あ、開廷までには戻って来ます」
「お構いなく」
トゥーリも座ったまま会釈をして、ペッカー所長と看守を見送った。
◆◆◆
ペッカー所長は警戒心を丸出しにして、目の前に立つ男を見つめた。
約束もなしにペッカー所長へ面会を申し出たのは、ディープダイブでその名を知らぬ者などいないであろうほどの有名人だった。
大規模な製薬会社、アクロイド社の若社長アーチャー・アクロイドだ。
「こんな所へ突然、何をされに来たんですかな?」
棘のある声で尋ねたが、アクロイドは穏やかな笑みを崩さなかった。
数ある製薬会社を束ねる首領と呼ばれるほどのカリスマ性と優秀な頭脳を持ち、さらに美しい容姿の男を世間は放っておかない。弁舌に優れた彼は政治界の常連でもあり、テレビやラジオにも多数の出演があるほどの有名人だ。
彫の深い目鼻立ちに太い眉は男らしさを醸し出しているが、穏やかな甘い笑みは女性を引き寄せるくらい魅力的だ。しかし、ペッカー所長は男である。どんなに男前であろうと、その甘いマスクには騙されないのだ。
「あなたは私を誤解なさっているのではないですか? そう意地悪をしないでほしい」
「意地悪? 何のことだか」
「ふむ、どうやらあの噂を信じていらっしゃるようだ。この私が、兵器を製造しているだなんて馬鹿げた噂を」
「もちろん、鵜呑みにしているわけではありませんよ。ですがね、ここ最近で私のゲージハウスに入所してくる連中が、あなたの会社に出入りしていたとの情報があったんです。私はアップルニード警察と繋がりがありますのでね」
アクロイドの発する独特な雰囲気にのまれないよう、内心焦りながらペッカー所長が気丈に話を続ける。
「連中の健康診断をした際、血液から異常なほどの薬物が検出されたんです」
「ほう」
「兵器は兵器でも、それは火薬や鋼を使ったものではなく、薬物兵器なのではと私は考えています。そして、その連中の監獄から奇妙な現象が相次ぎました。一人は内臓から発火し焼死しました。もう一人はおびただしい電流を発して感電死、そして二週間前には遺伝子組織を破壊されて、原型を留めない謎の死に方をした連中もいます。死体は全てドーラリーに運ばれました」
「超常現象ですね」
のんきなことを言うアクロイドにペッカー所長は苛立ちを覚えた。
「我々の理解を超えるそれらの現象の数々、何らかの関係があるのでは?」
「ペッカー所長」
いつの間にかアクロイドが目の前におり、狼狽えるペッカー所長の肩へ手を置いていた。
「悪い噂だ。さすがに私でも、殺人兵器などは作れませんよ。非人道的でしょう」
笑みを崩さずに言うアクロイドをしばらく見つめたペッカー所長だが、やがて深い溜息をつくと懐からずっとこの時のために隠し持っていた物を取り出した。
ペッカー所長は一つの小さなアンプルを取り出して、アクロイドの顔面に突き出した。アンプルの中身は毒々しい赤色の液体で満たされている。アクロイドは怪訝な表情を浮かべたが、やがてゆっくりと笑みを深くした。
「これは、我が社で出しているアンプルですね?」
「そうです。私が個人的に極秘に入手したものです。中身はもう言わなくても分かっている。依存性の高いドラックだ。この成分と同じものが囚人から検出されている。あなたの会社はいったい何を作っているんだ?」
「ロッテ・アンセルミ」
唐突にアクロイドの口から発せられたその名前に、ペッカー所長は聞き覚えがあった。ペッカー所長が秘密裏にアクロイド社へ送り込んだ部下の名前だ。このアンプルの入手もロッテにさせたものだった。しかし、ロッテの名前をアクロイドが知っているということは。
いや、何千人といる社員の名前をいちいち覚えているはずがないと思いながら、ペッカー所長は背中に冷たい汗が流れた。
「あなたの部下は実に優秀な女性でしたよ。数日間、我々の監視を潜り抜けてアンプルを入手されていたなんて気付かなかったんですから」
「彼女は……」
「もう殺しましたがね」
ペッカー所長は心臓をわし掴みにされた思いだった。
「当然のことだろう? 私の大事な研究室に無断で入り込み、土足で踏み荒らした者を許すほど、私の心は広くはない」
「アーチャー・アクロイド! 貴様を殺人罪で逮捕する!」
「ふはは、噂を耳にしているのなら、私がどんな人間か知っているのではないか?」
アクロイドは震えているペッカー所長の手からアンプルを抜き取る。片手でアンプルの首を折り、中身の液体を数度揺らしてから一気に飲み込むアクロイドを、ペッカー所長は呆然とした表情で眺めた。
「あなたの推測は悪くない。確かにこれは摂取した後、ドラックに似た多幸感を得られるし、副作用として高い依存性を持っている。しかし、それ以上の効果が望める。人類の生活を一変させるほどに。しかし、やはり高い依存性があると非常に使いにくい代物だ。人体実験を繰り返しているが、副作用を失くすことができなくてね……」
「なにを……」
「何だその顔は? 大方予想通りだっただろうに。私の薬物兵器開発はどの部門より秀逸を極めている」
はあ、とアクロイドは溜息のような息をついた。その口から異常なほどの熱気が立ち昇るのを感じて、ペッカー所長は危険を感じて後ずさる。
「人体発火の謎を解明してご覧に入れよう」
熱風がペッカー所長の頬を撫でる。アクロイドの両手には炎が握られているかのようで、形の整った唇の隙間からも小さな火が吐息と共に零れ落ちていた。
「実験体に使ったのは初期段階のドリンクだ。肉体が作用に耐えられず焼失してしまうし、無事だったとしてもドリンクなしでは生きられない体になってしまう。しかし、あなたが手に入れていたのは完成した品だ。依存性は残っているものの、このような効果を得ることができる。まるでスーパーヒーローにでもなった気分だ」
「アーチャー……アクロイド……!」
「残念ながらディープダイブ全域の裏ルートを使って出荷したよ。さて、これからどうなるか見物だね。ああ、それともう一つ悪い知らせだ。こんな家畜の掃き溜めにもう用はない。それを管理する人間にも。実は私の部下も、あなたと同じような手を使ってここに入所させているのだ」
「なに?」
「今はちょうどブレイクタイムの時間だ。囚人は監獄から一時解放される、最も監視の緩む時間。先ほど言ったように、私の専門は薬物兵器の開発だ。しかし、火薬を使った兵器の開発も片手間だが行っている。新開発の爆弾のテストをしたいと考えていてね、ここはいい実験台になりそうだ」
炎の熱気に当てられたペッカー所長だが、その体は次第に恐怖で冷えていくのを感じていた。
「百ミリグラムの火薬で作った爆弾を数ヶ所で起爆させる。威力はおおよそ数キロメートル。どのような惨事になるか知りたくはないかね。ご安心を、私は早々に引き上げる。さすがに命が惜しいのでね」
「こ、の……悪魔め! それでも血の通った人のすることか?! 部下をも見殺しにするというのか?!」
「私の部下は忠実だ。私のためになるのなら、喜んで命を差し出すだろう。そろそろ長話も飽きてきた。さようなら、ペッカー所長」
目を細めて笑うアクロイドは本当に悪魔のように見えた。炎に呑まれるその瞬間まで、その笑顔から目が離せなかった。




