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淡いピンクのタイル張りのお風呂場に通された菜々美は、濡れたスーツを脱いで軽くシャワーを浴びた。
元ペンションだけに、ピンクの浴槽のバスルームはシンプルではあるが、清潔感があり心地良い。
だが、そこに生活感は見出だせなかった。
あまりに整い過ぎていて、蓮がここを使っているのかも怪しいところだ。
寒い季節ではないものの、濡れたまま体にフィットしたスーツを着ているのは不快感だったので、蓮の申し出はありがたかった。
用意してくれたシャツとジャージは小柄な菜々美には大き過ぎたが、この際、文句は言ってられない。
濡れた髪を素早く結い上げ、大き過ぎるジャージの腰紐をできる限り縛り上げてから、お風呂場の外に出た。
ドアを開けた途端、響いてきたピアノの音色に菜々美はハッとした。
流れるような旋律、そして、少し懐かしくて、哀しいメロディライン。
それがさっき家の外で聞いたのと同じ曲だと、すぐに気がついた。
その音色の見えない力に引かれるように、菜々美は無意識に足を動かし階段を降りてゆく。
窓辺に置かれたグランドピアノの前にいるのは蓮だった。
彼によってピアノから紡ぎ出されるその旋律を聞いた時、菜々美の口から思わず感嘆の溜息が漏れた。
「すごい……」
流れるようなピアノの旋律に、菜々美は総毛立った。
連が高校時代より格段に上手くなっているのは、素人目にもすぐ分かった。
あのコンクールを最後に引退してしまった菜々美は、その後、彼がどんな人生を送ってきたか全く知らない。
あのコンクールの後、蓮はまた野球部に戻ったんだろうか。
ピアノはずっと続けていたんだろうか。
両親が離婚したって言ってたけど、卒業してからどうしてたんだろうか。
仕事は何をしているんだろうか。
様々な思いが脳裏に浮かぶ。
だが、彼の邪魔をする事を恐れた菜々美は、一心不乱にピアノを奏でる蓮を、階段の上からただ呆然と見つめていた。
男性にしては華奢な彼の体から想像できないくらい、その音は力強く激しい。
だが、泣き叫ぶかのような激しい旋律とは裏腹に、ピアノに向かう彼には不思議な程、表情がなかった。
まるで、彼自身もピアノという楽器の一部になってしまっているかのように。
その時、ピアノの音がピタッと止まり、鍵盤を見つめていた蓮が突然顔を上げて、階段で突っ立っている菜々美を見上げた。
顔に掛かった栗色の髪を邪魔そうに掻き上げると、「温まりました?」とぶっきらぼうな口調で声を掛ける。
自分の事を聞かれているのだとようやく分かって、菜々美は慌てて返事をした。
「あ、ありがとう。お陰様で助かったわ。ピアノの邪魔しちゃってごめんね」
あたふたと返事をする菜々美を見て、蓮は少し表情を和らげると、ピアノの蓋をパタンと閉めた。
「別に邪魔じゃありませんよ。ピアノはいつでも弾けるんですから。それより先輩、お腹減ってませんか?」
「そ、そう言えば減ってる……けど?」
そこまで言い掛けて、菜々美は口篭る。
確かに空腹ではあったが、仮にも今日は広告代理店の営業として来ているのだ。
いくら蓮が昔の後輩であっても、シャワーまで借りた上、食事まで用意させる訳にはいかない。
そんな菜々美の考えを見透かすように、蓮は笑みを見せて言った。
「いいじゃないですか。ここはカフェじゃないんですから。広告出す予定もないし、僕はただの昔の後輩ですよ。雨も今日は止みそうもないし、ゆっくりしていって下さい」
「まあ、それはそうよね」
「じゃ、今からなんか作りますから、それまでこっちで寛いでいて下さいよ」
彼がそう言って指差した先は、グランドピアノの傍らに置かれた真紅のソファだった。
「じゃ、お言葉に甘えて、ご馳走になります」
菜々美はそう言うと、階段をゆっくりと降りて行った。
ピアノの前で彼は穏やかな表情のまま、菜々美を見つめている。
彼の視線を感じて、菜々美は気恥ずかしくて顔が火照ってきた。
「ねえ、先輩?」
ピアノの前を通った瞬間、柔らかい彼の声が菜々美を呼び止めた。
「は、はいっ!?」と素っ頓狂な声が出て、反射的にビクッと飛び上がってしまう。
恐る恐る振り返った先で、蓮は腕を組んだままピアノにもたれて苦笑している。
「びっくりしないで下さいよ。何が食べたいですかって聞こうと思っただけです。なんでそんなに緊張してるんですか?」
「き、緊張なんかしてないわよ。ただ、ちょっと、慣れないだけで……」
「心配しなくても先輩に変な事しませんから」
「ちょっ、変なことって、そっちこそ変な事言わないでよ! 大体、こっちは万年ワーキングプアの庶民なんですからね! こんな格調高い場所でピアノ聞きながらご飯食べたことなんかないんだから!」
「そうなんですか。じゃ、今夜は先輩の人生初、ピアノの生演奏とゴージャスなディナーを堪能して下さい」
「今夜……って、いくら何でも泊まる予定はないんだけど!」
「だって、多分、明日まで雨止みませんよ? これからご飯食べた後、真夜中の嵐の中を車で帰るんですか?」
「う……!」
蓮の指差した先の窓の外は、叩き付けられた雨が滝の如く流れ落ちてゆく。
さっきより激しくなった雨脚は、すぐに止むようには見えなかった。
「ど、どうしよう……こんな雨の中、車の運転なんかできないわ」
「だから、泊まっていけばいいじゃないですか。ここ、元ペンションですし、部屋ならいくらでもありますよ。明日、仕事なんですか?」
「一応、休みだけど……」
「だったら決まりですね。僕、調理師免許持ってるんですよ。本気出して料理しますから、今夜はゆっくりしていって下さい、ね?」
ピアノにもたれたまま、蓮は明るいヘーゼル色の瞳を細めて笑った。
Tシャツとジーンズのラフなスタイルなのに、そこに立っている彼は、充分過ぎるノーブルなオーラを纏っている。
これが育ちの違いというやつなのだろうか。
高校時代の丸坊主だった彼を思い出して、妙な敗北感を感じつつも、目の前のこの笑顔に逆らう事は菜々美にはできなかった。
「じゃ、お言葉に甘えさせて頂きます」
「かしこまりました、先輩」
菜々美のオズオズとした返事を聞いて、蓮は心底嬉しそうに顔を綻ばせた。




