悪しき王の妃である私は、
さく、さくとかぎ針を動かす。毛糸が連なった長いモノが出来てはいるが、何を作ろうかなんて考えていない。マフラーというにはもう長すぎるくらいだ。ずっと集中していたから目が痛い。私は痛む目をこすって、手の届かないくらい高い場所にある小さな窓を眺めた。差し込む光が眩しくて、目を細める。
私は今、何もない石造りの牢屋に一人きりでいる。見張りもいないなんておかしくはないか、と思うのだけれど。それとも「何もしない王妃」と呼ばれている私に対する皮肉のつもりなのだろうか。「どうせこいつは逃げ出しはしないさ、なんて言ったって『何もしない王妃』なんだから」そんな嘲りがどこからか聞こえてくるようだ。さく、さく。まだ時間はある。
窓から聞こえてくる人々のざわめきは、これから起きることを噂していたりするのだろう。そう思った途端、弾ける様な笑い声がすっかり乾ききった喉の奥に落ちていく様な感覚に陥った。さく、さく。あと少し。
私欲に駆られて皆に慕われていた王を殺し、王位を奪ったディータラス。その王位を奪われることを何よりも恐れた彼は、前王の腹心の部下であった宰相や、騎士達までも殺め、罪の無い国民までも反逆の意があると思い込んで殺した。周りの者がいくら止めようとも、自分も同じ様に王位を奪われるのではないかと疑心暗鬼になったディータラスは誰の言葉にも耳を貸さない。自分に刃向いそうな者を殺せば、その身内も仇討として自分を狙うようになるだろう。だからまた殺す、そして殺す。
もう負の連鎖となってしまっていたそれを止めたのは、隣国の王子であるアランだった。前王の息子の一人がディータラスが放った刺客から命からがら逃げ出して、隣の国へ助けを求めたのだ。王の命により僅かな護衛と城へ乗り込んだアランは、謁見の間においてディータラスと壮絶な一騎打ちを繰り広げた後彼を倒したのだという。王であるディータラスを助けるものは誰一人としていなかった。
そんな悪しき王の妃である私は、もうすぐ国民達の前で裁かれる。
「別に私みたいな小者が公開処刑されたところで、何にもならないと思うけど」
さく、さく。かぎ針を動かしながら私はぽつりと呟いた。悪い王はもういない。隣国の王子によって殺された。どうせなら私も一緒にまとめて殺せばよかったのにと思う。王子様も私を殺すほど暇じゃないということか。
そんな事を考えていると、廊下から足音が聞こえてきた。最初は見張りの人がやっと来たのかな、と思ったけど違うようだ。足音が違う。どこか品がある歩き方をしているのだ。それでいて少し焦っているような。誰だろう?さく、さく。
暫く足音が響いていたが、私がいる牢屋の前でそれは止まった。ガチャガチャと鍵を開ける音が聞こえる。私に会いに来ようなんて珍しい人は誰だろう?重たい扉が開くと同時に見えたのは、もう会えないと思っていた懐かしい幼馴染の顔だった。
「やぁ」
「久しぶり、元気だった?」
私が昔のように砕けた話し方をすると、彼は悲しそうに微笑んだ。
「アラン」
「どうしてこれから起こる事を恐れない?」
さく、さく。いつもと変わらずかぎ針を動かす私を見て、アランは苦々しげに顔を歪めた。最後に会いに来てくれた優しい彼も流石に、反省した様子がない私に失望しただろうか。
「なんで何も言い訳しない?自分は何もしていないって泣き叫べばいいじゃないか」
違う、彼は私に今ならまだ間に合うと言っているんだ。国民の前で、臣下の前で許しを乞えば殺されはしないと。私はアランに微笑んだ。久しぶりに口角を上げたから頬が痛い。
「私は何もしていない」
「だったらっ--」
それに続くであろう言葉を私は首を振って止める。
「私は王を止めなかった」
なるつもりは全くなかったけれど、仮にもこの国の王妃なのに私は何もしなかった。ただの一度も王となった夫を支える事もしなかったし、どんどん誤った道に進んで行く夫に正しい道を教えることもなかった。だから裁かれなきゃいけないの、と言うとアランはもう何を言っても私を説得できないと悟って肩を落とした。
「どうしてこんな事に……ディータラスが変わってしまったのはいつからだ?俺が城から抜け出してディータラスの屋敷の端にあった古い小屋で遊んでいた時、お前が光と共に突然現れて。お前を不審者扱いしてしまった事の他にも色々大変な事があったが、それからお前も入れて3人で遊ぶようになって。あの頃は毎日が楽しかった」
「……」
「いつからだろうな、ディータラスが笑わなくなったのは。王位に執着するようになったのは」
私たちの兄のようだったディータラスが変わってしまったのはいつからだったろう。徐々に私達と距離を置き始め、ふと気づいた時には大きな溝が出来てしまっていた。
「だからディータラスがお前を妻にすると言った時、嬉しかったんだ。仲良かった頃のディータラスに戻ったんじゃないかって思った。お前を連れて隣国へ行くと言った時も止めなかった--お前が笑っていなかった事に気づいていたのにな」
アランは苦しそうにそう言った。
「俺は第一王位継承者としての務めが忙しくなった事を言い訳にして、お前が苦しんでいるのにも気づいていたのにお前に全部押し付けた……だから何もしなかったのは俺の方なんだ」
私は下を向いて震えるアランの肩に手を置いた。
「そんなことない。アランはディータラスの負の連鎖を止めたんだよ。もうディータラスは罪を重ねるしか出来なくなっていたの。限界だった」
罪に気づいた時には、もう後に戻る事も出来なくなっていた。前に進むだけしかない……もっとも彼は戻る気もなかったのだろうが。
「俺は親友を殺す事しかできなかった。すまな……」
「謝らないで」
私は短くそう言って止めた。
「彼を止めるには誰かが殺すしかなかったの。本当は私がしてあげるべきだった」
私は密かに懐に隠していた一冊の薄い本をアランに渡した。
「……これは?」
アランはページをパラパラとめくって顔をしかめた。たぶん見た事もない文字が並んでいて読めないからだろう。読めなくて当然だ、私が以前いた世界のモノなのだから。
「私がいた世界での名作。『こっち』に来た時に持ってきたものの一つなんだ」
編み物を初めてみようと思いついて買ったばかりのかぎ針と、たまたま読んでいた一冊の本を持って私はこの世界へやって来た。なんで特に愛着もないものを持ってきちゃったんだろうか。編み物が得意だったら作品を売ったり誰かにあげたりも出来ただろうし、思い入れのある本だったらそれで得た知識を利用して役立てることが出来たかもしれないのだ。本当に残念すぎると思う。
「この本はね、ある国の王様の物語なの」
「王?」
「そう。皆から慕われていた王様を暗殺して、王位を奪った王様の話……最期は自分の妻と息子、使用人たちを殺された男によって殺されたんだっけ」
私がそう言うと、アランは絶句した。
「それって、もしかして……」
「あぁ、ディータラスの事じゃないよ。その物語の王様は自分が殺した者の幻覚に悩まされていたし、魔女の予言と奥さんにそそのかされてその気になっちゃったけど、私は何もしていないし……」
「……」
「とにかく、ディータラスのことじゃないから安心してね」
「別に僕は妻も子供もいないし、違うとは思っていたからいいんだけどさ……だけどどうしてこれを俺に見せたんだ?」
アランはそう私に尋ねた。
「なんとなく、かな」
私はそう言って笑った。この物語の王妃は王様を支えていた。王妃としては駄目だったけれど、奥さんとしては最高の人だったのだろうと思う。少なくとも自殺するまでは、夫を一人ぼっちにしたりしなかった。私は違う。奥さんとして一緒にいてあげるなんて事はしなかったんだ。
さく、さく。私はまた手の動きを再開する。
「ねぇ、アラン。もういいよ」
さく、さく。アランはぴくりと動きを止めた。
「何が?」
「わざわざ私を迎えに来てくれたんだよね?王子様直々になんて普通ないのに」
この人は私を逃がせるために見張りまで払って来てくれたのだろう。本当はわかっているよ。
「ありがとうね。最後に話せて嬉しかった」
私はアランの腰に付いていた剣を引き抜いて、アランにそれを握らせる。アランは震えながら剣の先を地面に付けた。
「おい、お前まで俺に自分を殺させようとするのか……」
「うん」
本当は処刑台で殺されなければならない事になっている。「何もしない王妃」の事を疎ましく思っていたディータラスの部下が、裏でそう仕向けたのだ。そうでなければ私がそんな大掛かりな処刑をされるはずがない。どうせいくつか身の覚えのない罪を擦りつけられて、国民の前で殺されるのだろう。
最期くらい「何もしない王妃」も抗ってみようじゃないか。
「ディータラスと同じ剣で裁かれたいのです。お願い致します」
私は目の前の王子に跪いた。
「……いいだろう」
暫くして震える剣の先が地面から私の顔に移されるのを肌越しに感じた。私は目を閉じる。
ここよりももっと文明が発達していて、知識もあった私にできる事は少しはあったと思う。何もできないと最初からあきらめていなければ、何か別な方法を思いついたかもしれない。ディータラスを助ける事だって出来たかもしれない。その想いを実行に移さなかった私はただの馬鹿だ。
「何か、言い残すことは?」
アランが声を震わせながら私に尋ねる。首に刃が食い込んだ。
「ありがとう……私も、多分ディータラスもアランに感謝しているからね」
そう言い終えるのと同時に首に鋭い痛みが走って、そのまま目の前が真っ白になった。完全に気を失う前にふわりと抱き上げられた。どうしたの、と聞きたくてももう声はもう出ない。
最期に感じたのは、冷たくなってきた唇に落ちた温かくて柔らかい感触だった。
最後の描写ですが、アランが主人公にキスをしたということをそれとなく書いてみたつもりです。最後まで読んで頂き、ありがとうございました。