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最後の奏者は着物姿の女性だった。
三味線でも持ち出すかと思いきや、彼女が持参したのはアコーディオンで、珍しい楽器の登場に会場が沸いた。
その頃には宴もたけなわ、菜々美は素晴らしい演奏に興奮して立ち上がっては大きな拍手を送った。
最初は引き気味だった蓮も、いつの間にかリラックスした表情で、音楽を楽しんでいる。
そこにオレンジ色のスカートをひらめかせて、澄香が現れた。
「二人共、どう? 音楽楽しんでる?」
蓮の隣にふわりと腰掛け、澄香は手に持っていたグラスのワインを一気に空けた。
酒の匂いでも酔ってしまう蓮は警戒するように体を反らす。
「はい! 今夜は最高です。すごい奏者さんばっかりで今日ここに来れたのはラッキーでした。仕事じゃなくて良かった!」
既にアルコールが入っている菜々美もテンション高めに返事をする。
「でしょう? このフリーエントリーライブも年々常連が増えて、奏者のレベルも上がってきてるの。聞きに来るお客さんも増えてきて、週末はレストランより大盛況よ。入場料取ったらレストラン閉めてもいいくらいだわ」
澄香はあっはっはと豪快に笑って冗談を飛ばす。
「でも、そうはしないんですね。ライブハウスの方が儲かるのにどうしてお金取らないんですか?」
二人の女性の勢いに引きながらも、蓮は疑問を投げ掛ける。
「よくぞ聞いてくれました! お金取らないのはね、私なりの夢があるからなの」
澄香は大きな瞳をいっぱいに見開いて、蓮の手を握り締めると熱く語り出した。
「私はね、自分が歌と踊りと音楽が大好きだったから、このレストランを始めたの。自分がいつでも音楽に触れられる場所を作るためにね。この場所では音楽を愛する人が集まって、それを聞きたい人が集まって、ここに来れば誰でも音楽を楽しめるの。音楽好きであれば、テクニックは関係ないわ。でも、ここで金銭が関わってくれば、レベルの高い人は相応の報酬を請求するだろうし、度胸試ししたい初心者は敷居が高くて入れなくなってしまう。誰でも平等に楽しめるようにするには、このフリーエントリーシステムが一番いいと思ったのよ」
熱くポリシーを語る澄香の目はキラキラ輝いて、聞いていた菜々美もその心意気に胸が熱くなる。
「さすが澄香さん! 懐がでかい!」
「まあ、結局は好きでやってるだけなんだけどね。良かったら蓮君も飛び入り参加してみない?」
突然、話を振られて、蓮はぎょっとする。
澄香はピアノ曲の本を目の前に差し出した。
「今のアコーディオンの女性で今夜のメンバーは終わりなの。その後、飛び入り演奏してもいいのよ?」
「いや、僕はそういうのは……」
「いいじゃん、いいじゃん! あんたの数少ない特技なんだから、一発バーンと披露してやんなさいよ」
アルコールが入ってテンションが上がったままの菜々美は、蓮の背中をバンバン叩いて煽る。
迷惑そうな顔でパラパラと楽曲本をめくっていた蓮はふとその手を止めて菜々美を見つめた。
「いいですよ。ただし、先輩が一緒に歌ってくれるならね。俺がピアノで伴奏ってことならやります」
「は!? 私が歌う?」
悪戯っぽい目つきで蓮は反撃を始めた。
「そうですよ。仮にも元合唱部の部長でしょう? 音楽に対する思いは残ってるんじゃないですか?」
「うっ、それはそうだけど……」
「音楽を愛するものなら下手でもいいらしいですし、仮にも合唱部ならそれなりには歌えるんじゃないですか?」
「あんた、何年前の話してんのよ」
「まだそれほど昔の話じゃないでしょう? 先輩、当時はそれなりに歌ってましたよ。歌は数少ない先輩の特技なんですから、バーンと一発披露しておくべきですよ」
「ぐぬぬ……言わせておけば……」
見事にしっぺ返しを食らった菜々美はぐうの音もでない。
してやったりとドヤ顔で蓮は続ける。
「前にも言いましたけど、俺のピアノなんて大したことないです。でも、誰かの為になら弾いてもいい。それが先輩ならもう本望ですよ」
琥珀色の瞳を細めて、蓮は優しい笑みを浮かべた。
その微笑みに菜々美は一瞬クラリと眩暈を覚える。
だが、騙されてはいけない。
遠のきそうな意識を必死で繋ぎ止めそうと、菜々美はブルッと頭を振る。
「決まりね。じゃ、次に呼ぶから二人で選曲しておいてよ」
華やかな笑顔で半ば強引に話を纏めると、澄香は菜々美の肩をポンと叩いてひらりと席を離れて行った。
後に取り残された二人は楽譜を前に顔を見合わせる。
「ちょっと! 何でこういう展開になるのよ!?」
「いいじゃないですか。俺も久し振りに先輩の歌聞きたいですし」
「あんたね、簡単に言ってくれるけど、社会人になってからカラオケくらいしか行ってないのよ。もう声出ないわよ」
「それでもいいです。先輩が昔は上手かった事、俺は覚えてますから。先輩の声、好きでしたよ」
思わず赤面してしまうようなセリフが今夜はポンポン飛び出す。
これも音楽効果なのか。
やられっ放しの菜々美はとうとう観念した。
「あーもう! 負けたわよ。何歌ったらいいの?」
「ありがとうございます。じゃあ、俺、この曲歌って欲しいです」
いつの間にか「蓮が弾く曲」ではなく「菜々美が歌う曲」に変わっている。
だが、いつになく高揚している蓮を見るのは菜々美としても嬉しいことだった。
「知ってる曲にしてくれないと困るわよ」
「知ってますよ、絶対。先輩が合唱部だった頃に歌ってたの聞いたことがあります」
「私が歌ってた?」
蓮が得意そうに見せたのは合唱コンクールの定番『翼をください』だった。
「……これ、小学校の教科書に載ってたヤツじゃん。皆、ドン引きだよ」
「大丈夫ですよ。俺が感動的になるように伴奏でフォローしますから」
嬉しそうに楽譜を片手に持って立ち上がった。
白い顔が紅潮して、目が生き生きと輝いている。
そこに地下鉄で倒れて死にかけていた自信のない蓮の面影はない。
ああ、やっぱり蓮は音楽が好きなんだ。
蓮のそんな姿を見る事ができただけでも、今日ここに来た甲斐があった。
嬉しくて、菜々美の目頭が熱くなる。
だが、感傷に浸っている場合ではない。
成り行きとは言え、久し振りに人前で歌う事になった菜々美も緊張と興奮で胸が高鳴っている。
だけど昔、合唱部の仲間とステージに上がった時と同じ緊張感は懐かしくもあり、愉快なものでもあった。
「先輩、なんか楽しいですね。俺、漠然とだけど、ここで先輩と一緒にピアノ弾いたら、何かが変わるような気がしてるんです」
ちょっとだけミュージシャンの顔になった蓮が、自信を持った強い声で言った。
少しだけ男らしい蓮の横顔に、菜々美の胸がドキンと高鳴る。
「そうだね。私もそんな予感がするわ」
「では、今夜は音楽を楽しみましょうか」
蓮は王子様のような気品ある仕草で、お姫様をエスコートするかのように手を差し出した。




