0 「プロローグ」
『お前はッ! 何度言ったら! 分かるんだ! 家畜以下のクズめッ!』
『ギャアァァッ』
『悲鳴だけは一丁前になりやがって!」
『あ゛ッ、ご、ごめ、なさ……ッ!』
『謝れば済むと思ってんじゃねえ、奴隷が!』
『ごらん? 言いつけを破ったりオイタをしたりしたら、お仕置きだよ。次は、誰の番かな?』
『爪を剥がしてみようね。どのくらい我慢できるかな?』
『立ったまま眠れるかい?』
『どのくらい息を止めていられる?』
『君にぴったりの焼き印を見つけたよ!』
『あいつに勝てたらご褒美だ』
腕に鈍い痛みを感じて、トゥーリは跳ね起きた。軽い眩暈に襲われたが、見慣れた白い天井と明かりを落とされた照明を見ると、心から安堵の溜息をつくのだった。
ふと、隣を見るといつの間にかベッドに潜り込んできた子犬のアルフレッドが、寝ぼけながらトゥーリの腕を甘噛みしていた。きっと母犬が恋しいのだろう。アルフレッドの母犬が一度に十匹も出産したため、面倒を見きれなくなった飼い主が里親に出したのだ。
アルフレッドの歯はまだまだ未熟なのが幸いして、せいぜい歯型が残るくらいで済む。涎まみれになっている腕を引き抜けず、トゥーリは諦めて再び仰向けにベッドに沈んだ。
久々に嫌な夢を見た。
薄らと額に浮かぶ汗を、空いているほうの腕で拭う。
トゥーリは元奴隷である。
どうして奴隷身分になっていたのかは分からない。物心ついた頃から、同種の奴隷達と冷たい牢屋を住処としていて、両親もいないことから身売りにでもあったのだろうと思っている。昔の財政は困窮して、貧富の差は歴然だった。今の時代でも、奴隷身分や人種差別、貧困している地域はたくさん残っている。トゥーリの住んでいる場所は、いわゆる裕福層の上流階級社会だ。昔を思い出せば、天国と地獄の差だ。
奴隷時代は最悪といっていいほどの体験をたくさんした。
いつも商人の顔色を窺ってびくびくしていたものだ。他の奴隷たちの悲鳴が上がるたびに、次は自分の番なのではないか、自分も過ちを犯したら同じく痛めつけられるのだ、と頭や体に覚えさせられた。
トゥーリは白人だったおかげで、それでも他の奴隷たちよりは優遇されていた。黒人奴隷が多かったせいもあるだろう。白人の奴隷は珍しいという理由や、何より年齢も最年少だったおかげで体に残るような傷はつけられていない。それでも、常に精神を蝕まれてはいたが。
今の暮らしを思えば、過去のことは忘れるべきだとトゥーリは思う。しかし、心の奥底では忘れ去ることのできない忌まわしい記憶が根付いている。そして、ときどき悪夢にうなされる。目が覚めれば顔に残っている酷い火傷の痕が疼いた。
化粧をすれば何とか隠すことのできる、左側の額から顎にかけて残る古傷を、トゥーリは無意識になぞぞる。表面はつるりとしていたが、ぼこぼことした醜い皮の感触が伝わってきた。これはトゥーリが奴隷が抜け出した時の証だ。
何の警戒や恐怖もなく、こうして平和な暮らしができているのは、この火傷を負うことになった事故があったからだ。
ある日、大金持ちの男から言い値でトゥーリを買い取る話が出た。大金を目の前にして大喜びの、がめつい商人に連れられて、トゥーリ初めて奴隷市場から外の街へと出た。これから売られるのだと思うと、初めての外の景色は魅力的に映らなかったことをトゥーリは覚えている。
五つの地区を移動する手段として、ワイヤーケーブルと電気で動くトラムに乗っている時、事故は起こった。トラムは制限速度を大幅に超えて、線路を外れた後に市街地に向かって激突したらしい。調査にによると、トラムのブレーキの故障が原因だったようだ。
トラムに乗っていた乗客はほぼ即死、瀕死になりながら奇跡的に命を繋ぎとめた者もいたが、普通の生活に戻れないほどの障害を負った。後から聞いた話では、障害を苦にして自ら命を経つ被害者が多かったようだ。
「きゅうん」
甘噛みをしていたアルフレッドが鼻を鳴らして、トゥーリの腕からその口を離した。そして体を丸めてトゥーリの脇腹に全身を擦りつけ、再び寝息を立て始める。
トゥーリは事故のことはあまり覚えていない。本当にあっという間の出来事だった。気付いた時にはトラムは横転していて、車内のいくつもの人間が折り重なって動かなくなっている光景を眺めていたからだ。その時、トゥーリは無意識に近くにいた小さな女の子を助けていた。トゥーリの腕の中で気を失う、かすり傷程度で済んだ暖かい体を、まるで大事な宝物のように抱き寄せたことだけはよく覚えている。
その小さな少女こそが、トゥーリにこの暮らしを約束してくれた新しい主人の愛娘だった。
商人はどうなったのか知る由もないが、あの惨状の中を生き残っていたとは到底思えない。今までの罰が当たったのだと思えば、少しだけ溜飲が下がる。おかげで、トゥーリは奴隷という身分を隠し、少女の命の恩人として世話係兼メイドとして上流階級の家庭に雇われた。




