第16話 「プリズム」
Dの授業を聞いたスファレは、やや興奮ぎみに口を開いた。
「つまり、ピントが1メートル近くに有る目はプラスの1Dを持っているから、マイナスの1Dを加える事で、その……ピントが遠くに行くということでしょうか?」
眼球の断面図を、指さしながら説明するスファレ。
驚いた。
たったこれだけの説明で、その結論に到れるとは思ってもいなかった。
俺のジョブ【教師】のなせる技なのか、それともスファレが優秀なのか……。
「凄いな……まったくその通りだ。近くしか見えない〝近視〟と呼ばれる人は、正常な見え方の〝正視〟の人よりプラスのDを多く持っているんだ」
自分の説が正しかったと知ると、安堵と共に、スファレの顔にパッと花が咲く。
「な、なら私の目は、だいたい10センチがピントの距離ですからマイナス10Dが入ってるんでしょうか?」
凄く嬉しそうに言ってくるが、残念ながらハズレである。
「おしい。正確な度数を距離で求めようとすると、だいたいの距離じゃダメだ。例えば、眼前10センチは10Dだけど、じゃあ9センチは何Dになる?」
自分の答えが間違っていたと知ると、少し残念そうにする。
しかし、新たに与えられた計算に、すぐに頭を切り替えたようだ。
「えっと……だいたい11Dでしょうか?」
「そうだ。たった1センチだけど1Dもの差が出てしまう。プラス1Dと言えば、ピントを1メートル先に持ってくる力があるってさっき話したよね?」
「はい」
「つまり、遠くにピントあわせたつもりでも、たった1センチのずれで、1メートル先にピントが来ることも有る。だが、それはまだいい方なんだ、ピントが近くにズレるのなら見づらいだけだからね。でも、ピントが遠くにズレた場合――」
ここまで説明を聞いてハッとするスファレ。
「眼精疲労の原因になります」
「その通り。だから、ピントの距離だけでDを決定しちゃいけない」
そこまで話すと、俺はスファレの検眼枠から片眼のレンズを取り出した。
「あうっ。先生、突然はひどいです~」
怒るスファレを、笑ってごまかす。
当然わざとです。
スファレに「あうっ」て言わせたかったのだから仕方ない。
「ごめんごめん。正解を見せて上げようとおもってね」
そう言って、検眼用レンズに記載されている度数を見せる。
それを見たスファレの表情は、驚でもく、喜ぶでもなく。
曇った表情となってしまう。
「ごめんなさい。先生、私には読めません……」
「ああ、そっか。アラビア数字もだめなのか」
日本語はダメでも数字なら大丈夫だろうと、どこか勘違いしていたのだろう。
「これは12.0って書いてあるんだ。スファレの片目のDだよ。はい、返すね」
言いながら、羊皮紙に0から9までのアラビア数字を書き、簡単に説明する。
「あ、ありがとうございます。眼鏡士は可愛らしい数字を使うんですね~」
可愛い、のか? 確かに丸みを帯びた数字が多いが……。
「12D……だいたい8センチ。あ、8.3センチですか。ん? 先生……今、片目のDって言いました?」
数字を書き写していたスファレが、不思議そうに顔を上げた。
「ん? 言ったけど?」
「もう片方は違うDなんですか? もし一緒なら、これが私のDだよって言いますよね?」
あ~……なるほど。
「言って無かったらすまない。余りに当たり前過ぎて忘れてたんだ。スファレの言う通り、左右は同じDじゃない」
そう言って、さっきとは逆のレンズを抜き取る。
「あうっ。先生! わざとやってませんか?」
あ、フグスファレになってしまった。
「あはは、ごめん。はい、これがスファレの反対のDだよ」
さっきよりは気持ちを込めて謝って、スファレにレンズを渡した。
「13.0D……左右でこんなにも違うんですね」
「ん、まぁ全然許容範囲だけどね。その辺りの説明は視力測定の授業をしながら教える事にするよ」
「う~……なんかモヤモヤします……先生、絶対教えて下さいよ?」
「ああ、大丈夫。スファレは吸収が早いからすぐに教えることになると思うよ」
そういって、何気なしにスファレの頭を撫でる。
フワフワの髪の毛がとても気持ちいい。
「あ、ありがとう、ございます」
頭を撫でられて、緊張したのか。
スファレの顔が少し赤くなる。
「さて、じゃあDに付いて理解してもらった所で、次はどうやってそのDを作るかって授業をしようか」
「あ……。は、はい!」
離れる俺の手を、名残惜しそうに見送ると、気を取り直して元気な返事をした。
■◇■◇■
「さって、何と切り出したものか」
昼過ぎ、俺は昨日のように、冒険者ギルドの前に立っていた。
昨夜ルガシコインが訪れ、俺に告げていった事を伝えるためだ。
今夜中にメガネを作らないと村が滅ぶ。
あれ? フレームを完成させなければ、だっけ?
とにかく、俺は出来る限りの事をするつもりだが、もしもの事がある。
その時の為に、俺の知りうる限り、最も発言力の有りそうな人間に伝えるのだ。
「流石に、聞かなかった事にする訳にはいかないもんな~……」
はぁ、と小さくため息を付き、家でひたすら練習しているだろうスファレの事を思い出す。
あの後、スファレにはプリズムについての詳しい説明をした。
光の曲がる理屈と言うより、過程と結果を伝える様な授業だ。
原因は幾何光学で説明しづらい。
ガラスの持つ屈折力を説明し、くさび形のガラスを作ってもらった。
そこに、筆記用具の中にあったレーザーポインタの光を通し、光の曲がる角度の公式を教えたのだ。
レンズとは結局の所プリズムの集合体だ。
中央から外に行くに連れて強くなるプリズムを持って、光を狙った所に集めるのだ。
それを早々に理解したようで、ロウソクの火を相手に、凄い集中力でレンズの成形を始めた。
今は集中を切らしたく無いようなので、俺も席を外したと言うわけだ。
昨日のレンズ作成失敗が、よほど悔しかったんだろうか?
「すみませ~ん」
ウェスタンドアを押し開き中へ入る。
昨日同様、この時間の冒険者は出払っているようで、ロビーの中は誰も居ない状態だった。
だたし、カウンターには今日も眠そうなヒュプノスが1人。
腕を枕にして、突っ伏し……。
「って、寝てるし」
いつも眠そうにしてたが、まさか本当に寝ているとは。
窓から入る陽の光に、室内のホコリが反射して、ヒュプノスの周りを彩っている。
まるで雪の中の眠り姫のように、幻想的な雰囲気すら感じられた。
死んでいるかのような静けさに、一瞬ヒヤリとしたが、近づいてみると微かに背中が上下している。
にしても、目の前でこんなに無防備に、スースーと寝息を立てられると……。
「いたずら、しちゃういますよ?」
「――んふっ。だめですよー」
「わっ!! 起きてたんですか!!」
驚いた! 起きてるなら起きてるって言ってよ!
「別にー寝ていた訳じゃないですからー。勝手に勘違いしたヒカルさんが悪いんですー。んーーっ」
そう言ってゆっくりと上体を起こし、一度大きく伸びをした。
「でー、今日は何の依頼にしますかー? ふわぁ~」
絶対寝てただろ、それ。
「い、いや。今日は依頼を受けに来たんじゃないんですよ。ゴンザレス支所長はいますか?」
「あらー? そうなんですかー? ゴンザレスさんでしたら上にいますよー。ちょっと待っててくださいねー……あっ」
奥へ行こうとしたヒュプノスが、立ち止まってこちらを振り向く。
「どうしました?」
「今日は違うのを付けてるんですねー」
「ああ~……」
すぐにメガネの事だとわかった。
今日は一つ枠の気分だったのだ。
「よく覚えてましたね」
「そういうのー、他に付けてる人いませんからねー」
両手を丸にして両目の前にあてがう。
それじゃあ双眼鏡ですよ……。
「メガネって言うんです。今は簡単に作れませんが、いつかヒュプノスさんも掛けてもらいたいですね」
その時は、逆ナイロールとか似合いそうだなと、安直に考えていた。
「本当ですかー? 楽しみにしときますねー」
そう言ってパタパタと奥の階段を登っていく。
しまった、言ったは良いが逆ナイロールとかプラスチックレンズが作れないと出来ないじゃないか!
しばらくして、奥の方から「どうぞー」というヒュプノスの声が聞こえてくる。
うう、ヒュプノスさんごめんなさい……メガネは大分先になりそうです……。
勝手に気まずい空気になりながら、ニコニコ笑うヒュノプスを横切り、支所長室へ入るのだった。
「失礼します」
「どうした。一昨日の事で、なにか思い出した事でもあるのか?」
昨日と打って変わって、ゴンザレスはフルプレートをまとったままだった。
戻ってきてさほど時間がたっていないのか、鎧には砂埃が付いている。
散らかったテーブルには、大きな地図が広げられており、アグロスの村周辺が細かく書かれているようだった。
「いえ、今日はゴンザレス支所長に相談があって来ました」
どうしても視線は地図へと向いてしまう。
「相談だと?」
一体何を意味するのか……俺がフォトンレーザーで貫いた森周辺には、赤いバッテンが数多く記入されていた。
「はい。昨晩、ルガシコインが現れて、気になることを言って出て行ったんです」
ルガシコインの名を出した瞬間。
ゴンザレスの雰囲気が、明らかにかわる。
だが、ゴンザレスの口調は変わらない。
むしろ「なんだそんな事か」とでも言いいそうなていで聞いてきた。
「妖精王は、ヒカルを森の外まで案内し、光でオーガを葬っただけではなかったのか? それがなぜ再び現れれる?」
「ええ、それだけのはずでした。しかし、ルガシコインは現れ、忠告のようなものをしていったんです。それより、ゴンザレス支所長――」
地図のバッテンを指さしながらゴンザレスを見る。
「このバツ印は一体何なんですか?」
ゴンザレスの表情に、僅かな苛立ちを感じ取る。
眉間の皺が深さを増し、こめかみには僅かに血管が浮き出す。
こちらの意図に気づいたのだろう。
だから感情が顔に出た。
ゴブリン級のペーペーが、オーガ級のギルド支所長に対し、遠回しにも――。
情報が欲しければ情報を寄越せと言っているのだから。
いや、俺だって最初はさっさとルガシコインの話をして帰ろうと思ったのだ。
だが、こんなにも分かりやすくフラグが立っていたら――。
触るなと言う方が無理だろ?
一昨日、普段遭遇しないはずのオーガに襲われた。
昨日ゴンザレスが言っていた、森の危険度が跳ね上がっていたと。
工房の親方も「他の冒険者が今日は出ずっぱり」と言っていた。
きっと、冒険者達は他の依頼に駆り出されていたのだろう。
「この村周辺では今、何が起こっているんですか?」
昨日と今日、ゴンザレスも幾らかの情報を集めることが出来ただろう。
それを開示させようと言うのだ。
「――まて」
俺の追及をゴツゴツとした巨大な手で遮る。
「それが妖精王だと言う証拠はあるのか」
「これが証拠になりますか?」
俺はポケットから2粒のピーナッツを取り出すと、テーブルの上に置いた。
そう、ルガシコインが鼻栓として使っていたあれだ。
こんな事もあろうかと、雑巾でキレイに拭いて持っていたのだ。
「これは……!」
おもむろに手に取ると、それを口へふくんだ。
「ゲェッ!」
おい、それ鼻の中に入ってたんだぞ!? 雑巾で拭いたんだぞ!?
きったね! えんがちょ! え~んがちょ!!
「どうした? なぜ後ずさる」
「いや、気にしないでください」
そして近づかないで下さい。
「間違いない、この風味……これは世界樹の雫だ」
は? 凝固物THE鼻雫の間違いじゃないか?
「確認させてもらった。これはお返ししよう」
そう言って、口に含んでいたピーナッツを俺に――。
返すなよ!
「いえ! いりません。ゴンザレス支所長にさしあげます」
「なに? こんな貴重な物をか? 後で返せと言っても返さんぞ?」
あんたに貴重でも俺には鼻ピーナッツと涎ピーナッツなんだよ!
「え、ええ。気にしないでください。そんな事より話の続きをお願いします」
「そうか、でわ有りがたく貰っておく」
そう言うと、鼻涎ピーナッツは小さな革袋へとしまわれた。
「このバツ印の事だったな」
「ええ、森周辺に多いようですが」
やっと話が進められる。
「これは、本来遭遇しないはずの魔物に、遭遇した場所を記してある」
「それって――」
その先は俺でも容易に想像が付いた。
「ああ……森の魔物が何者かによって追いやられている……と考えている」
◆プリズム
空気中に置かれた、屈折率を持つ透明体
光が通過する際、透明体が平行四面体で有れば、斜めに入射した光は、平行にずれて射出される
透明体がくさび形をしていた場合、厚みの有る基底側へと屈折する
レンズとはこのプリズムの集合体であり
▽ △
凹レンズ△ 凸レンズ▽
上記のようなプリズム作用をしている