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そんな訳で、早速、滅多に乗らない軽自動車に乗り込み、慣れない運転で件の『愛知と長野の県境の山岳地帯』を一人目指した菜々美だったのだが、まさか、これほどの山の中だとは想定外だった。
雨が降り始めたこの原生林の森で、菜々美が縋れるものは、もはや暗闇の中に微かに光るオレンジ色の灯火だけだ。
強くなってくる風とともに、雨脚はどんどん強くなり、ゴロゴロ……という雷の音も大きくなっている。
光を目指して進む菜々美の足元は、草がなぎ倒されていて、ちょっとした小道になっていた。
恐らく、カフェに行く客が通る度に草が踏み倒されてできた自然の道だろう。
だが、都会のアスファルトでは大活躍のパンプスは濡れた草に絡まれ、思うように歩けない。
よろめきながらも、まっすぐに森の中に続いていく小道を進んでいくと、やがて、その先に白い洋館が見えた。
菜々美の胸がドキンと高鳴る。
「あ、あれが噂の白い洋館!?」
暗い森の中に、ようやく洋館はその全貌を現した。
雨の中に浮かび上がるその洋館は、ヨーロッパの古城のようだ。
吸血鬼が巣食っていても、不思議はない。
洋館をぐるりと囲むように、白い木製の柵が立っており、蔓性のオールドローズが巻き付いている。
おっかなびっくり柵を乗り越えて、庭の中まで入ると、オレンジ色の明かりの灯った出窓から、ピアノの音色が聞こえてきた。
美しい旋律だが、誰もが知ってるショパンやモーツァルトのようなクラシックの名曲ではない。
なのに、どこかで聞いた覚えがあるような、懐かしくも優しい曲だった。
だが、それに聞き惚れている余裕などない。
ハタと我に返った菜々美は、エントランスまで続く石畳を歩いてゆき、重厚な木製の玄関扉をドンドン叩きながら呼び鈴を鳴らした。
「すいませーん! こちらがカフェだって聞いて名古屋からわざわざやって来た者ですけど、ごめんくださ~い! どなたかいらっしゃいませんか~?」
恩着せがましいニュアンスで怒鳴りながら、菜々美はドンドンとドアを叩き続ける。
雨に濡れて、菜々美のスーツはずっしりと重量を増し、体にへばり付いている。
ここは何としても中に入れてもらって、雨宿りしたいところだ。
菜々美の必死の思いが伝わったのか、恩着せがましい怒鳴り声が聞こえたのか、家の中から響いていたピアノの音が突然、ピタリと止んだ。
そして、少しの静寂の後、ドアの内側でガチャガチャと鍵を外す音が聞こえてくる。
やがて、ギイイ…と重そうなドアが内側から開き、隙間から若い男性の顔が半分だけ現れた。
眉を潜めたその顔は、突然の訪問客に不信感いっぱいだ。
男性は菜々美の頭から爪先まで観察した後、低い声で言った。
「……どちら様でしょうか?」
その瞬間、既に枯れている筈の菜々美の胸がキュン!と鳴った。
ドアの隙間から見ただけでも、かなりのイケっぷりだ。
噂通りの白い肌に、栗色の柔らかそうな髪、そして不審な視線を送ってくるその瞳はカラーコンタクトをつけているような淡いヘーゼル。
ネットの口コミ通り、確かに日本人離れした風貌だ。
しばしの間、ポカンと見惚れていた菜々美だったが、すぐに社会人としての理性を取り戻した。
いつもの営業モードに切り替えると、スーツの胸ポケットから名刺入れを出して、ドアの隙間に一枚差し出すと早口でまくし立てる。
「突然、訪問させて頂きまして申し訳ありません。私、名古屋の広告代理店・尾張アドサービスの営業をしております、吉岡菜々美と申します。実は、こちらのカフェの営業促進に大きなお力となる、名古屋発のタウン誌『ナゴニャン』への広告掲載について、是非ご検討して頂きたくお話に参りました」
男性は、菜々美が差し出した名刺の角を親指と人差し指で摘んで受け取ると、眉を潜めて再び観察を始めた。
名刺と菜々美の顔を交互に見てから、迷惑そうな声でボソボソを返事をする。
「あの……、最近、ここがカフェだって聞いたって人が時々やって来るんですけど……、ここはカフェじゃないんです」
「またまた、ご謙遜を。ピアノの生演奏に渋谷のパティシエレベルのケーキセットがネットの口コミで評判なんですよ。知名度を上げるなら、やっぱり広告は不可欠です。弊社のタウン誌『ナゴニャン』に具体的な地図や、交通アクセスなんかを掲載するだけでも、客足が増えるのは間違いないですよ!」
菜々美の営業トークに、イケメンは困惑したように眉をひそめた。
「……なんか勘違いされてるみたいですけど、ピアノは僕が趣味で弾いてるだけなんです。ついでにケーキも趣味で作ってるだけなんで、営利目的に出してる訳ではありません。前に、山で迷って来た人がここまでやってきて困ってたので、たまたまその時作ったケーキを出して休んでもらったら、勘違いされちゃったんです。ここは飲食店じゃありません。大体、お金取ってませんから」
「え? でも、ケーキセット5,000円くらいが妥当なお支払いだって、ネットの口コミにありましたよ?」
「僕がお客さんに請求した訳ではないです。休んでいった人が、申し訳ないからって、勝手にお金を置いていったんですよ。僕は別に、お金が欲しくて道に迷った人を助けてる訳じゃないですから」
半ばキレ気味にイケメンはそう言うと、すーっと顔を引っ込めてドアを閉めようとした。
もう話すことはないと言わんばかりだ。
菜々美はギョッとして、閉まりかかったドアの縁に手を掛けて、それを阻止した。
「ま、待って下さい! せめて、お話だけでも聞いてもらえませんか?」
「何の話です? ここが飲食店じゃないって分かったでしょう? 僕には広告出す理由がないんですから、あなたもここに用事はもうないと思いますが?」
「ち、違います。わ、私、実は……」
その時、ピカッと雷光が瞬き、辺りが一瞬、昼間のように明るくなった。
続いて、ガラガラ……という腹の底から響くような雷鳴が響き渡り、雨脚は一層強くなった。
「すいません! 私、車の運転あまり慣れてなくて、こんな嵐の山道走れません! せ、せめて、雷が収まるまで雨宿りさせてもらえませんか?」
菜々美の必死の形相に、彼は少し表情を和らげると、ドアの後ろに引っ込んだ。
やがて、ガチャリとチェーンロックが外される音がして、内側からドアがゆっくり開かれる。
思ったより長身の男性がドアを支えながらそこに立っていた。
「勧誘はお断りですが、お客様なら歓迎します。何もないところですが、ゆっくりしていって下さい」