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『紅茶王子のピアノカフェに関するトピ』
『愛知県と長野県の県境にある県道◯◯号線を山頂に向かって走り、長野方面に下り始めた頃、原生林の森の中にオレンジ色の明かりがついた白い洋館があった。
不思議に思って車を停め、その洋館に向かって森の中を歩いていくと、その窓からピアノの音が聞こえてくる。
洋館のドアを叩くと、中から出て来たのは滅多にお目に掛かれないレベルの超絶イケメン。
道に迷ったトピ主を、イケメンは洋館に招き入れ、未だかつて味わったことのないハーブ入りの紅茶と、ラズベリージャムを挟んだミルフィーユでもてなしてくれた。
その美味さはまさに絶品! 愛知県じゃ食べたことない神レベル。
イケメンの正体は実はパティシエらしい』
『トピを見て興味を持った私が白い洋館を訪れると、やはりオレンジ色の明かりが漏れる窓からピアノの音が響いてくる。
ドアを叩くと噂通りのイケメンが現れ、道に迷ったと言ったら紅茶とケーキでもたなしてくれた。
ちなみにその日のメニューは、柚子の香りの上品な紅茶と濃厚なガトーショコラ。
その日はなんと、イケメンがピアノの生演奏を披露してくれるというサプライズが!
しかも、ガチ上手い! 音大とか普通に卒業してそうなレベル。
イケメンの正体はプロのピアニストか?』
『紅茶王子のビジュアルについて様々な噂があるが、一貫しているのは痩せ型長身、陶磁器のような白い肌、日本人離れした彫りの深い顔立ちに栗色の髪。国籍も不明。
イケメンの正体は、実はお忍びで来日してる外人アーティストかも?』
『気になるお値段の方は、「おまかせ」だとの事。客の自己判断で妥当だと思う額を払うというシステム。イケメン店長は商売っ気は全くなさそうだが、ピアノの生演奏とケーキ付きティーセットと考えれば5000円くらいは妥当』
◇◇
「なんだか実在するかどうかも怪しいわね~、この紅茶王子。大体、場所だってあやふやだし。都市伝説じゃないの、こんなの」
新規顧客の契約を取り付けようと、千春からもらった『紅茶王子のピアノカフェ』なる情報をネットの大型掲示板で検索してみた菜々美は、その情報の多さと信憑性の薄さに溜息をついた。
ネットの口コミ情報を頼りに営業をかけるなんて、雲を掴むような話だ。
コンピューターの前の座椅子で胡座をかいた姿勢で、ビールをグビッと煽り、口元の泡をグイと拭った。
こんな姿を見られる彼氏もいないのは、寧ろ救いだろう。
風呂上りにタンクトップとボクサーパンツといういでたちのまま、ビール片手に咥えタバコの菜々美は、30歳にして、もはやオッサンの風格だ。
一人暮らしの2LDKのマンションでは、誰に気兼ねする事なく、咥えタバコでネットを模索できる。
この気儘な独身生活が更に婚期を遠ざけているのは、菜々美自身も自覚があった。
「でも、優雅な生活してるわよね~。紅茶とケーキとピアノだってさ~。何のファンタジーだっつーの。それに比べて、こっちは30歳でこんなに枯れちゃってんのにさ。いいご身分よね。てか、紅茶セットが5000円ってどんなんよ! お値段はお任せって、高級温泉旅館か!」
『紅茶王子』についてのスレッドに一人でツッコミを入れながら、菜々美はパソコンの液晶画面にタバコの煙を吐きつけた。
どこまでが事実なのか信憑性は定かではないが、愛知と長野の県境の山中に謎のイケメンが経営するピアノカフェが実在しているのは間違いなさそうだ。
これだけ評判になっていれば、競合他社の営業が我先にと押し掛ける可能性もある。
当の紅茶王子も、カフェを開いたものの宣伝のノウハウを知らなくて、今まで広告を出せなかったのかもしれない。
経営素人なら、最初に押しかけた営業と即日契約してしまう可能性が高い。
行くなら、なるべく早い方がいい。
菜々美はケータイのカレンダーを見て、スケジュールの確認をした。
幸い、明日は先週の日曜出勤の代休を取ってある。
マンションのベランダから空を見ると、ようやく秋らしくなってきた夜風がヒンヤリと顔にかかる。
ベランダに立つ菜々美の影ができるほどの月明かりだ。
「紅茶王子がピアニストね……」
丸い月を眺めながら、菜々美の脳裏に昔の思い出がよぎった。
高校時代、合唱部の部長を務めていた菜々美は、それなりに音楽を理解しているつもりだ。
がむしゃらに部員をまとめ、先頭に立って練習に励み、満を持してエントリーした合唱コンクールでは県大会5位という微妙な記録を残して終わった高校時代。
あの頃は若かった。
大学を卒業してから入社した広告代理店で一端の営業職に就いたものの、これが自分がしたかった事なのかと問われれば、それは疑問だ。
菜々美の担当している『ナゴニャン』は、ショップやレストランの広告を掲載するタウン情報誌だったが、ほとんどの店が既にどこかの広告代理店と契約済みで、菜々美の仕事の半分は、そんな他社と契約済みの店に電話で特攻をかけて、価格交渉で横取りするようなものだった。
持ち前の根性と負けず嫌いな性格で、ここまで続けてしまった仕事だ。
都会の小さなマンションでの一人暮らしも気軽で楽しかったのは若い時だけで、この歳になると時々、どうしようもない寂寥感に苛まれる。
これも30歳という年齢のせいなのか……。
「まっ、広告の契約取ってくるついでに、イケメン拝みながら、紅茶で癒やされてくるか!」
さっぱりした性格が売りの菜々美は、答えの出ない問題をウジウジ考えるのは好きではなかった。
吸いかけのタバコを勢い良く灰皿に突っ込んで、菜々美は月に向かって両腕を伸ばすと、何かを吹っ切るように大きく伸びをした。