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  作者: 裕里 沙亜奈
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貴方は眩しすぎて、本の世界に逃げることしか知らなかった私には、あまりに眩しい現実で……

だから、逃げてしまいたいの。



流水の勢いと共に、洗剤のみずみずしい香りが立ち上る。蓋を閉めると、ドアの開閉音にも似たバタンっと言う音がした。

居間のテレビからは天気予報が流れてくる。若いキャスターの甲高い声が響く。

どうやら今日は、一日快晴だそうで洗濯日和とのことだ。


ーー今日はベランダに干そう………ーー


貴方には太陽の香りが似合うから。

太陽と洗剤の香りがとてもよく似合う人。



義務教育を終えても、貴方は相変わらず私の隣にいた。ふわふわの猫っ毛は相変わらず授業の間中、組んだ腕の上に収まっていたけれど、それ以外は教室から姿を消した。

貴方は、夢中になれるものと出会った。


入学生歓迎会で行われた美術部の絵画パフォーマンスに痛く感銘を受けた貴方は、次の日には入部届けを持って美術室のある芸術棟に殴り込んだ。

入部するのに殴り込みなんて、物騒な表現かもしれないけれど、あれは殴り込みだと思う。


「……たのもーーーっ!!!」


道場破りかと言う勢いで叫んだ貴方の声が、一般教室のある教室棟にまで響いていたから。

その日から、貴方は寝ても覚めても絵を描くことばかりになっていった。


昼休みと終業を知らせるチャイムが貴方の目覚まし。一目散に駆け出しては愛しい恋人に会いに行くかのように嬉々として美術室に駆け込む。

そんな貴方の周りには少しずつ、人の渦ができていった。

直向きに情熱を燃やす人に人は引き付けられる。元々、貴方は天使のような顔をしていた。多少、変わっているとはいえ充分人を引き付ける魅力はあった。

隣の貴方は、人垣の向こうに行ってしまった。


そんなある日のことだった。


相変わらず、本の虫で高校進学後も図書委員を続けていた私は、その日も変わらず返却図書の整理をしていた。

台風が近づいているせいなのか、空は暗く厚い雲が低く広がっていた。

手にしていた本の表紙に、ぽたりと滴が落ちた。

ついに降ってきたか。誰だ、窓を開け放した不届きものは。と顔を上げて驚いた。

窓はしっかりと閉じており、鍵もかかっている。

ただ、硝子には両手に本を抱えはらはらと涙を流す私が映っていた。


「え……、なんで、わたし、……」


ーー……泣いているの?ーー


声に出せない気持ちが独り言の続きを喉の裏側に張り付けてしまった。

声もでない。涙が喉の奥に詰まってしまったようで息を吸うのも苦しい。本を抱えていることもできなくなって、ついにはその場に崩れるように座り込んでしまった。


平穏な日常なのに、誰にも邪魔されず好きなだけ本に埋もれていられるのに、今はただ、胸が張り裂けてしまいそうに悲しかった。


隣にいた。貴方はずっと隣で眠っていたのに。

手を伸ばすことも出来なくなってしまうのではないか。


あの柔らかそうな髪に、白い頬に、三日月を描いた唇に……


声もなく泣きじゃくる私の肩を包むように、二本の腕が背後から絡み付いてきた。

驚いて振り返ろうとするも、見た目からは意外なほど力のある体に押し戻されてしまった。

でも、誰なのか確かめようとした訳じゃない。

顔を見なくてもわかる。

これは、この細く白い腕は、ふわふわの猫っ毛を乗せていた腕だ。


「……なん、で、……?」

「いるのって?」

「……。」

「……そろそろかな、と思って。」

「……そろそろ……?」

「うん。」

「……な、に……?」

「そろそろ、行動にしてもいいかなって。」

「……。」

「寂しかったんでしょ?」

「……。」

「悲しかったんだよね?」

「……。」

「俺が、隣にいなくなるのが。」


心臓を鷲掴みにされた気がした。

貴方は知っていたのか。あの日以来、私が貴方を隣に感じることに不思議な幸福感とチリチリと焼けるような焦燥感を抱いていたことに。


「俺のために泣いてたんでしょ?」


貴方が私の肩に絡み付けていた腕を解いて、私と向き合う。

泣いていたことを思い出して、顔を伏せると両の頬を掌が包み込んだ。


ーー絵の具のにおい……ーー


そう思ったときには、顔を上げさせられていた。


「……綺麗だよ。」

「……みない、で…」

「見て。」

「……え…?」

「ちゃんと、俺を見て。」


頬を包む掌に抗うのも忘れて、貴方の瞳を見た。

真剣な色を浮かべた鳶色に、私の世界からすべての音が奪われた。


ーーあぁ、捕まってしまった……ーー


ぼんやりと、そう思った。


「好きだ。大好きだ。」


また溢れてきた涙が貴方の手の甲を伝って制服のスカートに染みを作っていく。

鳶色が徐々に近付いてきて、一言の言葉も紡げない唇に柔らかさと温もりを感じた。

貴方の細い首筋から、太陽と洗剤の香りがした気がした。



電子音がして、我に返ると洗濯機が仕事を終えて止まるところだった。

考えに耽ると時間が飛び去るのは学生時代から変わらない私の悪い癖だ。

成長していないな、と苦く笑いながら蓋を開け洗い上がった洗濯物たちを籠に移していく。

ぼんやりしているうちに、朝のニュースは終わり昔懐かしい時代劇が始まろうとしているらしかった。



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