愛や勇気、誠、そして金
2限が終了し、昼休みに差し掛かった。
それまで同伴していた藍屋さんのリクエストで昼食の席に同席させてもらう事になった。
通常より5分早く講義が切り上げられてキャンパスの中心であるタワーの食堂に足を運んだというのに、ざっと50はあるテーブル席がほぼ全て先客逹に陣取られている。
「どうする?」
試すかのように、或いは確認するかのように俺に判断を委ねた。
「先に席を確保しよう。この有様じゃその内何処も空かなくなる」
「だな」
ほぼ自分の意見と合致したようで、口角が吊り上がった。
注文待ちの列に並ぶ間、周囲に頻りに向けられる視線が痛かった。
人の前に立った経験があまりに浅いせいもあるが、それ以上にそれが流れ弾である事だった。彼等のターゲットは派手でイケメンの藍屋さんなのだ。
ある者は目障りな奴だと敬遠し、彼の気を引こうとアピールし、また、たまたま視界に入っただけだと一瞥する。
目立つ男は色々と大変だなと特に意味も深みも無い同情を贈りっぱなしのまま放置した。届こうが届くまいが関係無い。
俺と違って細かい事をいちいち気にしないタイプだからな。
そこへぽつんと取り残された俺を救う声が返ってきた
……ような錯覚に襲われたのはその時だった。
「うおっ!ここにいたのか千春!」
幸か不幸か、救世主とは名ばかりの人物は奔流さん否、そもそも男性という指摘から誤っている。
俺を千春で呼ぶのは女子では佐々百合しかいない。
ましてさりげなく駄洒落を盛り込むなんてふざけた真似、彼では有り得ない。
リボン付きの黒いハット、首に巻かれた同色のリボン、胸元が大きく開かれたフリル付きのノースリーブのブラウスの下には、袖が2回程折り返されたワイシャツを着込み、足をすらりと見せるスラックス、そして靴にヒールは無し。
以上が本日の佐々のコーディネートである。
「それはこっちの台詞だ。それにそっちの方は?」
カーキのジャケットに黒いシャツ、そして下はベージュのショートパンツにパンスト、スニーカーといったカジュアルな服装をしたショートヘアーの女子の事だ。
「おっ、マコ!奇遇だねー」
答えたのは藍屋さんだった。知り合いか?そう聞こうとしたが、
「兄貴こそ、その人誰なのさ?」
その手間も省けたようだ。
大学ならではだよな。双子でもないのに、兄妹が揃って新入生というのは。
「それじゃあ折角だからさ、4人で一緒に食べようよ。ここで延々と立ち話ってのも色々と迷惑じゃない?」
俺達の背後には、既に8人。
そして前方には4人分の空白。
解るだろ?食堂のおばちゃんの顔色が中々オーダーしないからとてももどかしげなのが。
残りの2人も反抗せずに合意して、最後尾まで去って行った。
俺とてずっと周囲に気を取られっぱなしだった訳ではない。
席に戻るまでの流れが円滑になるように下準備は整えてある。とは言っても些細な事だがな。
俺はカレーライス、祐輝さんとブラックボックスは味噌ラーメン。
だが驚くべきなのはマコさんのオーダーが大盛りステーキ丼と、俺達よりも明らかにボリュームが多い点だ。
「マコさん、食欲旺盛ですね……」
俺はその食い意地に圧倒されて思わず苦笑を浮かべていた。
華奢な女の子?
そんな先入観はとうに崩れた。
それは成長期の男子をも凌駕する。その決め手はこれだ。
「あれれ、やっこさんはいずこに?」
ブラックボックスの捻り過ぎたニックネーム。
代名詞、或いは二人称になるから紛らわしい。とうさんに続く第2弾がこれか。
幸い祐輝さんが第3の犠牲者から免れる事ができそうだが。
「マコならまたオーダーしに並んでるよ」
血縁だからこそ適応しているのだろうか、俺は耳を疑った。
あれだけの量を平らげてまた注文しに走ったと、兄は嘘偽り無く証言した。
「思ったより美味しいから、ついおかわりしちゃった」
「ちょっとちょっと、やっこさんついさっき弁当を完食したばかりじゃないですか!」
「弁当まで!?マコさんどんだけだよ……」
癖のある兄妹だな、いや全く。
2人揃ってとんでもない金食い虫なのだから、強運だよな。
それ相応の財力が無ければ滅亡まで追い込まれていたんじゃないか?
少なくともマコさんは彼氏を経済的に破滅させるだけの破壊力を備えている筈だ。
「ううん、僕は本当は真琴っていうんだよ」
それでいてボクッ娘で駄目押しか。
これであどけない少年だと勘違いしても免罪符をいただきたいものだ。
ところがその直後に前言撤回せざるを得なくなる。
二つの大きな胸の膨らみが、彼女がれっきとした女である決定的な証拠だからだ。
「それはそれは、男にも使える名前だな」
「それは知春くんだって同じじゃないか!」
「ところがね、この尖った少年は振井玄汰って名前なんだよね」
さりげなく失礼な台詞が飛び出たが、的を射ているためじっとしておくとして、
「えええええぇぇぇぇぇっ!?」
初見の頃の俺のリアクションを性転換版でアレンジしてくれた。
ここまで驚かれると心外を通り越してお化け屋敷のお化け役みたく、気分がいい。
「一体どうしたらそんな渾名になるの?」
「アナグラムだ。こいつろくなニックネームを付けないもんだから難癖を重ねたらアナグラムまで使ってきやがったんだよ」
浪費兄妹の追究の手を制止させるには少々強烈だったかもしれない。
ほんの数十秒でローマ字配列で自然な配置に並び替えて見せたのだ。
そして当の神業の使い手は、
「……キャッ」
と本気か戯れか判断しかねる反応を見せた。
両手で顔を覆い隠し、指の隙間から露出した目は閉ざされた。
「こっち見ないでーっ!きゃああぁぁっ!恥ずかしいいぃぃぃっ!!」
首を頻りに横に振りながら悲鳴がそう訴えた。
だがブラックボックスよ、その結果がこれだ。
食堂内だけじゃない。硝子張りの外壁越しからも迷惑だとばかりの非難がましげな視線がこの奇人女に吸い寄せられて、俺達も逸れ矢を受けている。
あまつさえ、元凶は未だ自分の世界に入り浸ったまま現実の状況など気付きもしない。
ガタッ、身を刺すような寒気すら感じてしまうほどの静けさで、1人の利用者が椅子から腰を上げる音だけが響いた。
辛うじておばちゃん達は職務を全うしているが、学生諸君の中には未だフリーズする者、
或いは俺達を睥睨する者がいる。
こいつの背後に回ってから察したのか、真琴さんも席を立ち、
ゴッ!鏡を抜く時のように2人の動きはシンクロしており、そのまま鉄拳制裁が下された。
「ぐすっ……酷いです……やっこさんまで暴力なんて……」
ダブルパンチを受けて漸く意識が帰ってきた。こいつはべそをかきながらぼやく。
「そうさせたのは貴様だろう」
「周りの人に迷惑だって判らないわけ?」
それでも2人の追及は容赦なし。精神的にも鉄槌を下そうと厳しい文句が追撃をかけた。
「ちょっと落ち着きなよ皆。飯が白けちゃってる」
特にラーメンの有様が酷い。
汁は冷め麺は伸びて最悪だ、とはブラックボックスの談であり、祐輝さんは一声を上げる前に既に完食していた。
因みに俺はそろそろ3番着だ。
「ん……ああ、すまん……と言っても、真琴さんも完食しちまったし」
恐ろしい事に……な。
それともう1つ。残るはブラックボックスだけだ、問題ない。
とは口には出せないが。
「まあまあ、焦らんでも次の講義には十分間に合うだろうさ。それにね、玄汰ちゃん。独りぼっちにさせたら薄情ってもんだよ」
心にゆとりがあるんだな。
それも藍屋家の財力に比例してのものだろうと邪推してしまうが、まあそれはいいや。
ブラックボックスが追い付くまでの空白は共通の話題をテーマに言葉を交わして埋めるとしよう。
「ところでどうする?履修登録」
食器を隅へどけて第3勢力が卓上の中心を支配した。
時間割表はA~Jクラスに対応しており、
ブラックボックスはぎりぎり参加可能なのだが。
「う~ん、僕はKなんだよね」
「玄汰ちゃんはEで僕はFだからさ、K~R版の奴と上下に並べてみようよ」
パソコンで言うなれば、エクセルをやりながらワードを並行してやるようなものか。
実際やってみた事があるが、少なくとも俺の場合だと思ったより効率が悪かった憶えがある。
「っておいおい!月曜は全く講義が入ってないのかよKクラス!?」
5限の英語基礎演習さえとらなければね、と真琴さんが補足した。
「まあいいじゃない。Eクラスだって月曜と金曜は午前中は暇なんだし」
「どうせなら午後が無いほうがよかったよ……」
空白が中途半端に途切れているせいで、アルバイトや遊びにあてられない。
他にも俺達Eクラスには水曜3限が空いているといった中途半端な暇が設けられている。
それに比べ祐輝さんと空木さんを初めとするFクラスは1限からが水、木曜のみ以外はほぼ万遍なく講義が埋まっている。
「ま、決まっちゃった事は仕方ないさ。それで選択科目はどうする?どうせ1年の内は単位を取れるだけ取ろうとするだろうし」
1年間の内に履修登録できる単位数は最大で50だ。
人文科学等の選択科目では、俺ならA~Fクラスの連中と合同で受ける事になる。
「とはいっても講義内容の情報はシラバスくらいからしか引き出せないしな……それも先輩の体験談に比べて弱い」
いかんせん、入学式の翌日だ。先輩とコンタクトの取れる人物などいる筈が無い。
しかも理工学部である事が前提条件。
「そうだよね。理工の先輩に知り合いがいる人っていないよね……」
溜め息にも似た真琴さんの呟き。
―いや、待てよ。
随分と回り道になるが、お取り寄せできるかもしれない。
「……奔流さん」
「へ?」
無意識に、誰にともなくそう呟いていた。
真琴さんは声を拾えなかったらしく、リピートを求めている。
「奔流さん?」
幸い祐輝さんが翻訳係を担ってくれた。れっきとした日本語なのだが、自分でも言ってて幾分悲しい。
「ピキーン!さゆりさん憶えてます。奔流さんには2年生の元同期がいるとかいないとか」
ピキーン!じゃない。
人の説明を盗んでおいて最後を濁すな。自身持て、責任持て。それで合ってるから。
「元同期、白鶏頭吾は法学部だそうだが、奴は紐なんだそうだ。理工学部の女子とコネを持ってる筈なんだ」
昨日お裾分けしてもらった情報だ。
そして出荷するべきなのはもう一つ。
何しろ次も講義だ。今回はFクラスと合同のオリエンテーション。
「紐って何ですか?白鶏さん……もしかして貧乏人なんですか?」
「そうじゃなくって色男って事」
真琴さんがブラックボックスの保護者的存在になりつつある。
御陰様で俺の肩の荷も少しは下りてくれそうだが、申し訳なさと同情がそれを阻んだ。
「折角だからさ、こういう時とかの為にもアドレスを交換しておかない?」
「そうだろうと思ったよ。まあ、仕方ないな」
情報伝達を少しでもスムーズにする為に、赤外線通信なんて機能で情報の並列回路を組んで、便利なもんだよなと改めて感心する。
かつては紙切れかEメールで送信されたデータを打ち込んでいたが、その頃が懐かしく思える。
食堂のすぐ隣にベイクンがある。ブラックボックスが奔流さんの姿を捉えたのはそのパン屋であった。
そこの外壁も硝子張りで、カップルや女子の群れが客の大半を占めている。
3限まで残り20分を切ったせいか空席がちらほら見受けられるようになった。
そしてその状況に立たされたにも拘らずそこへ寄り道したのはやはり真琴さんが自身の貪欲な腹を満たす為である。
因みにベイクンではスパゲティは勿論、カレーも注文できるらしいが、レパートリーは皆無だ。
奔流さんはテーブル席に腰を下ろして、2人の男女と向かい合っている。
彼は藍色のロングストールとカーディガンに袖を通し、他は黒で統一した服装である。
それに対して2人組の方はと言えば、男はオレンジに染めたミディアムヘアーで、黒い上着を羽織っている以外ははっきりせず、女の方は茶髪ロングで白いワンピース姿だ。
「女は知らんが、男は多分……」
白鶏、だろう。何の根拠も無い勘が俺にそう囁いた。
実際に店内に踏み入れたのは真琴さんだけで、俺達は硝子越しから様子を窺っている。
「あの青いストールの男子が奔流の旦那だね?」
呼称がランクアップしている。流石奔流さん、老け顔なだけはある。
「さよう。あのお方こそ、奔河蛉一殿でありますぞ」
こいつは奔流さんの事となると語勢が古臭くなるきらいがあるな。
祐輝さんは「なるほどね」とさりげなく流したが。
食堂のすぐ隣にベイクンがある。ブラックボックスが奔流さんの姿を捉えたのはそのパン屋であった。
そこの外壁も硝子張りで、カップルや女子の群れが客の大半を占めている。
3限まで残り20分を切ったせいか空席がちらほら見受けられるようになった。
そしてその状況に立たされたにも拘らずそこへ寄り道したのはやはり真琴さんが自身の貪欲な腹を満たす為である。
因みにベイクンではスパゲティは勿論、カレーも注文できるらしいが、レパートリーは皆無だ。
奔流さんはテーブル席に腰を下ろして、2人の男女と向かい合っている。
彼は藍色のロングストールとカーディガンに袖を通し、他は黒で統一した服装である。
それに対して2人組の方はと言えば、男はオレンジに染めたミディアムヘアーで、黒い上着を羽織っている以外ははっきりせず、女の方は茶髪ロングで白いワンピース姿だ。
「女は知らんが、男は多分……」
白鶏、だろう。何の根拠も無い勘が俺にそう囁いた。
実際に店内に踏み入れたのは真琴さんだけで、俺達は硝子越しから様子を窺っている。
「あの青いストールの男子が奔流の旦那だね?」
呼称がランクアップしている。流石奔流さん、老け顔なだけはある。
「さよう。あのお方こそ、奔河蛉一殿でありますぞ」
こいつは奔流さんの事となると語勢が古臭くなるきらいがあるな。祐輝さんは「なるほどね」とさりげなく流したが。
奔流さんが俺達に気付いたのは、席を立って食器とトレイを返しに行った折だ。
訝しげな素振りも見せずに俺に軽く手を揚げて会釈した俺も習うように手で相槌するだけで切り上げる……事は無く、奴等との遣り取りはそのままお開きになったらしい。
案の定、彼は俺達と接触を図ってきた。
「おぉ、玄汰君に佐々君か。そちらの方は?」
「おたくの事は2人から聞いているよ、奔流の旦那。僕はFクラス交通機械工学科の藍屋祐輝。宜しくね!」
「ならば改めて申し上げる。俺は奔河蛉一。Eクラスの建築学科だよ」
これで元1浪生の表と裏が揃ったな。こうして実際に2人を並べて比較してみても一目瞭然。
爽やかなイケメンとしめやかな老け顔。
派手な紅と控えめな蒼のコーデ。
決定的なのは、纏う空気が動と静に二分化している事だ。
「驚いたぞ、玄汰君。お前さんに短期間でここまで知り合いが増えるとはな…」
失礼な奴だな。俺に負けず劣らずの。
俺が渋い顔をしているのを余所に祐輝さんは、
「尖ってるのは真面目の裏返しだって解ってるからさ。僕は気にしちゃいないよ」
「聞いて下さい奔流さん、知春君またさゆりさんに暴力を……」
「それは自業自得じゃないか。僕達にも迷惑かけたし」
ブラックボックスが先生にチクる小学生のように2人の間に割り込もうとするのを、買い物帰りの真琴さんがやんちゃな子供を咎めながら家まで手を引くかのように制止したのだった。
「あの……真琴さん。それ今から全部食う気か?」
スーパーの買い物袋……と呼んでも道行く人に突撃インタビューを申し込んでもそんな回答が得られそうなくらいに違和感が無い。
俺は2つの好奇心を抱いてしまう。
1つは高校時代の彼女の姿はどんなものだったのか。
2つ、彼女の胃袋がどうなっているのか解剖してお目に掛かりたいものだ、と。
「3,4限の間にね」
「なるほど……大したもんだよ。いや全く」
「活き活きしてて」か、
はたまた、
「よく太らないよなあ」
なのか。
どっちを後に加えておこうか決めかねて、結局トッピングは無しにした。
「振井くん、それってどっちの意味かな?」
曖昧にした結果、妙な威圧感を帯びた突っ込みを貰う事になった。
「どうだかな。まだ二択の内容を知らないんでね」
捻りが入っていると感付いたのかも知れない。女の勘という奴が囁いて。
対する俺は追及の手から逃れようと嘯いて、様子を見る。
他の面子から干渉する気配は感じられない。意外と気が利くじゃないかと僅かに口元を緩ませていた。
「玄汰ちゃんだったらこう思うんじゃない?そんなに食べて太らないのかって」
あっ、馬鹿!均衡を破った祐輝さんの声に気を取られてババを引いてしまった。
ドッ!彼女の拳が間髪入れずに鈍い音と重い一撃を鳩尾に齎した。
但し、受けたのは祐輝さんだ。
俺は反応が早かった御陰で理不尽な制裁から辛くも逃れたのだ。
「ちょっと玄汰ちゃん……よける事ないんじゃない……?」
患部を右手で抑えながら声を絞って抗議した。
真琴さんのパンチが思いの外強かったのか、単に祐輝さんが打たれ弱いのか。
「大ありだ。俺が答えるのに割り込まないでくれ」
茶番はここで区切っておくとして、残る不安要素はブラックボックスだ。
奴に一瞥を贈ると奔流さんが「俺に任せろ」とばかりに佐々の肩に軽く手を置いてゆっくりと頷いた。
「…どうなの、振井くん?」
さて、邪魔者は粗方抑えた。
美化するような返事を返さなければ、順番が入れ替わっただけになりかねない。
次はお前だ、と鋭い眼光が俺を捉えて離さない。
躍り掛かって来る前に動かねば。
「俺にはとても真似できない、いい特技を持っているなと言ったんだ……やりすぎは流石によくないと思うが」
俺なりに言葉を選んでやんわりと答えたつもりだったが、自信が持てる程ではない。
それに加減を間違えたのかという懸念が心に圧し掛かる。
逆にやんわりしすぎて真琴さんの睨みが、
「答えになってない!」
との不満を匂わせている気がしたからだ。
「……振井くん」
漸く無言の圧力から解放された。
「な、何だ?」
思わず動揺が返事に出てしまった。
静寂から喧騒へ。俺は空気の変化に乗り遅れてしまった。
「まあいいや、僕達はもう行くね。流石に時間もやばいし」
真琴さんの方は切り替えが早い。それもそうだろう、取り仕切っていたのだから。
腕時計を一瞥すると、既に講義まで残り10分を過ぎていた。
俺はぎょっとして、
「ああ」
適当に相槌を無意識に打っていた。
「それじゃあ皆々様。また会う日まで!」
ブラックボックスは数年間会えなくなるような演出で別れを飾ったのだった。
実際は数日、或いは数時間後に再会する事になる訳だが。だができれば本当にそうして欲しかったと思う。真琴さんの去り際に振り向いた顔が妖しげに笑っていたからな。
兄貴が挟み込んだ台詞を真に受けているのか。直感が鋭いのか。その答えを知るのはまだ先の話になりそうだ。
とにかく、俺は彼女が後に報復を企てる予感がした訳だ。空き時間中は用心しておこう。
「では玄汰君、祐輝君。俺達も行くとしようか」
慌てず騒がず。
俺と違ってどっしりと構えた声が言った。
俺も祐輝さんも奔流さんに続いて教室まで向かった。
俺だけが少々焦りの色を浮かべながら、大物の風格を纏った二人を伴って。
開講3分前に現れた俺達を出迎えたのはスタンバイしている講師3人、階段状に連なる大教室、そして聴覚をしきりに刺激する私語、私語、私語。
左の最前列の席を陣取り、素早く準備を済ませる。
ここへきて、俺達がイメージしたり、漫画やアニメ、パンフレット等に掲載されていた大学らしい教室。その実物を漸くお目に掛かれた。
何しろ入試では午前中に講義を受けた教室とおおむね同じ間取りだったからな。
直感的な感想は「映画館に来たみたい」。
だが上映前のそこの方が今在る空間よりも遥かに穏やかで、静かだ。
遂に時間が過ぎても、自分達の世界から帰って来られない連中が、今も尚下らない駄弁を延々と弄し合っている。
口悪で、口数も少ない派の俺にも理解できない事は無いが、今の状況を考えれば傍迷惑でしか無いので注意してやろうと振り返った。
その時になって初めて判明した事実。
煩わしい蠅共の内の一派が俺から2つ後ろの席に腰を下ろしている空木さんにしつこく絡んでいたのだ。
「ねえ、お願いだからこれから俺達に付き合ってよ」
「やだ」
「いいじゃんかよ。どうせまだ暇なんでしょ?」
「無理。この後も予定が入ってるし。さっきも言ったから」
「そんなのさっさと片付けりゃいいじゃん」
すっぱりと切り捨てられても、斬れども斬れども起き上がるゾンビのように男子共はしつこく食い下がっている。
俺ももしかしたら奴等と同じ事をしたのだろうか。蘭子と出会わなかったら。
過去の古傷を受け止めもせず、まして乗り越えようともしない振井玄汰達なのか。
「!―玄汰君!」
ドン!!拳が吠えた。
講師の堪忍袋の緒が切れて、指差しで注意するその前に。
半ば暴力的に元の世界へ連れ戻された男共は状況が把握できずに狼狽した。
グループの片割れが数秒後に原因を突き止めた。
今の波は業を煮やした前列の男が机に拳を叩き付けたから発生したのだと。
講師や周辺の学生も悪いが巻き込んでしまった。
不器用なりにとれる手段をとらせてもらった。軽蔑するなら勝手にやってくれればいい。
「……黙ってろ」
力ずくでこじ開けた隙間を縫って、短く無骨な抗議を叩き付けた。
その時は奴等を縛るのに十分だったよう だが、1分も経たない内に緩くなり、また騒ぎ立てる。
結局連中は講師が外へ摘み出してやっと事態は収束した。