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◇◇◇
ローズマリーの香が菜々美の顔をくすぐった。
ポカポカした陽だまりの花畑の中にいるみたいだ。
すごく気分がいいのに、体が重くて動けない。
雲の上にいるような感覚の中で、柔らかい低い声が呼んでいる。
「……先輩、大丈夫ですか?」
重い瞼を開くと、見覚えのある天井が見えた。
カーテンから零れる朝日が幾何学模様の影を作って揺らしている。
「……ここは?」
「自分の部屋ですよ。何か飲みますか?」
まだボーっとした頭で周りを見回すと、確かに自分の部屋だった。
出掛けた時の服装のまま、菜々美は自分のベッドに足を投げ出し仰向けにひっくり返っていた。
蓮が少し遠慮するようにベッドの端の方で腰かけている。
ローズマリーの香りがする熱いおしぼりを菜々美に渡しながら、蓮は少し疲れた顔で笑った。
「昨日はお疲れ様でした。取り合えず、これで顔でも拭いて下さい」
「……あれ? なんかすごい良い夢見てた気がするんだけど」
さっきまで蓮と一緒にライトを浴びて歌ってたんだ。
歌い終わった時の喝采、歌いきった充実感、その後、あの場にいた人達と一緒に感じた一体感。
そのままの勢いで皆で踊りまくった奇跡の夜……。
「あれ、全部夢だったのかあ……」
「そんな訳ないでしょ。先輩、ノリノリで踊って、すごい勢いで飲んで、その場で寝ちゃって動かなくなったから、俺がタクシーで連れて帰ってきたんですよ」
いつもの嫌味ったらしい口調で報告してくる割りには、心なしか弾んだ声で楽しそうな顔をしている。
そっかあ。
良かった、夢じゃなくって。
蓮も皆と一緒に音楽を楽しんだんだね。
菜々美は夢でなかったことにほっとして、おしぼりを顔に当てた。
柔らかい湯気の中に香るローズマリーがヒートアップした心を穏やかに冷ましてくれるようだ。
「蓮のピアノすごいかっこ良かったよ。あんなに生き生きしてるの初めて見たかも」
「珍しいですね。先輩が俺のこと手放しで褒めてくれるなんて」
「なんでよ、いつも褒めてるじゃん」
「そうでしたっけ?あまり感じたことはなかったけど、まあ、いいや。俺、そちらに行ってもいいですか?」
「……は?」
最後のセリフに菜々美はギョッとして、おしぼりの間から蓮を覗き見た。
ベッドの端で何かを訴えたい子犬のような表情で、蓮はじっとこちらを見ている。
その場から動かないのは、「おあずけ」されたように、菜々美の返事を待っているのだろう。
栗色の髪とヘーゼルの瞳が朝日に照らされてキラキラと輝いていて、まるで映画に出てきたエルフの一族のようだ。
いつになく真剣な表情で視線を送って来る蓮に、鼓動が早くなるのを必死で抑え、「……どうぞ」と不愛想な返事をする。
まずい。
これでは逆に変な緊張感を与えてしまうかも。
そう思う間もなく、待っていたかのように蓮は菜々美の隣にゴロンと寝そべった。
狭いシングルベッドの上で二人で川の字のなって横たわる……。
どこかの歌で聞いたような恋人みたいな状況に、菜々美の方が緊張を隠せない。
横になったまま、蓮は菜々美に顔を近付け、頬杖をついて笑った。
「大丈夫ですよ。いきなり襲ったりしませんから」
「じゃ、なんなのよ、急に」
「……お礼言いたくって」
頬杖をついたまま、蓮は照れ臭いのか伏し目がちに言った。
「昨日は本当に楽しかったです。今までもお世話になってきたけど、改めてお礼言わなくちゃって思って。俺のこと色々心配してくれてありがとうございます」
「え、やだ、何よ、突然」
「実は先輩が潰れた後、あの店長さんに改めてバイトのお話頂いて、俺、やってみることにしました」
「ええっ!本当に?」
「先輩のお世話ができるように最初は夜の9時までを限度にホールと厨房のお手伝いから始めようということになりました。週末はピアノを弾くかもしれませんが、基本的にはお店の業務を勉強させてもらうつもりです」
「すごいじゃない! 今までヒモ状態だった男が急に普通に喋ってる!」
あ、また思ったこと口に出しちゃった!
と、思った時には既に遅し。
蓮のキラキラした顔が失望に変わった。
「……今までヒモ状態で悪かったですね。俺ってそんなに普通じゃなかったですか」
「いや!そんなことないです!私の失言でした!気を悪くしないで続けて!」
横目で菜々美を睨みながら、はあ、と溜息をつく。
「まあ、自覚はありますけどね。取り合えず、来週から行くことにしましたから、先輩が帰った時にいないかもしれません」
「私のことなんて心配しないで。あんたが来る前まではずっと一人で適当にやってきたんだから。蓮がいなくっても大丈夫よ」
「……本当ですか?俺がいなくってもいいですか?」
「……」
上目使いに熱い視線を送ってくる。
蓮は答えを引き出そうとしているんだ。
ここでふざけて逃げちゃダメな気がする。
この人をこのまま手放したくなかったら……。
菜々美は視線の強さに負けないように真っ直ぐ見つめ返した。
「……本当は嫌。蓮がいなくなるなんてもう無理かも。蓮に会ってから今までずっと楽しかった。蓮が作ってくれたもの皆大好きだった。カルボナーラもコーンポタージュも梅酒もリンゴのコンポートもマーマレードも皆大好き!」
「食べ物ばっかりじゃないですか」
蓮は思わず吹き出した。
でも、菜々美にとって料理は蓮を形成する大切なコンテンツなのだ。
「それだけじゃないよ。食べ物はもちろん、蓮がしてくれたことも全部嬉しかった。ラベンダーの香油でマッサージしてくれたことや、スーツにいつもアイロンかけて用意してくれたこと。私の為にピアノ弾いてくれたこと……」
昨夜の蓮とのコラボがフラッシュバックのように鮮明に脳裏に蘇る。
大した歌唱力もない上に、ブランクがあって本当は声なんか出なかった。
蓮の安定した演奏が緊張した菜々美の心を落ち着かせてくれて、歌う事だけに集中できたのだ。
ソロパートになると、シンプルな小学校の課題曲を聞いたことないアレンジで感動的に仕上げてくれてオーディエンスを充分に満足させてくれた。
主役になれるビジュアルとスペックを隠して、いつも菜々美を陰で支えてくれた蓮。
高校の時もピアノの影に隠れて、菜々美や合唱部員達を最前列で輝かせてくれてたんだ。
私もちゃんと言わなくちゃ。
菜々美も腹を括った。
「私も蓮に感謝してる。いつも影で支えてくれてありがとう。蓮がいないと私、もう駄目なの。だから、働き始めても、ここに一緒にいて欲しい」
蓮は嬉しそうに柔らかい微笑みを浮かべた。
「俺もです。一緒にいて先輩を支える為に働こうと決めました。で、それに伴って、言いたいことがありまして……」
蓮は突然、ベッドの上で正座をして背筋を伸ばした。
つられた菜々美も慌てて正座で改まる。
狭いベッドの上で二人は正座をしたまま武士のように対峙した。
すうっと息を吸ってから、蓮は最高級の真面目な顔で言った。
「先輩、高校の頃から好きでした!俺と正式にお付き合いしてください!」
栗色の髪のエルフの告白は、思った以上に高校球児だった頃の蓮のままだった。
今までの思い出が一気に溢れ出し、菜々美の胸がいっぱいになった。
思わず蓮の首に腕を回して抱きつき、耳元で囁く。
「はい、よろしくお願いします」
蓮は菜々美を軽く横抱きにし、正面から向かい合う。
どちらともなく自然と笑いが込み上げてきた。
「なんか変な感じね」
「俺はこれでも真剣ですけど」
ちょっとだけ真面目な顔に戻って、蓮は初めての優しいキスをした。




