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紅茶王子のピアノカフェ  作者: 南 晶
紅茶王子の帰還
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◇◇◇


 菜々美はアップダウンの激しい山道を馬力の弱い軽自動車でノロノロと走行していく。

 目指すは蓮が住んでいたあの洋館だったが、実を言えば彼がそこにいるという確信もなかった。


「結婚しなければ同棲を解消する」


 結婚を焦るあまりについ口から出てしまった言葉だった。

 2年も続けた同棲生活を解消したら、自分はどうやって生活していったらいいのかもう分からない。

 何しろ、家事全般は蓮が全て担っていたのだ。

 この2年間の同棲中に、菜々美の僅かばかりの女子力は完全に消滅している。

 蓮がいなくなったらどこに物が置いてあるのかも分からない痴呆老人のようになってしまうだろう。

 そんなリスクがある事もすっかり忘れて、菜々美は調子に乗って最大のタブーを犯してしまった。


 あの翌日、蓮は菜々美の仕事中にマンションから消えた。

 蓮の私物だけが綺麗に撤去されているのを見て、菜々美はそれが蓮の答えだと悟ったのだ。

 つまり、「結婚しないから同棲は解消する」という暗黙のメッセージに他ならない。


「だからって、黙って失踪するとか信じらんないんだけど!帰って来るかと思って待ってたのに!もうこうなったらあたしが連れ帰る!」


 彼がいなくなってから、結婚はもうどうでもよくなっていた。

 蓮と結婚したいという気持ちは確かにある。

 だが、一緒にいる為に結婚する筈が、その為に大事な人を失ってしまっては本末転倒だ。

 蓮が自分と別れたいのなら、それは構わない。

 だけど、こんな風に終わりたくはなかった。


 やがて、ナビのルート案内は「目的地周辺」を伝え、そのまま途切れた。

 前回来た時も歩いて行った山の中の歩道が見えて、菜々美は車を山の中に停車させる。

 見覚えのある洋館が見えて来た時、菜々美はそこに違和感を感じた。


「あれ? 庭が……」


 洋館を取り囲むように造られた庭は、初めて来た時は手入れされており、蓮が料理に利用する家庭菜園には季節ごとに収穫できる野菜が栽培されていた。

 あの時から2年も経っているというのに、今見る庭はあの頃と変わらず手入れされている。

 特に目を引いたのは一面に植えられているじゃがいもだ。

 小学校の時に学校菜園で植えたことがあるので覚えているが、茶色になった葉が枯れかけていて、まさに収穫期を迎えている。

 じゃがいもが収穫できるまでには4カ月くらいの筈。

 と、いうことは4カ月前から誰かがここで庭の手入れをしていた事になる。


 その時、洋館の方からピアノの音が聞こえて来た。

 だが、その音はまだ幼く、プロ級の蓮の旋律とはかけ離れた音色で、しかもどこかで聞いた曲だ。


「これ……翼をください?」


 合唱コンクール用にアレンジされた小学生用バージョンだが、間違いなく『翼をください』だ。

 菜々美にとっては思い出深い曲なのだが、弾いているのが蓮ではないことは明らかなので、余計ソワソワする。

 イングリッシュガーデン風のエントランスを駆け抜けて、重厚なドアの前に立つ。

 嵐の中、初めてここに迷い込んだ時の事を思い出した。

 あの時はまだ蓮が後輩だったって気が付かなくって、洋館に巣くっている吸血鬼みたいだって思ったんだっけ。

 ドアのチャイムを押すと、流れていたピアノの音がピタっと止んだ。

 人の気配は確かにある。

 やがて、中から軽い足音がパタパタと聞こえてきて、重いドアが少し開いた。


「……どちら様ですか?」


 出て来たのは蓮ではなく、小学校高学年くらいの女の子だ。

 肩までのおかっぱ頭で色白の丸い顔は日本人形を連想させる。

 想定外の人物が現れて、菜々美は困惑した。


「あ、あの、私は菜々美っていうんだけど、ここに滝沢蓮って男の人住んでなかった?」

「あ、滝沢先生ならいますよ。セールスだったら面倒臭いから追い返せって言われてるんですけど、セールスじゃないですか?」

「……セールスじゃありません。そうお伝え頂ける?」


 ニッコリと営業用スマイルで答えると、女の子は、はあい!と元気よく返事をして家の中に戻っていった。

 暫く間が開いた後、今度はドタドタと慌てたような足音が響いてきて、ドアが勢いよく開かれる。

 そこに、チェックのネルシャツを無造作に羽織った蓮が現れた。

 栗色の髪を無造作に掻きあげ、色素の薄い瞳を大きく見開いて驚愕の表情を浮かべている。


「先輩……!どうしてここに!?」

「……どうしてですって? あんた、どこまで、ずれてんのよ!?この唐変木が!」


 シャツの両襟をぐいっと掴んで引き寄せ、ガクガク揺さぶる。

 どうしてここに、はこちらの台詞だ。

 連絡が取れなくなった蓮がいそうな場所を探して、確信もないまま遥々ここまで走って来たのだ。

 蓮は揺さぶられながらも何とか菜々美の腕を掴んで落ち着かせようとする。


「いや、だって、もしかして俺の事追いかけてきてくれたんですか?」

「当たり前だっつーの!あのまま別れたら一生トラウマだがね!急に結婚とか言い出した私も悪いけど、返事もしないで失踪するなんて最低だわ!あんた、それでも男なの!?」

「いや、失踪したつもりはなくて、少し準備ができたら名古屋に戻るつもりだったんです。てか、まだ2日目ですよね?」

「まだじゃないわ!もう2日も経ってんのよ!心配するに決まってるでしょ!連絡くらいしなさいよ!」

「今夜帰れなかったらラインしようと思ってました、本当です!」

「それがズレてんのよ!言っとくけど、あんたのケータイ繋がらなかったからね!」


 えっ?と言って、蓮はデニムパンツのポケットから携帯電話を取り出した。


「あ、本当だ。電源切れてる」

「……もう開いた口が塞がんないわ。とにかく、あの流れであんたがいなくなって、連絡取れなかったら、私がどんな気持ちになるか分かってんの……?」


 蓮がいなくなったこの二日間、菜々美は一睡もできなかったのだ。

 仕事も手に付かず、昨日は早退を申し出て一日中ぼんやりして過ごした。

 それが、本人は飄々とした顔でのんびり田舎生活に戻ってピアノを楽しんでいるとは……!

 悔しくて、情けなくて、涙が出てくる。

 本格的に泣き出した菜々美の肩を、蓮はオロオロしながらそっと抱いた。


「すいませんでした。俺の大失態です。でも、言い訳聞いてもらえるなら少しだけ待ってくれませんか?」

「なんでよ!?言いたい事あったら今ここで言えばいいでしょうが!」

「いや、その、今、ピアノのレッスン中だったんで……」


 言われて気が付くと、さっきの日本人形みたいな女の子が、興味津々といった顔で廊下から二人を凝視している。

 

「……ピアノのレッスン?」

「うーん、まだ準備中だったんで秘密にしてたんですけど、これも今から話します。でも、ちょっとだけ応接間で待っててください。あの子のレッスンがあと30分で終わりますから」


 嗚咽を繰り返す菜々美を、蓮はオロオロしながら家に招き入れた。


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