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時を遡ること12年。
それは、高校三年の合唱部最後のコンクールの一月前の事だった。
菜々美にとって、その日は部長としての最後の大舞台。
高校生活三年間の集大成だと言っても過言ではない。
それまで順調に練習を重ねてきた合唱部だったが、突然、ハプニングに見舞われた。
今までピアノで伴奏をしてきてくれた三年生の女子部員が、コンクールの欠席を申し出たのだ。
「推薦入試を受ける事になって、事前面接に東京まで親と一緒に行く事になったの。ごめんなさい! でも、どうしても、その大学を受けたいの」
そう言って、泣きながら謝る彼女を、部員の誰もが責める事はできなかった。
高校3年生の受験を控えた時期だ。
コンクールよりも、人生がかかった大学入試の方が、優先順位が高いのは分かっている。
こう言われれば、部員達も納得せざるを得なかったが、問題は、一ヶ月後のコンクールに合わせて課題曲を弾いてくれるピアノ伴奏者がそうそう見つからないという事だった。
「生演奏は諦めて、CDで代用するか」と諦めかけたその時、合唱部の顧問が「すごいピアニストが一年生にいるらしい」と噂を聞いてきた。
熱血顧問に執拗な勧誘を受け、渋々やってきたその一年生こそ、『小坊主君』こと、紅茶王子・滝沢蓮だったのだ。
素晴らしいピアニストでありながら、小坊主君は入学早々、野球部に入ってしまった為、日に焼けて真っ黒な上に、丸坊主にされていた。
彼が本当は陶磁器のような肌に栗色の髪だったなんて、誰も知る訳がない。
しかも、黒縁の異常に分厚いレンズのメガネを常用していた為、彼の第一印象は戦時中の疎開児童だった。
その風貌をひと目見るなり、菜々美達は、合唱部に於ける彼のニックネームを『小坊主君』と命名した。
最初は先生に強引に連れて来られて渋々だった彼のピアノのテクニックが、本物と分かるまで時間は掛からなかった。
合唱部の女子部員達に黄色い声援を送られ、日焼けした顔を真っ赤にして、小坊主君はコンクールまで頑張ってくれた。
「ありがとう!」と最後に部長としてお礼を言った菜々美に、彼は「いえ……」と俯いたまま返事をした。
無口な上に無表情な小坊主君は、菜々美にとって印象的とは言い難かった。
そもそも、個人的に話をした記憶もないのだ。
すっかり忘れていた、と言っても語弊はない。
だが、こうして古ぼけた写真を手にすると、菜々美の脳裏には高校時代の思い出が走馬灯のように浮かんでくる。
皆で頑張った最後の合唱コンクール。
その思い出の片隅に、確かに彼はいた。
その小坊主君が、みにくいあひるの子の如く、超絶イケメンへと変貌を遂げ、菜々美の目の前に立っているのだ。
もはや奇跡としか言いようのない変わり様に、菜々美は驚きを通り越して、可笑しくなって笑い出した。
「うわあ、思い出したわ! あなた、私達の引退コンクールでピアノ弾いてくれた野球部の小坊主君だら? まー、こんなに変わっとったら、そりゃ、分からんに! あの頃は、チビで真っ黒で、瓶底メガネの垢抜けない一年ボーズだったもんでね! しかも、丸坊主だったしさあ! いや~、見違えた見違えた! 元気だった?」
思いがけない再開にすっかり興奮してしまった菜々美は、蓮の肩をバンバン叩きながら一人で喋りまくった。
興奮すると思わず出てしまう方言にも気が付かず、まさにオバサンモード全開だ。
タオルと菜々美の着替えを小脇に抱えたまま、彼は顔を引き攣らせながら苦笑いしている。
「ハハ……元気でしたよ、お陰様で。チビで真っ黒で垢抜けなくて悪かったですね。なんで久しぶりに再会した吉岡先輩に悪口言われてんのか、俺、よく分かんないですけど。吉岡先輩こそ、どうしたんですか、その変わりっぷりは?」
「へっ!? 私、どっか変わった?」
言われて、思わず顔を撫で回してみる。
不敵な笑みを浮かべて、小坊主君は菜々美を見下ろし言った。
「そりゃ、あの頃に比べたら、めちゃくちゃ変わってますよ。あまりに劣化してるから、あなたが吉岡先輩だったなんて、言われるまで気が付きませんでした。どうしてこんなに老けこんじゃったんですか?」
「は、はい!? ふ、老けこんでるって……悪かったわね! 老けこんだのは年のせいよ! 流れた年月が女を変えるのよ!」
「それだけじゃないですよ。高校時代の吉岡先輩は、もっと清楚で可憐な少女だったのに……なんか、急激にやさぐれちゃった感じですね。生活に苦労されてるんですか?」
「うっわ! そういう事言う!? あんた、先輩に向かって生意気なんじゃないの!?」
大人しくて無口だった小坊主君の口から、信じられない暴言が飛び出して、菜々美は真っ赤になってキーキー喚いた。
そんな菜々美を横目で睨むと、彼はフンと鼻を鳴らして続ける。
「生意気で申し訳ありませんね。せっかく再会したのに、俺のこと見ても覚えてないし、思い出したら小坊主だし……大体、俺が丸坊主だったのは、野球部だったからです。ハゲてた訳じゃありません。合唱部だって、吉岡先輩にお願いされたから、頑張ってピアノ伴奏したんですよ」
「あ、あたしにお願いされたから?」
「そうですよ! 僕はあなたが……」
そこまで言うと、蓮は急に不貞腐れた顔を逸らして、手に持っていたタオルと着替えを菜々美にグイっと押し付けた。
真っ白いタオルは柔らかくて、押し付けられた菜々美の鼻にフワリとローズマリーの香りが掛かる。
自分よりずっと大きくなった小坊主君を見上げて、菜々美はオズオズと言った。
「あ、あの……小坊主君?」
「何でもないです。 それより、そんなに濡れてたら風邪引きますから、シャワーでも浴びて着替えて下さい」
「で、でも、私、今日は仕事で来たのに、シャワーまで借りたら小坊主君に悪いわ」
端正な顔を引き攣らせて、彼は菜々美を見下ろした。
ヘーゼルの瞳が怒りで充血している。
彼が本気でムカついてるのは一目瞭然だ。
「できれば、その呼び方、もう止めてもらえませんか? 俺の本名は滝沢蓮と言います。ご存知なかったかもしれませんが!」
そう言い捨てると、彼はくるりと背を向け、さっさと歩き出した。