第日本話 「検眼セット」
少し時間を遡ります。
「お世話になりました!」
夕食時の小さな商店街、俺の声が何処までも響いていく。
帰宅途中のサラリーマンがチラ見するが気にしてはいけない。
今俺は、今日まで勤めた宝飾店に深々と頭を下げているのだから。
お世話になった恩師へ、言葉にして伝えることの出来ない感謝の気持を、少しでも伝わって欲しくて……いつまでも頭を上げず、ただ瞳を閉じるている。
下げた頭の直ぐ上、年齢を重ねた男性の声が落ちてきた。見送りにきた宝飾店の社長――俺の先生だ。
「光くん……お疲れ様。君が来たのが、ついこの間のように感じるよ。本当に速いものだねぇ……光くんは教えがいの有る良い生徒だったよ」
思いがけない優しい言葉に、閉じた瞳から、感謝が形となって溢れてしまいそうになる。
感受性の豊かな方だと自覚していたが、今日この日が来るのは前々から分かっていたはずなのに。
新たな門出は笑って迎えようって決めてたじゃないか。
だから……決して涙を流さない!
だって、今の姿勢で泣くとメガネのレンズが汚れるから!!
「グズッ……いえ、これも先生の教え方が良かったからだと思いまず!」
頭を下げる俺の後ろの方、足音が近づいてくるのが聞こえる。
突如、店先で始まった青春活劇に、小さな商店街の中で何事かと、閉店準備をしていた面々が様子を見に来たのだろう。
「ほら、いつまでも頭下げてないで。この後も、開店準備が有るんでしょう?」
「……そうでした」
そう、開店準備。
間もなく開店を迎える自分の店の準備があるんだった……。名残惜しいけど、いつまでもこうしている訳にはいかないよな……。
なんとか涙を堪え、元気よく顔を上げる。俺の後ろには商店街の人が数人、現状を理解したのか口々に声を掛けてくれた。
「あれ、光ちゃん今日までなのかい?〝このラノ〟の予約してたんじゃなかった?」
あの声は、本屋のおばちゃん……。今このタイミングでその話!? 発売日には必ず来ますからご心配なく!
「白金君もメガネ屋として独り立ちか~……。帰りに寄ってきな! コロッケ、またサービスしてやっから!」
肉屋のおっちゃん……。いつも助かります! たまにはカツとかお願いします!
視線は先生に向けたままだが、馴染み親しんだ商店街の面々はその声だけで直ぐに判別できた。
毎朝のように挨拶を交わす人達なのだ。間違えようがない。
どんな表情をしてるかまでは想像できないけど……。
きっと目の前の先生のように、ニコヤカな顔なのだろう。
後ろの声に、俺の表情が柔らかくなったのを感じ取ったのか――普段から取り乱しやすい俺が、落ち着くのを待ってくれていた先生が口を開く。
「光くん。ここでの経験を活かして、立派なメガネ屋さんになってくださいね?」
そう言うと、俺にアタッシュケースより一回り大きい革製の鞄を差し出してくれた。
その重さに、両手がプルプルしているのを見て、慌てて俺は手をそえる。
「先生……これは?」
とても年季の入った革ケースを受け取りながら尋ねる。
尋ねるが……俺はこの中身を良く知っていた……。
知っているからこそ、どういう意味なのか分からなかった。
「少し古いですが検眼用のレンズセットです。私ももう歳だからね……眼鏡学校の生徒さんを採るのも、今度が最後になるだろうし……ね。どうせ使わないなら、息子みたいな光くんに貰ってもらった方が、この鞄も喜ぶと思いましてね。最新型の検眼機械も良いですが、古い物も捨てたもんじゃないんですよ?」
先生が、昔使っていた検眼セット――。
まだ、先生が店を構える前、奥さんと一緒に自転車を漕いで各家庭を回ったそうだ。メガネの御用聞き。当時そう呼ばれていたと、先生が酒の席で教えてくれた。裸一貫で始めたこの商売を先生と一緒に駆けた検眼セット。最新型の機材を導入した後も大切に保管されていた。
お店を閉めた後の、鞄磨きが日課だったって……俺しってますよ?
奥さん亡き今、それも思い出の一つとなっているはずなのに……それを、たかが数年勤務した俺に託すなんて。
驚く俺を、今も同じ、好々爺の笑顔で見つめてくれる。
その柔らかな表情に、挫けそうな学生時代、何度救われたことか。大丈夫、大丈夫と、何度励まされたことか。たまに怒られた時の何と恐ろしかった事か。
ああ、やっぱりだめだった――。
「先生……グッ……ありがどう! ございまズッ!」
今までの日々を思い出してしまってからは、もう止めることが出来ない。きっと今の俺は耳まで赤くなってるはずだ。瞳に映るはずの、シワシワで四角い先生の顔は、すでに込み上げてくる涙で見えなくなってしまっているのだから。
慌てて、メガネを〝両手で〟外し、袖で涙を拭う。だが、後から後から流れ出る涙は一向に止まりそうにない。
「光くんは、本当に、泣き虫だなぁ~」
「グッ……ヒグッ……ずびば……ぜん」
少し上に目線を泳がしながらそんな事言たって……先生だって泣きそうじゃないですか。
「ほら、コレで涙を拭いて」
先生はポケットから布を取り出して俺に差し出してくれる。
水色の大きな布だ。その光沢から、とてもきめ細かい生地なのだとうかがえる。
だが、差し出す先生の手に、俺はそっと手を添えることで、それを制した。
涙が止まった訳ではない、ただ、それを受け取るわけにはいかない理由が有ったからだ。
「ぜん生……ズッ……ぞれ――」
不思議そうな顔をする先生に、鼻をひとすすり、泣き笑いを作ってこう告げる。
「――ズビッ……それメガネ拭きでず……」
「おや?」
湿っぽかった商店街に、ドッ、と笑いの花が咲いた。
■◇■◇■
何度も振り返りながら、商店街とお別れをした。
「か~~! コロッケうっめ~!」
マジ最高。衣がサックサクの俵型コロッケ、中のジャガイモがシットリ柔らか、ひき肉多めで何ともジューシーな口当たり。一緒に混ぜてあるコーンも、プリっと弾けるような食感で、ほのかな甘味と香ばしいさのダブルアクセント、マジ美味。カツ食べたい。
最後の一口を放り込み、去り際先生の言葉を思い出す。
コロッケを受け取る俺に、手を振りながら言ってくれた『光く~ん! いつも言ってる事、忘れちゃダメだよ~!』と。
「忘れませんよ」
その時はコロッケ食べてたから手だけで返事をしたけども。
「忘れません……耳にタコが出来てますから」
先生はこと有るごとに言っていた。俺も自然と口に出る。
「眼鏡士は笑顔を作る」
最初は意味が分からなかった。正直、ただ適当に格好良い事が言いたいだけなんだろうな、と内心バカにしてた時もあっのだ。
だが今なら分かる。一緒に仕事をする中で意外にも早くその意味に気付く事ができた。
「眼鏡士だからこそ作れる笑顔がある……か」
漫才師でも道化師でも無く、眼鏡士にしか作れない笑顔がそこに有った。
俺もいつか、あんな風になれるのかな?いや、ならなきゃいけないか。先生みたいになるために、自分の店を、新システムのメガネ屋を立ち上げるんだから!
昨今、低価格化が進むメガネ業界は不景気の波も有り、岐路に立たされていた。
大手チェーン店による価格競争の激化。新規参入の低価格帯メガネ店。小さな小売店はその荒波と戦う程の力を持たず、ただ耐え、景気の回復を待つだけの苦しい現状だ。
俺はその流れを変えたい。そう思いから、考え、各種メーカーを説得し、もうすぐ形になろうとしている。そのメガネ販売システムとは――。
【仕入れ価格公開型メガネ店】
どのメーカーも、最初は全く理解してもらえなかった。だが、昨今の低価格化により、メガネ自体の価値に消費者が不審を覚えているのは間違いなかった。
片や3千円で作れるメガネ、片や3万円でも作れないメガネがある。いったいその差は何なのだと。
当然、店員に聞いてもらえれば詳しく教えてくれるだろう。だが、その詳しい説明ですら、信用するに値しないと思う人が居るのだ。
『結局一緒なんだろ?』
そう吐き捨てて店を出る人が居るのだ。
そんな彼らを信用させるのに必要なのは何か……俺の答えは『明確な価値の公開』小売店が購入する際の価格表示だった。
そして、その仕入れ価格を公表した上で代金を戴くシステム。
【眼鏡士専売価格表】を作った。
と言っても簡単だ。貰うお金は【仕入れ×2】+【加工料】+【視力測定料】後はオプションくらいだ。
今までの眼鏡店は、技術料としての代金を取ってこなかった所がある。そのため、利益は全てメガネ枠とレンズ代金で得るしかなかったのだ。結果、どうしても値段の本質が見えなくなってしまうのは、仕方のない事と言えた。
なぜ【仕入れ×2】なのかと言われそうだが――単純だ。メガネを必要としている人は限られている。その限られた人に、メガネで利益を得る場合、一定の利益サイクルを持たなくては、メガネ屋はやっていけないのだ。
つまり、安いメガネは直ぐ壊れてサイクルが速いが、高いメガネはサイクルが長いと言う事。10年などざらに持つ。そんな商品にはしっかりと利益を取らなくては商売にならない。
例えるなら、最近出回る最安メガネ――【眼鏡士専売価格表】に乗っ取るならこうだ。
【フレーム300円×2】+【レンズ1組700円×2】+【加工料2千円】+【測定料2千円】
眼科による処方箋持参なら4千円で作れる計算になる。
そして、高いと言われる価格帯はこうなる。
【フレーム1万円×2】+【レンズ1組8千×2】+【加工料2千円】+【測定料2千円】
合計4万円。これを高いと視るか安いと視るかは人それぞれだろう。だが、価格の理由は明確だ。メーカーも、掛かったコストが明確になる事で、きっとインフレの道へ転進できるだろう。このやり方で消費者からの信用を得られると、俺は信じているのだ。
「ま、まだ開店してないんだけどね!」
とにかく、帰ったら商品の品出しをして、オープンのチラシ手配――は終わった……よな? なら後はポップの貼り付けと……機材設置の確認と――。
まだまだやることが沢山有ったと分かり、革鞄と肩に掛けているバッグの重さが2倍に増えたように感じた。
げんなりと肩を落とす俺の、鼻先を花のような香がくすぐった。
鼻を鳴らす、柑橘系の甘い香りを確認して顔をそちらに向けると――。
絵本から飛び出したような、金髪の美少女が路地から出てきたのだ。まるで女神かビーナスか。そのプロポーションの素晴らしさもさることながら、纏う空気が神々しくて――。ついつい後をつけて――。
いやいや、同じ方向! 駅に向かってるだけだからな!
と、自分に言い訳をしてでも後をつけ――。
違う! 俺はそんな変態じゃ――!!
――突如
風が吹いた――。
「ぇ? キャッ!?」
小さな悲鳴は前方を歩くビーナスから。膝よりも長いはずのスカートが――まるで重力に逆らうようにめくれ上がったのだ。
あらわになるその美しい足に、俺は釘付けになる。そしてスカートがめくれる速度に合わせて視線は上へ――。
そこには長い耳をした、とても可愛らしプリントの――。
「……? ――うさぎちゃん? ハッ、しまっ――!」
気付いた時にはもう遅い。自分はここにいますと声を出してしまったのだ。
スカートを押さえたビーナスは、耳まで真っ赤にした涙目で、まるでレーザーでも出そうな眼光で俺を睨みつけると、勢い良く腕を振りかぶった。
あ、これはやばい。
慌てて、静止させる為に手を突き出す。
「ちょっ! まって! 誤解だうさぎちゃん!」
あ。
「~~――!! 何が!!」
何て綺麗な声。え、何で俺の腕をつかむんですか?
「――誤解よおお~~!!」
手を掴んだかと思うと、ビーナスが背中を向け体を沈め――次の瞬間。
俺は空を飛んでいた。
「ええええ!? 一本背負いいいい!?」
やばい、これはやばい! 背中折れるかな? いや違う! 鞄! 壊れる! 怒られる! やぺ星綺麗! 早! 怖! 落! 怖!
慌てて革鞄を強く握り、背中に来るであろう、強い衝撃に備えて固く目をつぶる。
だが――いつまでたっても予想される衝撃はやって来なかった。
それどころか、背中に地面の感覚すら有る。
俺は恐る恐る目を開ける……と、同時にメガネを確認――
――そこは、真っ白な世界の中だった。
思わず声が漏れる。
「え?」
「――え?」
そして、俺と同じように声を漏らす人。
おでこの広い、金髪の痩せすぎたおじさんと目があった。
俺とおじさんを挟む高級そうな木製デスク。おじさんが赤いキノコみたいな物に手を掛けているデスク。そこにはネームプレートが置いてある。
【ぜうす】
「え? ぜうす?」
「よよよおおおうこそ勇者よお! そな、そなたを異世界へいざないまべし!」
何言ってんの? この人?
「異世界? マジ?」
この物語はフィクションです。
登場する組織や眼鏡価格は空想の物です。