1 「幸福から絶望へ」
※奴隷の他、性を匂わせる描写があります。
トゥーリの朝は忙しい。狭いとは言えない屋敷の中を、先輩メイドと共に駆け回り、素晴らしい朝を主人たちのために準備を整える。
寝起きがすこぶる悪い、主人の愛娘、エノーラの世話係であるトゥーリは、身支度を整えて真っ直ぐ彼女の寝室へ向かう。子犬のアルフレッドは元気が有り余っているようで、トゥーリの足元にじゃれつきながら一緒にエノーラの部屋を訪れる。すると、天蓋付きのベッドの上で小さなレディはまどろんでいた。今にも夢の世界へ旅立とうとしているかのようだ。
トゥーリは問答無用とばかりにカーテンを引いて、清々しい朝日を薄暗い寝室へ取り入れる。眠い目を擦り、朝日に唸るエノーラの背中を押してトゥーリは洗面台へと連れて行く。お湯で温めたタオルでそばかすの残る可愛らしい顔を拭いてやっても、まだ眠気は取れないようだった。
「トゥーリ、あたしは眠いの、寝かせて」
「今日はお祈りの日ですよ。髪型を変えましょうね」
エノーラは今年で九歳になる少女だ。命の恩人であるトゥーリを、まるで本当の姉のように慕ってくれている。トゥーリも、素直で賢いエノーラが可愛らしくてたまらなかった。だからたまに叱りつけたり本気で喧嘩をしたりできる。
癖のあるブロンドの髪を巻いていると、エノーラがふと呟いた。
「今日は学校まで迎えに来て」
「私がですか」
いつもは専属の運転手が学校まで車を出して、毎日送り迎えをしているのだ。それを断り、トゥーリに迎えに来てほしいのだと、起き掛けの掠れた声で言った。
「トゥーリじゃないと駄目なの」
「いいですよ。歩くことになりますけど」
「かまわないわ」
エノーラがトゥーリを振り返って、その可愛らしい目と口を動かして破顔した。
「トゥーリ大好き」
体を反転させて、エノーラはぎゅっとトゥーリに抱きついてそう言った。
「どうしたんですか、急に。今日は甘えん坊さんですね」
トゥーリは確かな幸福を感じながら、同じくエノーラを抱きしめて頭を優しく撫でた。
エノーラの支度が終わり、次に取り掛かるのは山のように積もる洗濯物だ。
ヘアセットを持って部屋から出ると、ちょうどガウンを羽織った主人と鉢合わせした。
「おはようございます、旦那様。失礼しました」
「おはよう、トゥーリ。エノーラを任せてすまないね」
このディープダイブと呼ばれる、海に囲まれた大きな島はソフテル、バウンティジョン、ドーラリー、フッドオール、そしてアップルニードと五つの地区に分かれている。
トゥーリの主人、フランツ・アーネストは上流階級の人々が住むアップルニードの議員だ。父親の跡を継いで議員の席についていたが、紳士的な性格や能弁で優しい語り口のおかげで彼の評判はすこぶるいいものだ。市民達からの人望も厚く、若いが未来を任せられる議員の一人だ。
主人に恭しくお辞儀をして、トゥーリはヘアセットを置きにひとまず自室へ戻る。
毎日が忙しいが、やりがいがあり、何より優しい主人や仕事仲間に囲まれて生活できるのはこの上なく幸せだった。メイドとして働いて、辛いと思ったことは一度もないほどに。熱心さを買われて様々なことを教え込まれたトゥーリは、たった半年でメイドとしての仕事を完璧にこなせるようになった。
「いい朝だな、トゥーリ」
しかし、朝の清々しい気分も部屋から出た直後にかけられた声で、ずんと沈むような重い物へと変化した。目の前の鮮やかだった光景が次第に色を失くしていき、変にどくどくと心臓の鼓動が早まった。
「朝からよく働くな。さすが元……」
トゥーリは声の主を振り返って睨みつけた。
「おっと、ここでは秘密だったよな。元奴隷のトゥーリ?」
ぞく、と背筋が凍る。
トゥーリの行く手を阻むように現れたのは庭師のダリウスだ。
屋敷の中で、トゥーリに次いで若い彼は何かと理由をつけては声をかけてくる。トゥーリはそれを無碍にはできず、唇を噛み締めながらダリウスを睨むことしかできない。
何故なら、彼はこの屋敷の中で唯一、トゥーリの過去を知る人物だからだ。
「お前を見ているといじらしくなるよ。過去を打ち消して、一生懸命アーネストさんに仕えて。まだ二十三に成り立ての若い娘だってのに」
「年は関係ありません」
やっと発することができた声は震えていた。それをダリウスは愉快そうに笑った。
「私は忙しいので、これで失礼します」
一刻も早くこの場から立ち去りたい。軽くダリウスに会釈をしてリネンルームへ向かおうとした時、突然腕を掴まされて引き寄せられる。トゥーリは怯むことなくダリウスを睨みつけた。
「つれないこと言うなよ。俺と話そうぜ」
「仕事が残ってるんです」
「いいのか? アーネストさんにお前のことを話してもいいんだぜ」
耳元で囁かれたトゥーリは全身に冷や水を浴びせられたかのように、体温が急激に下がっていくのを感じた。
「お前が奴隷の出身だって知ったら、アーネストさんや奥さんが何て顔をするかな? そうしたら、お前の幸せな生活もパーだ」
「昔のことは止めてください……」
「俺に付き合ってくれるんなら、黙っててやるよ」
「それは……、仕事が終わってから……」
「ふうん、そうだな。アーネストさんに見つかったら面倒だし、分かったよ。じゃあ、またあとで」
にや、と白い歯を見せて笑いながら去っていくダリウスの背中を、トゥーリは呆然と立ち尽くして見送った。
ダリウスがトゥーリの奴隷時代を知っているのは、彼が奴隷市場にいたトゥーリを見かけていたという単純な理由だった。白人奴隷のトゥーリはさぞ目立ったのだろう。
トゥーリにとって、ダリウスにそういう趣味があろうとなかろうと、どうでもいいことだった。それよりも、奴隷だったことをアーネスト一家に暴露される方が恐ろしかった。この幸せな生活が崩れること、人間的に尊敬して心から信頼しているアーネスト一家に失望されること、何より恩のあるその一家を騙していたこと、それらが全て明るみに出ることを想像するだけで、トゥーリは恐怖に体を震わせることができる。
「いい加減にしてください。業務に差し支えます」
ダリウスの手入れが行き届いた裏庭。本人の姑息な性格が嘘のように、素晴らしい緑と鮮やかな花の調和が生み出された庭だ。そこで平然とした表情で、ペンキの剥げかけたウッドチェアに腰かけるダリウスに、トゥーリは苛立って声を荒げた。
「アーネストさんの言いつけをすませて、俺の相手をすればいいだけだ。全てのお前のやり方次第だと思うがな」
「私はあなたに仕えているわけではありません。仕事への責任とプライドを持っているのは、あなただって同じでしょう。業務中の呼び出しには応じることはできません」
ダリウスは虚勢を精一杯張るトゥーリを熱っぽく見つめた。
「本当に、奴隷だったのが惜しいくらいだよ。もしお前がまだ奴隷だったのなら、何千万と金を出して買い取ったのに」
「あなたに仕えるくらいなら死んだほうがましです」
「言うじゃないか、お嬢さん。俺には体も心も開いてくれないのかい?」
含んだ声で言うので、トゥーリは思わず顔を歪めた。すると、ダリウスはウッドチェアから立ち上がると狼狽するトゥーリの腕を引いて抱き寄せた。
腰に手を回され、まるで恋人同士の抱擁に見えるだろうが、トゥーリは恐怖と嫌悪をその顔に滲ませていた。ダリウスの手が腰から下へ這ったかと思えばいきなり尻を揉んできて、トゥーリは吐き気を催した。ダリウスは震えているトゥーリをせせら笑うと、わざとらしく耳元で囁く。
「いいか、トゥーリ・アクセルソン。俺とお前は秘密を共有しているんだぜ。何度も言うが、俺の前ではお前は自分の立場をわきまえるべきだと思うが?」
「ひ、ひとを……呼びますよ……!」
「そんなことをして、どうなるか分かるだろう」
「私が奴隷だった証拠なんか、どこにもありません!」
「それはどうかな」
トゥーリの呼吸は自然と速くなり、背筋が寒くなった。つ、とダリウスが背中を下からなぞり上げたのだ。
ダリウスの指先は背中からなじまでなぞり上げると、トゥーリの後頭部を掴んで無理やり正面を向かせる。ひゅっと唇から吐息が漏れる。視界いっぱいに歓喜に歪ませたダリウスの顔が飛び込んできて、トゥーリは思わず目をきつくつむった。
「お前の背中……、奴隷の刻印が残っているのが何よりの証拠だ」
奴隷商人達の間で「通過儀礼」と呼ばれ、必ず行われることがある。奴隷の証を刻むことをそう呼ぶのだ。
商人を区別するたのも理由の一つだが、奴隷の使い道をより明確にするという目的のほうが理由としては強い。最も用途のある労働用の奴隷は、両手の甲に焼印を押される。最下層の奴隷は目玉を抉られることもある。奴隷としての自覚を与える他、万が一抵抗して逃げ出し一般人に紛れたとしても見分けがつくようにするためだ。
しかし、トゥーリの刻印は背中にあるのだ。
「奴隷は奴隷でも、性奴隷だなんてそそられるじゃねえか……」
「やめて!」
悲鳴を上げてトゥーリは身をよじって逃げ出そうとしたが、強い力で腕を掴まれて再びダリウスの腕の中へ戻ってしまう。
そう、背中に押された刻印の意味するところは性奴隷の証である。女の多くは性奴隷として育てられる。美しい女やスタイルがいい女ほど、貴族や政治家がこぞって大金を出して買うのだから、商人はそれはもう大張り切りだ。
買われたとしても身分のある者には大切に扱われ、身の回りの環境は売春宿とは打って変わるのだから天国に思えるだろう。平凡な女や醜悪な女を好む嗜好家は稀に存在するが、安く売られるそんな女達を買うのは下層の地位を持つ人々だ。どんなおぞましい目に遭うか、おそらく想像した以上の処遇が待ち受けているかもしれない。
「だが、幸運なことにお前はまともに男を相手にしたことがないんだろ? こんな上玉が経験の浅いまま売れ残っていたなんて、奴隷狂いの奴らは目が腐ってやがる」
純潔を守れなかったことはトゥーリにとってたいしたことではない。いかにプライドや自我を保っていられるかが重要だった。それらを捨てれば、一夜一夜男を待つだけの本当の性奴隷に成り果ててしまう。それだけは絶対にトゥーリは嫌だった。
しかし、それをどうしてダリウスが知っているのか、トゥーリはますます彼に嫌悪の眼差しを向けた。
「金持ちの変態どもに売られる前でよかったぜ。俺好みに躾けてやれる」
「私に言わせれば、あなたもその人達と同じです……。私は、あなたのその、人の弱みにつけこむところが大嫌いです」
ダリウスの胸板に手を置いて離れることに成功したトゥーリは、嫌悪と軽蔑を滲ませた瞳で睨みつけながらしっかりとした声で言い放つ。その瞬間、彼のグレーの瞳の中に怒りを湛えた炎が上がったのを、トゥーリは確かに見た。
「トゥーリ! トゥーリはいないか」
屋敷の方からアーネストの声が聞こえる。
「旦那様! すぐに参ります」
すかさずアーネストに声に応えたトゥーリは逃げるように裏庭から屋敷へと戻る。
「覚えてろよトゥーリ! 俺を拒んだことを後悔させてやる」
背中から追いかけてきた恨みがましいダリウスの声に、再び冷や汗が伝ったがトゥーリは振り返ることなく足早にそこを去った。
パンプスについた芝生を払い落として、屋敷の中を早足で歩くトゥーリの顔色は悪かった。
ダリウスに反抗したことは後悔していないが、彼の怒りは本物だった。思えば、あれが始めてのもっともらしい拒絶だったかもしれない。どんなことをされるのか、最悪な結果ばかりが頭に浮かんできてトゥーリの顔色は自然と蒼白になっていく。
それでも主人の元へ向かうため、階段を駆け上がっていると、最後の一段を踏み終えたところで奥方のオードリーと鉢合わせした。
「あ……、失礼しました奥様」
「トゥーリ」
何故か婦人の顔は真剣だった。そして優しくトゥーリの手を取って微笑んだ。
「いったいどうしたの? 顔色が悪いわ」
「たいしたことでは」
「具合でも悪いの? あなたは体調が悪くても黙っているんだもの。倒れでもしたら大変よ」
「それは大丈夫です。ちょっと、心配なことがあって……」
トゥーリはそれっきり口をつぐんだ。
オードリーはその様子を見ると、溜息をついて握ったままのトゥーリの白い手を撫でた。
「あなたは若いのに、本当に気のきくいい子だわ。でも、心配なことや不安なことがあったら遠慮せず言いなさい。あなたはメイドとして住み込みで働いているけど、私達にとっては家族なんだから」
「奥様……」
家族という言葉が、どれだけトゥーリの心を揺さぶったかオードリーは知らないだろう。
アーネストの妻、そしてエノーラの母親であるオードリー。優しくおおらかで、風邪を引いても働き続けたトゥーリを叱り付けて完治するまで寝室へ軟禁した優しい人だ。女性として尊敬し、憧れる人物のひとりである。だからこそ、大事なこの人へトゥーリの心配事を打ち明けるわけにはいかなかった。
「とても嬉しいです、奥様。私にはもったいないくらいのお言葉です。でも、本当に大丈夫です。ありがとうございます」
「……そう? 辛かったら言うのよ」
暖かいオードリーの手をすり抜け、足を曲げて恭しくお辞儀をしてから、トゥーリはいつ間にか目じりに滲んでいた涙をふき取るために自室へと足を運んだ。
アーネストの書斎は本人の好みでゴシック調にデザインされている。この空間では仕事を進める手が早くなる、というジンクスを彼は持っているらしい。高価でいて落ち着いた調度品や装飾は見るものを引きつけるが、トゥーリにはもはや見慣れた部屋だ。
「ゲージハウスに行って、これをペッカー所長に渡してもらえないだろうか」
書斎を訪ねたトゥーリは一通の封書を渡された。
ゲージハウスとは囚人を収容している場所である。アップルニードの海岸沿いにあるそこをトゥーリは何度も目にしたことがあった。
「かしこまりました」
「悪いね。会食が急に入ってしまって、抜け出せそうになくてね。今日中に届けてくれるか」
「すぐに出れば十分間に合います」
「うん、ではよろしく頼む。ついで何なんだが、裁判公聴の誘いも受けていてね。ぜひ受けてきなさい」
「私がですか?」
「ペッカー所長に話は通してある。いい勉強になるだろう。それまでの仕事は他のメイドにやらせるから」
裁判公聴など体験したことがなく、アーネストの言う通り勉強になることは多いだろう。所長に直接会ったことはなかったが、アーネストの話を聞く限りでは人のいい紳士のようだ。断る理由はなく、トゥーリは配慮してくれたアーネストへ感謝の言葉を述べた。
「それとね、トゥーリ」
アーネストは磨かれた木製の机の引き出しから、青いリボンで可愛らしく飾られた小さな箱を取り出した。その箱の意味を理解したトゥーリは慌てて首を横に振った。
「旦那様、私はそんな……」
「先月、中央通りの宝石店で見つけたんだ。ぜひ受け取ってほしい」
トゥーリは数秒迷ってから、おずおずとその箱を受け取る。
「開けてみて」
わくわくした顔をしたアーネストが急かす。
ゆっくりとした動作でリボンを解いて箱を開けると、青く輝く薔薇のブローチがそこにあった。銀色のフレームは上品な青を際立たせており、トゥーリはあまりの美しさに何度も瞬きをした。薔薇の回りにはエメラルドの小さな葉が添えられており、シンプルなものなのに目が離せない。
「サファイアとエメラルドを使ったブローチだよ。私からのバースデープレゼントだ。本当はきみのバースデーパーティーの時に渡すつもりだったんだが、ぜひこれをつけて出席してほしくてね。つい渡すのが早まってしまった」
「こんな高価なものを……」
「トゥーリ、まさか私からのプレゼントをいらないだなんて言わないだろうね?」
「そんな!」
悪戯っぽく微笑むアーネストに、トゥーリはもう一度強く首を横に振った。
「私はただのメイドですし、見分不相応です……」
アーネストは深い微笑みを消さなかった。
「大事な家族にプレゼントを渡して何が悪い? それに、受け取らないのはマナー違犯ではないかな?」
「……でも」
「きみがつけたいと思わないならそれでいい。でも、いつかきみがこのアーネスト家にふさわしい女性となれたと思ったら、箱から出してほしい」
トゥーリは俯いて手の中にある、箱の中のブローチを見た。ブローチの下にメモが挟まっており、目をこらすと「親愛なるトゥーリへ」と拙い字が読めた。エノーラの筆跡だ。
「私の……、私なんかのために……」
トゥーリは胸がいっぱいだった。目頭が熱くなり、堪え切れなかった涙が青い目から溢れてブローチの上に落ちた。顔を上げられないまま、トゥーリは大事そうにブローチの入った箱を胸に抱いた。
「ありがとうございます……。一生大事にいたします」
ようやく口から発せられたのは震えた涙交じりの声だった。
何とか目が腫れる前に涙を止めたトゥーリは、自室で大事なプレゼントの箱を丁寧に引き出しにしまっていた。引き出しの中にはトゥーリの宝物がいくつもしまわれている。全てこのアーネスト一家からもらった何よりも大切な宝物だ。
このブローチも、今日からその宝物達の仲間入りだ。バースデーパーティーに身に着けても、以降はきっと引き出しの中にしまわれるだろう。いつか、堂々とこのブローチをつけることができる日がくることを願いながら、トゥーリは引き出しを元に戻した。
景気づけにラジオのスイッチを捻ると、ちょうど午後のニュースを読み上げている最中だった。
『アップルニードの諸君、また変死体が見つかったみたいだぜ! なになに……、ほお、氷漬けの死体だって? こいつは珍しい。まだ季節は春先だってのに、これは不可解だぜ! アップルニードの諸君らに忠告するぜ。夜道の一人歩きは十分注意しなよ! どうやら哀れな被害者はソフテル出身のジェイク・マッドのようだ。彼の魂を無事神の元へ送り届けるため、今日は讃美歌でも流そうか? じゃあな諸君! また明日! シーユー!』
ニュースキャスターだというのにDJ調のフランク・アレキサンダーは午後のラジオの人気者だ。彼の声が遠のき、本当に彼の言った通りに穏やかな讃美歌が流れ始める。
このところ、各地で変死体が見つかる事件が多いのだ。犯人は同一とも言われ、多様な殺人を行うことで有名だ。
しかし、ニュースに一喜一憂している場合ではなく、時計の針を見てトゥーリは悲惨な事件から興味が逸れ、急いで身支度を始めた。
外出するにあたって、仕えている主人に恥をかかさないために、身支度は完璧に整えていかなくてはならない。業務用のメイド服から、オリーブグリーンとホワイトの訪問着用のドレスへ着替える。襟を締める役割をするのは、エノーラから去年のバースデープレゼントでもらった青いリボンだ。
以前、そのリボンを宝物として引き出しにしまっていたが、リボンを一向に使わないトゥーリに焦れて盛大なかんしゃくをエノーラが起こしたことがある。それ以来、トゥーリは必ず外出時にはそのリボンを使うようにしていた。
靴もパンプスからハーフブーツへ履き替えて、トゥーリは衣装鏡の前へ座る。結んでいた髪を一旦解いてブラシで栗毛色の髪を整える。肩まで伸びる髪を後ろへまとめ、サイドに垂らしていた髪を編みこんで立ち上がった。
「きっと、大丈夫。トゥーリしっかりしなさい」
鏡に映る自分に言い聞かせるようにトゥーリは呟く。
前髪を分けてブラシで整え、火傷の痕は目立たないように念入りにパウダーをはたいた。アーネストから預かった封書をトランクケースへ入れ、さあ出発だとドアに手をかけた時、廊下から話し声が聞こえてきた。
声の主はダリウスとオードリーの二人だった。屋敷内でなら珍しい光景でもない。しかし、先ほどの裏庭での件が脳裏をよぎり、トゥーリはドアノブに手をかけたまま動けなくなって、二人の会話を必然的に聞くことになってしまう。
「今の話は、いつから知っていたことなの?」
「彼女がここで働き始めた頃からですかね。もちろん、奥様以外に口外はしていません。彼女にも散々私からも警告はしていたんですよ? 奴隷の身分でアーネストさんに近付くな、と」
「……分かりました、フランツとよく話してみましょう。判断するまで、あなたはこのことを他の誰にも言わないでおくこと」
「かしこまりました、奥様」
トゥーリはいつしかドアノブを握ったまま、床にへたり込んで動けなくなっていた。足からじょじょに体温がなくなり、体が次第に恐れで震え始める。
もうここにはいられない。
幸せな生活が音を立てて崩れた瞬間だった。
しばらくして、ふらつく足取りで立ち上がったトゥーリはベッドの上にトランクケースを投げ出す。そこに今まで使わずに溜めた硬貨と紙幣、そして引き出しの中の宝物達を詰めた。
アーネストやオードリーに蔑みの眼差しを向けられるのだけは、トゥーリはとても耐えられそうもなかった。元奴隷が身分を偽って今まで生活をしていたことを知られれば、それは裏切り行為とみなされるだろう。そうなる前に、トゥーリはこの家を出る選択を出したのだ。
ドアの向こうに誰もいないことを確認し、足早に屋敷を後にして逃げるようにトラムステーションへ向かうのだった。




