第11話 「老眼」
シュヴァイク邸で俺達2人を迎えたのは、リビングのテーブルに突っ伏すダワーだった。
どうやら、検眼枠を掛けたまま仕事をしていたために眼精疲労になってしまったようだ。
丁度いい機会だ。2人にとって、今後必ず出てくる問題なのだから、しっかりと勉強してもらおう。
「この毛様体が水晶体を縮める事で人間はピント調節をしているんだけど――その毛様体を使いすぎると、人は眼精疲労になってしまうんだ」
俺の言葉に、スファレが静々と手を挙げる。
「ん? どうした?」
「えっと……あの……ピントってなんでしょう?」
なるほど、そこも分からないか。
この世界にカメラとか無いだろうしな……焦点と言うのが正しい意味になるんだが、はたしてそれで通じるのだろうか。
「スファレ、焦点って言うのは分かるか?」
俺の質問に対して申し訳無さそうに首を振る。
「言葉としては理解出来るんですが、それと目との関係となると……」
「繋がらない……か……よし、なら今から覚えてもらおう」
小学生の理科の実験のように、焦点の理屈を説明することも考えたが、この世界にはピントと言う言葉すら無い、そこを利用しよう。
俺の世界でのピントを説明するよりも、この世界でのピントを創りだそう、そう考えた。
「ピントって言うのは、一番キレイに見える所の事を言うんだ」
「一番キレイに見える所、ですか?」
「そう、一番キレイに見える所。スファレはメガネを外すと、凄く近くしか見えないよな?」
「は、はい。とても近づかないと見えません」
「それは、スファレの肉眼でのピントの位置がそれだけ近くに有るからなんだ」
「ピントが……近くに……?」
俺の言葉をはっきり理解できないのか、漠然と繰り返す。
「そして、メガネを掛けると遠くが見えるよな?」
「はい。とてもキレイに見えます!」
それだけは間違いないと言わんばかりに、元気よく返事をしてくれる。
「それは、スファレのピントの位置をメガネの力で遠くに動かしているからなんだ」
「ピントの位置を……動かす?」
またも漠然と繰り返し、自分の指を目の前で近づけたり離したりしている。
「あの、遠くも近くもキレイに見えるんですが……」
「そうだな、その説明も後からしようと思ってる。だがまず、ピントって言うのが何かだけ、ちゃんと知ってほしいんだ」
そう言いながら、テーブルに置かれたダワーの検眼枠からレンズを取り出し、スファレの検眼枠のレンズと入れ替える。
「わ、先生。遠くが見えなくなりました」
「うん。今俺はダワーさんのレンズをスファレのメガネに入れたんだけど、なんで遠くが見えなくなったのか分かるか?」
「ピント? の位置が遠くじゃ無くなったから……ですか?」
スファレの回答に驚く。
まさかこの短時間でピントについてしっかりと理解しているようだったからだ。
これなら、この先の光学の勉強も捗りそうだ。
「その通り。今スファレが掛けてるメガネはピントの位置が50センチ位にあるんだ」
「はい、確かに近くは見えます……これがピントを動かすと言う事なんですね?」
俺の言葉に、スファレはまたも自分の指で見える距離を探す。
ついでにメートル法が通じた事に今更ながら驚く。
この世界に来てから何度か使ったと思うが、使える事を確信出来たのは今回が初めてだ。
正直、使えると使えないでは、今後の労力が天と地ほど違うので助かった。
「さて、今もスファレが試してると思うけど50センチから後ろは全部ぼやけるよな?」
「はい、目を細めたら少し見えますが……」
「はは、そうだな。それはピンホール効果って言うんだけど、それは次の機会に説明する。で、ピントの位置から遠くは見え無いけど、近づける分にはある程度見える、これがピント調節って言うんだ」
俺は改めて、眼球の描かれた羊皮紙を指さす。
先ほど説明した水晶体と毛様体だ。
「人間の目は、キレイに見えるピントを〝近くにだけ〟動かす力がある」
「ピントを近くに……見えます、でも、何か目の奥がギューってします……」
50センチに離した指を徐々に近づけ、ほぼ目の前の指を見ながらスファレが言う。
「その近くを見る時に、この毛様体って筋肉が頑張ってるんだ。で、今も眼の奥がギューってしてると思うけど、それが続くと眼精疲労になってしまう」
「先ほど先生が言ってたのはこれだったんですね!」
スファレが納得してくれたところで、検眼枠のレンズを元に戻してやる。
「そういう事。だからスファレも、そのメガネを掛けたままで長い時間近くの作業をすると、眼精疲労になってしまうから適度に休憩を挟むこと」
「はい、分かりました。あの……でも、先生」
「ん?」
「私、夜にずっと本を呼んでたんですが、おばあちゃんみたいに、ならなかったのは何でなんでしょう? 眼精疲労には個人差があるんですか?」
なるほど、普段食らいつくようにしか見ることの出来なかった読書が、検眼枠を掛けることで普通に読む事が出来るのだ。
ずっとと言うくらい、結構な長時間読んでいたのかもしれない。
「これが若さか……」
「若さ……ですか?」
「いや、気にしないでくれ。えーっと、眼精疲労の個人差だけど……確かにそれは起こる。人間の持つピントの位置は本来皆バラバラだ、それによって起こる疲労も個人差が出る。それと、ダワーが既に〝老眼の最終段階〟だからと言うのも関係ある」
「ピントがバラバラ……あの、老眼って言うのは何ですか?」
スファレには暫らく関係無いものではあるけど、ダワーも聞いているし、この流れで説明しておくことにするか。
「老眼って言うのはだな。毛様体の動きが鈍くなる老化現象の事を言うんだ」
「目も年を取るんですか!」
「そう、目も年を取る。体の筋肉が衰えるみたいに毛様体も筋肉だから、衰えて動きが鈍くなってしまう。スファレ、毛様体の動きが鈍くなると何が起きると思う?」
「っ、はい。近くにピントが無くなります!」
突然の質問にも素早く答えが帰ってきた。
教えたことは既に身についているのだろう。
素晴らしい吸収力だ。
「その通り。ダワーはその近くが見辛い状態で、無理に見ようとしていたから眼精疲労になったんだ。弱っている筋肉に、鞭打って頑張らせていたと考えてくれ」
「……そんな……」
鞭打つと言う表現が過剰だったのか、スファレが心配そうにダワーのマッサージを再開した。
「ぅぅ……年寄り扱いするんじゃないよ! まだ若いのなんかに負けないんだからね!」
「ダワーさんがいくら若者に負けなくっても毛様体はどうにもなりませんよ。この筋肉は鍛えることが殆どできませんから、諦めてください」
残酷なようだが事実そうなのだ。
老眼の明確な治療法は無い。
無理をせず、上手に付き合うのが得策なのだ。
「もし、若返りの魔法など有れば別ですけどね」
「そんな物あったら歴史が変わってるよ。大体時魔法は妖精の領分だしね」
有るのか無いのか、曖昧な返しが帰ってきた。
まあ、俺も有るとは思っていなかったわけだが。
時魔法か……今度、スファレにこの世界の魔法形態をきかなきゃな。
「今日の授業はここまで」
「ありがとうございました!」
俺が締め、スファレがそれに答える。
その後、多少回復したダワーに、仕事をする時はメガネを外すようにと伝え、3人で遅めの昼食を取ったのだった。
■◇■◇■
「すみません、依頼を受けたいんですが」
「はいー、そこのボードに貼り付けて有りますよー。ご自身のランクに合った依頼を、カウンターまで持ってきてくださいー」
ヒュプノスの指差す先には、大きな掲示板が備え付けられていた。
そこに羊皮紙や、紙が貼り付けてあるのが分かる。
昼食後、俺は再び冒険者ギルドを訪れていた。
スファレも付いて来たそうにしていたが、今回は俺一人だ。
少しでも稼いで、ここでの生活に目処を付けたかったからである。今日も、シュヴァイク邸に泊めてもらえるとは限らないのだから。
俺は言われるがまま、ボードの前までやってきて眉を潜める。
書いてある文字が読めないからだ。
分かっていた事では有る。
そのためにスファレの授業で気を使ったのだから。
それでもここに来たのは……まあ、何とかなると思っていたからだ。
「お困りですかー?」
「うわ! ヒュプノスさん。脅かさないで下さいよ」
突然の声に、慌てて後ろを振り向く。
そこにいたのは、さっきまでカウンターにいたはずのヒュプノスだった。
「いえー、ボードを食い入るように見ておられましたからー。何かお困りかとー」
「いや、そういう訳じゃ……どの依頼を受けようかなーと悩んでまして」
流石に文字が読めないとは言えない。
だが、元より頼ろうとは思っていたので、声をかけてもらって助かった。
「そんな悩むほどですかねー? あー、もしかして文字読むの苦手ですかー?」
「へ……え!? いや……そんな事も無い……かな?」
「そうですかー? この村は僻地ですからー悪筆の人もいますからねー。特に獣人の文字とか読みづらいですしー。言ってくれましたらー依頼を読み上げますよー?」
そう言って、俺の顔を覗き込むように笑ってくれる。
目は相変わらず眠そうだが、傾げる顔にサラリとオカッパ髪が流れて、とても魅力的だった。
「えっと……すみません。〝読めなくは無い〟んですが、お言葉に甘えてもいいですか?」
「はいー、どうぞー。どんな依頼をお探しですかー?」
俺は再びボードへと視線を向ける。
貼り付けられた羊皮紙や紙にはミミズの這った様な文字や、切りつけた様な文字が並んでいる。
その中でも共通している事がある。全ての依頼に、冒険者認定証と同じマークが押してあるのだ。恐らく、最低限そのランクが必要という意味なんだろうが……。
「ゴブリン級で一番稼ぎの良いのて有りますか?」
俺と同じ、ゴブリンの刻印が見当たらないのだ。
「一番稼ぎのですかー? そう言うのは朝一番に無くなってしまいますからねー……。ほらー、朝と違って冒険者さん達誰も居ないでしょー?」
「たしかに……」
最初来た時にいた、屈強な男たちは何処にも居なくなっていた。
今はヒュプノスと俺しかギルドのホールにいない。
「朝に依頼が貼りだされてー、皆さんそれを受けてお仕事に行かれますからー。楽で稼ぎの良い仕事は一番に無くなるんですよー」
なるほど、最もだ。
誰しも楽に稼ぎたい。
俺だって同じ稼ぎなら楽な方が良い。
「それにー、ゴブリン級ですとー討伐や偵察、護衛とかの依頼も無いんですよー。早く昇格したらどうですかー?」
「そんな簡単に言わないで下さいよ。挑戦して倒せなかったらどうするんですか」
「慎重ですねー。ゴブリンまでは順調に受けたじゃないですかー」
そりゃ、相手がゴブリンだったからだ。
ゴブリンは人よりも小さいし力も弱い。
「だって次はオークなんでしょ?」
「ただの猪人間ですよー?」
「それでも、人間の大人サイズはまだ少し……」
怖い。前の世界でも喧嘩なんかやったこと無いのだ。
オーガを正面にしたら時の事を思い出すと、オーク相手でもまともに動ける自信がない。
「そうですかー。なら……このくらいの依頼などどうですかー?」
そう言って、ボードから1枚の羊皮紙を取ってくれる。
「どんな内容なんですか?」
ウルフの刻印がされた羊皮紙を、受け取りながら尋ねた。
「誰にでも出来る簡単なお仕事ですー」
そう言って、またニッコリとヒュプノスは笑った。
◆老眼
老化による調節障害。
強度近視の方は、弱い凹レンズメガネを掛けます。
作中、毛様体筋は鍛えれないと書いていますが、鍛える事で視力が上がると言う方もいます。
著者は、仮性近視の進行を懸念します。