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「世間一般的には無職ですね。祖父が亡くなって遺産が入るのと同時に、僕の両親が離婚して、このペンションに住み始めたんで、かれこれ5年くらいになりますね……この状態は」
指の長い白い両手を顔の前で組んで、蓮は優雅に微笑んだ。
一瞬、呆けてしまった菜々美だったが、彼の言葉をもう一度反芻してみて首を傾げた。
「え~と、じゃあ、滝沢君は5年間も何にもしないで、この山の中で引き篭もってるってこと?」
「はい。そういう事になります」
「そういう事って……あなた、まだ30にもなって無いでしょ!? その年で、こんな山の中で隠居生活しててどーすんのよ?」
「どうもしませんよ。寧ろ、人間として正常な生き方をしていると、僕は信じてます」
微笑みを絶やさず、蓮はグラスを口に運んだ。
酔いが回りやすい体質なのか、陶磁器のように白かった顔がほんのりと桜色に染まっている。
金色の液体をグラスの中でゆっくりと回しながら、蓮は話を続けた。
「僕が一般大卒で入社した最初の会社の初任給は、総支給で25万でした。年金やら保険やら税金やら引かれると、手取りで口座に振り込まれるのは20万がいいとこでしたよ。
ボーナスは最初だけありましたが、景気が悪くなってから打ち止めになりました。
そうすると、一人で暮らしの家賃やら食費やら出て行く方が多くて、結局、手元に残るのは毎月5万がせいぜいです。
実際、最初の1年間で60万貯金できましたよ。食べる事以外に お金を使う時間は全くありませんでしたからね。
毎月5万円、年間にして僅か60万を手元に残すために、僕は空気の悪い都会で狭いアパートに住み、朝から夜まで好きでもない仕事をさせられ、コンビニで栄養価は低いのに値段だけ高い揚げ物弁当を買い、寝るためだけに帰宅して、目が覚めたらコーヒーだけ胃に入れて満員の地下鉄に飛び込む……。
そんな生活を何年か続けて、僕は、一体、何の為に生きてるのか分からなくなったんです。
時を同じくして、資産家だった祖父が亡くなり、僕と両親に思わぬ遺産が入りました。
遺産の額は、僕が死ぬまで働いて稼ぐであろう金額を遥かに上回るものでした。
そこで、僕は考えたんです。
朝から晩まで死ぬほど働いて、月に僅か5万円を残す事に何の意味があるんでしょう?
この山の中では通勤できるような会社はありませんし、社会から疎外された空間です。
でも、少なくとも家賃は掛かりません。
食料は自家栽培してますし、山から採取してきたり、川で魚を採ったりしてます。ここで暮らしていれば、時間を掛けて、栄養価の高い料理を自炊する事ができる。コンビニの弁当を365日食べ続けるのに比べたら、食費は全然かかりません。
おいしい空気を吸って、自然の中で育てた野菜を食し、美しい景色を眺めながら午後の紅茶を楽しむ。夜は月を愛でながらピアノを弾いて、星を眺めて眠りについたら、翌朝、朝日と鳥の声で目を覚ます。
無駄な事にお金を掛けて都会で忙殺される毎日を送るのと、お金も掛からずここで人間らしく暮らす……。先輩はどちらが正常な状態だと思いますか?」
菜々美は、ゆっくりと語る自信に溢れた蓮の顔を見つめながら、呆然と考えていた。
確かに一理ある……気はする。
蓮の言う「都会で忙殺される生活」を現在進行形で続けている菜々美には耳の痛い話だ。
働かなくていいだけのお金があるなら、確かに苦しい思いをして働く意味はないのかもしれない。
だけど……。
だけど、何かが腑に落ちない!
この若さで、山の中で俗世間と一切コンタクトを断って、隠居生活するのが人間らしいと言えるのか!?
お金があるからと言って、社会的に生産性のない生活を続けていくのは如何なものか!?
なんとか反論したいと思っても、適切な言葉が見つからず、菜々美は眉間に皺寄せて考えこんでしまった。
「滝沢君、あなたの言う事は理解はできるわ。だったら、あなたの目的は何なの?」
「目的? 何のですか?」
「生きる目的よ。ここでひとりでパン焼いたり、ピアノ弾いたりしたって、誰も見てくれないじゃない。あなたのピアノ、こんなにすごいのに、山の中で一人で弾いてたって誰からも評価されずに埋もれちゃうわ。調理師免許持ってて、こんなにおいしい料理が即席で作れるなら、飲食関係の仕事なんかいくらでもあるでしょ? 才能もあって、ルックスだって恵まれてるんだから、何かしようと思えば 何だってできるでしょう? その若さで隠居生活してるなんて、人生もったいないわよ。これじゃ、年金暮らしの老人と同じじゃないの?」
菜々美の反撃を静かに聞いた後、蓮は、フッとシニカルな笑い方をして、グラスをグイと空けた。
ヘーゼルの淡い色の瞳が、アルコールのせいで充血して赤く潤んでいる。
しっかりした口調とは裏腹に、酔いはかなり回っているようだ。
一気にグラスの中を飲み干した後、フーッと大きく息を吐いてから、蓮はポツポツと話を続けた。
「……先輩だけですよ、そんな事言ってくれるのは。僕のピアノなんか、全然すごくないです。そりゃ、素人から見たら普通に上手いでしょうけど、一流になる程の天性の才能は僕にはありません。仮にそうだとしても、どうして誰かに評価されなければならないんですか? ピアノなんてね、自分が好きで弾けばいいんですよ。
料理も同じです。僕は作るのが好きで、おいしいものを食べるのが好きだから、勝手にやってるだけであって、それをもって儲けようとか、いいところで働こうとか、考えた事ないです。ルックスがいいって言ってもらってもですね、僕はご覧の通り、性格が内向的で陰湿なんで、女の子と付き合ってもすぐに飽きられちゃうんです。もうね、フラれてばっかり。僕なんて所詮、社会不適合者なんですよ」
テーブルに頬杖をついて、蓮はくだを巻き始めた。
こうなると、ノーブルな紅茶王子もただの愚痴っぽい酔っ払いだ。
半ば呆れて、菜々美は立ち上がると蓮の肩を揺すった。
「ちょっと、大丈夫? 梅酒くらいで情けないわね。部屋まで連れてくから、今日はもう寝た方がいいわ。ね、部屋はどこ?」
「はいはい、情けなくてすいませんね。あー……でも、先輩が来てくれて良かったです」
「そうね、絡む相手がいて調度良かったでしょ?」
投げやりに返事をして、菜々美はテーブルで崩れている蓮の腕を掴んで引き上げた。
その瞬間、彼の長い両腕がスルリと菜々美の背中に回り、彼女の体は軽々と引き寄せられた。
「……知ってました? 俺、高校の時、先輩がいたからピアノ弾いたんですよ」
蓮の胸の中にすっぽりと収まってしまった菜々美の耳に、アルコールの混じった彼の低い声が囁いた。