27
品のある応接室に通されて、ワインレッドのソファに腰を下ろす。
蓮はトレイに輪切りのレモンが浮いたピッチャーとガラスのグラスを載せてローテーブルに置いた。
「もうすぐ終わりますから、ここで待っててくださいね。俺、逃げませんから」
「……分かったわよ」
テュッシュでグスグスと鼻をかみながら菜々美は大人しく頷いた。
やがて、さっきの続きの『翼をください』が流れてきて、菜々美もその旋律に耳を傾ける。
楽器の経験はないが、元来音楽好きな菜々美は人の演奏を楽しめる。
拙い演奏ではあるものの、少女が奏でる旋律は真摯にピアノに打ち込む気持ちが込められているのを感じ心地良かった。
やがて、時間通りにピアノの音はピタっと止み、軽い足音が廊下をパタパタ通っていくと玄関のドアがギイイと開く音がした。
レッスンが終わった少女が出て行ったのだろう。
同時に応接室のドアが開いて、気まずそうな顔で蓮が現れた。
「……お待たせしました。先輩、こんな所まで来てもらってすいません」
「いいの。これが蓮の返事なら、あたしはもう追いかけたりしないから。でも、ちゃんと返事は聞かせて欲しかったから……」
我慢しきれずに菜々美はうわああ!と声を上げて泣き出した。
その隣に蓮は腰掛けると、黙って白いバスタオルを渡す。
「………」
「……どうぞ。これで涙を拭いてください」
「デカいのよ、タオルが! あんた、どんだけ私を泣かすつもりなの!?」
奪い取るようにバスタオルと掴むと、菜々美は顔を覆っておいおいと泣き続けた。
その背中にそっと手を置いて、蓮はぽつぽつと話し出す。
「結婚の事は考えてない訳じゃないんです。寧ろ、ずっと考えてました。俺達が初めて一緒にセッションしたあの夜から、このまま俺は先輩と一緒に生きてくんだって思ってましたから」
「じゃあ、何で『このままでもいい』なんて言ったのよ?」
「準備がまだ途中だからです。俺としては全て整ってから満を持してプロポーズしたかったので。結婚の時期も決めてないのに先にプロポーズするのっておかしいでしょ?」
「おかしくないわよ!女はその方が安心するじゃない!」
「予約済みみたいな状態で待たせるのってずるい気がするんです。本当に結婚する時にプロポーズして、その後はすぐに入籍する方が男らしくないですか?」
いつもは白い顔を赤くして、蓮は視線を落とした。
らしくもなく照れているらしい。
家事以外の事は投げ槍で成り行き任せの蓮が、意外にも昔気質のポリシーを持っていて、菜々美は少し驚いた。
「……あんたの言い分は分かったわ。でも、どうして急に出て行ったの?」
「先輩には黙ってたんですが、俺、毎週一度はここに帰って来てたんですよ。昨日の夜はやる事が多かったから泊まってしまったけど、今日帰れなかったら電話はするつもりでした」
「はあ!? 毎週ここに帰ってた!?」
思わずバスタオルから顔を上げて、菜々美は声をひっくり返した。
そんな事全く気が付かなかったし、何故、言ってくれなかったんだろう。
大体、名古屋からここまで車で2時間はかかるのに、どうやって?
「はい。俺、実は車こっちに持ってきて駐車場も借りてるんで。いつでも帰れるし、戻れるんですよ。先輩が8時に家出てから出掛けても10時にはここに来れますからね」
「車持ってたの!? な、なんでそんな面倒な事してたのよ!?」
返事の代わりに、蓮は立ち上がって手を差し出した。
「見せたいものが色々あるんです。一緒に来てもらえませんか?」
蓮について広い洋館の中に歩みを進めていく。
ペンションとして建てられた洋館の内部は中央の廊下を挟んで左右に4つずつ個室が並んでいる。
廊下の突き当りの壁のドアを開いて、蓮は菜々美を中に招き入れた。
ドアは防音用のクッション性の高い素材で分厚く造られており、閉まると部屋は完全に密室になった。
10畳ほどの正方形の部屋にはドラムやキーボード、アンプ等、必要最低限のスタジオ器具は揃っている。
「これ……」
「音楽スタジオです。ドアムやアンプやピアノも設置してますので、宿泊される方は何時間でもご使用できます。一応、防音ですけど、音漏れても関係ないんですけどね。この辺りに人全く住んでないんで」
蓮は自慢そうに笑った。
「で、一階なんですが……グランドピアノがある玄関ホールはセレモニーイベントができるように、リフォームしました」
説明しながら、蓮は菜々美の手を引いて一階に連れていく。
ピアノが中央に陣取ったホールの壁は解放感のあるガラス窓に変えられ、大きく開くとホールと外に続くテラスが繋がり半野外ホールと変貌した。
「ここでピアノのコンサートするならお客さんは無限に呼べますよ。なんせ、外は山まで何にもないし、誰も住んでませんからね」
「あ、なるほど……」
「これをメインにペンションの宿泊客を呼べればいいかなって。音楽活動をする方の合宿用ペンションとして使ってもらってもいいですしね」
蓮は腕を組んで、珍しく熱の籠った口調で語り出した。
「先輩がここに初めて来た時もカフェやったらいいって言ってくれましたよね。俺も興味はあったけど、カフェはこんな山の中じゃ採算が取れないんです。ペンションも同様で、近くにスキー場とか、テーマパークとか付加価値がないと、わざわざ泊まる為だけに客は来ません。音楽活動をしたいけど場所がない人って以外に多いのをアルバイトで見てきたので、ここをそういう方達に使ってもらえたらいいなって思ったんです。俺も一緒に楽しめますしね」
「え、じゃあ、ここに毎週帰ってきてたのって……」
2年前に付き合い始めてから構想を練っていて、準備をしていたこの事業計画。
これはまさに……。
「蓮、もしかしたら、私とここで生活する為に準備を進めてたってこと?」
「まあ、そういう事になりますね。でも、準備に時間が掛かる事は分かっていたので、ある程度は形にしてから報告して……その後、プロポーズしようとは思ってたんですけど……一応」
最後の方は歯切れ悪く、髪をしきりに掻きながら蓮はぽつぽつと返事をする。
菜々美はほっとして、大きく溜息をついた。
「良かった……別れようと思っていなくなった訳じゃなかったんだ……」
「いなくなったつもりはなかったんですが、でも、先輩こそ本当に俺でいいんですか?」
「……今更、何言ってんのよ?もう2年も一緒にいたら、大抵の事は我慢できるわ」
「でも、俺はやっぱり社会には適応しにくいし、メンタル弱いし、パニック障害も治ってませんから、先輩は多分、苦労すると思いますよ」
申し訳なさそうに蓮は視線を落として、弱気な顔で笑った。
王子様みたいな整った顔の裏には、黙って吞み込んで来た負の感情が隠されている。
この2年間でどのくらい見せてくれたのか分からないけど、彼の優しさと弱さは十分に理解しているつもりだった。
「……そんな事、分かってるわよ。でも、蓮が社会に適応できないなら、営業職一筋の私がフォローできるでしょ?結婚なんて適材適所よ」
「はは……確かに」
菜々美は俯いた蓮の頬にそっと触れた。
と、その時。
大きく開いたテラスの窓ガラスの向こうからクスクス……と笑う声が聞こえて、菜々美はぎょっとして振り返った。
「あ、ほら、気がついちゃったじゃない!」
「キスするかと思ったのにー」
ワイワイと好き勝手な事を喋りまくっているのは、さっきの日本人形を含めた5,6人の女の子達だった。




