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「お待たせいたしました。大した料理でもありませんが、お替わりは自由です。どんどん食べて下さいね」
グランドピアノが設置された一階の大広間を離れ、蓮は菜々美をキッチンに併設されたダイニングルームに案内した。
木彫の食器棚には色とりどりの美しいティーカップが並び、飾り絵のついた皿が見た目も美しく並べられている。
アンティークな木彫のダイニングテーブルの前に菜々美を座らせると、フリルのついたエプロン姿の蓮が両手を広げてにっこり笑った。
長めの栗色の前髪を無造作に頭の上でちょんまげにして、赤いペイズリー柄のバンダナを額の上で巻いている。
センスのない組み合わせも、スラリとした蓮が着ると、それはそれで様になるのだから不思議だ。
菜々美はエプロン姿の紅茶王子と、目の前のテーブルに並べられた料理の皿を見比べて、「ハァ~」と溜息をついた。
前菜は虹鱒のマリネ、スープはミネストローネ、メインディッシュは茸とチキンのフレンチソース煮込み、そして、まだ温かい焼き立て胡桃入りロールパン。
小洒落たチューリップ型のワイングラスには、淡い金色のドリンクが注がれている。
ちょっとしたフルコースのディナーメニューだ。
こんなに短時間で、これだけの料理が並ぶとは、蓮の料理の腕は素人の域を越えている。
レトルトパックのミートソースがかかったパスタくらいのものだと侮っていた菜々美は、女として完全に負けている事を瞬時に理解した。
「すごいじゃない。滝沢君が料理できるなんて知らなかった。しかも、プロ級じゃん!」
「ありがとうございます。でも、料理を始めたのは卒業してからですよ。飲食店でバイトしてた時期が長かったんで、自然と得意になりました。勢いで免許まで取っちゃいましたからね。その気になれば、レストランも開業できます。まずは料理が冷める前に食べましょう、ね?」
蓮はそう言って、いそいそと菜々美と向かい合って席についた。
彼の明るい瞳が真っ直ぐに菜々美を見つめて、気恥ずかしさに視線を泳がせる。
そんな菜々美の心境も知ってか知らずか、蓮は満面の笑みを湛えたまま、ナイフとフォークを握って料理に手をつけ始めた。
菜々美もミネストローネをひと匙、口に運んだ。
その途端、コクがあるのに酸味の効いた上品なトマトの風味が口一杯に広がる。
ハーブが効いたその味は、菜々美が知っているどんなスープにも似ていなかった。
「これ、おいしい!」
「本当ですか? そのトマトね、庭で栽培してるんですよ。入ってるハーブも、みんな庭で採取したものなんです。ちなみに虹鱒は川で釣ってきて、茸は山で取ってきたものです。買ってきたのは鶏肉くらいですね」
菜々美の率直な言葉に、蓮は嬉しそうに語り出した。
子供のように目をキラキラさせて話す蓮は、確かに高校時代の野球部だった小坊主君だ。
さっきまでの不機嫌はどこへやら、夢中になって食べ始めた菜々美に、蓮は料理のウンチクを語り出した。
「虹鱒は天気のいい日に川で釣ってきて、庭にある池にいつも二、三匹は入れておくんです。このマリネは昨日つけたものなので、今がちょうど食べ頃でした。先輩はラッキーでしたね。
ミネストローネの野菜の大半は、外の庭で栽培したものです。晩秋まで収穫できるように温室栽培もしています。
あ、このチキンは、山で採ったこの茸と合うんですよ。鶏肉も山を降りた所の農協で買ってくるので、生産者さんから直売してもらってるようなものです。その内、庭で鶏も飼育しようかとは思ってますけどね。 胡桃のパンも、僕が今焼いたんですよ。雨でなければ、庭の石窯でゆっくり焼きたかったんですが、また晴れてる時にご馳走しますね。石窯で焼くピザもイケるんですよ。今日、雨で残念でしたね。
あ、これ終わったらスイーツもありますからね。今が旬の梨のシャーベットです。これがね~、意外にイケるんですよ。今年一番の自信作です」
子供のように目をキラキラさせて、蓮は楽しそうに一人で喋っている。
菜々美は、それを「ああ、そう、うん、へえ」などと、適当に相槌を打ちながら、絶品料理に舌鼓を打っていた。
そこらのレストランよりも本格的、且つ、家庭的なおいしさだ。
今までの疲れと空腹も手伝って、菜々美は蓮のウンチク話を軽く受け流しながら一心不乱に食べ続けた。
チキンと茸のフレンチソースを平らげ、そのソースを胡桃のロールパンに絡めて口に運んだ後、菜々美はようやく一息ついて蓮を見上げた。
いつの間にか、彼は手を休めて、菜々美がガツガツと食べる様を観察している。
菜々美と視線が合うと、ニコニコと機嫌よく微笑みを浮かべて「おいしかったですか?」と聞いた。
子供みたいに一心不乱に食べ続けていた事が気恥ずかしくて、菜々美は赤面した。
「本当においしかったわ。一気に食べちゃった」
「では、こちらも試してみて下さい」
蓮は金色のドリンクが入ったグラスを差し出した。
そう言えば、今まで食べるのに夢中で、ドリンクまでは気が回らなかった。
慌ててグラスに口をつけると、甘酸っぱくて爽やかな芳香がぱあっと広がる。
「おいしい! これ何? アルコール?」
「はい。手作りの梅酒です。今年漬けたものなので、少し酸味が強いかもしれませんが」
言われてみれば、あっさりした喉ごしに騙されそうだが、アルコールはしっかり効いているようだ。
少し顔が火照るのを感じたが、毎晩、ビールと日本酒で鍛えている菜々美は、梅酒くらいで酔うほどヤワではない。
だが、軽い酔いが回ったお陰で、緊張気味だった菜々美もようやくリラックスできた。
「滝沢君、あんた、すごいわよ。ここでレストラン始めたら、本当に儲かるかもよ? もしかして、今、どっかで料理人やってるの? てか、仕事何してんの?」
蓮に二杯目の梅酒をついで貰いながら、菜々美は一気に砕けた口調で話し掛けた。
そして、ついでに蓮の手からボトルを奪い取ると、今度は彼のグラスに注ぎ返す。
蓮は苦笑しながら、一口飲んで言った。
「仕事はもう何年もしてません。祖父の遺産が入ったし、この家もあるので、差し迫って働く必要ないんです」
「へっ!? じゃあ、あんた無職?」
「はい」
「はああ!? じゃ、いつも何やってんの!?」
「え? ピアノ弾いたり、パン焼いたり、ハーブ育てたり……とか?」
悪びれもなくニッコリ微笑む蓮を、菜々美は酔いの回った顔でポカンと見つめた。