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澄香が言った通り、夜10時を回る頃にはジャズと食事を楽しんだ客は姿を消し、代わりに一風変わった雰囲気の客層がぽつぽつと入って来た。
菜々美と蓮は店の隅の席を陣取り、次々と入店してくる顔ぶれを観察する。
大学生と思しきメガネの青年、着物姿の40代くらいの女性、革ジャンを羽織ったロックンロールテイストの中年男性4人組、OL風スーツ姿の若い女性二人組……。
皆、各々片手に楽器と思しきケースを抱えている。
お互いに顔見知りなのか、彼等が席に着いた途端、挨拶や世間話が始まった。
一見客である菜々美と蓮は何となく居心地が悪く、楽器の用意を始める彼等の観察を続ける。
そこにようやく観客らしき若い男女のグループが入って来て、レストランホールはほぼ満席になった。
「皆、今夜は楽しんでいってね。これからの時間はフリードリンクだから、飲みたいものがあったらバーカウンターでセルフサービスよ」
鮮やかなオレンジ色のスカートをひらめかせて、澄香さんが客席の間を飛び回っている。
その姿はまるで花から花に留まっては遊ぶ蝶のように華やかで、思わず目がいってしまう。
「はあ……、やっぱり澄香さん綺麗だわねえ……」
カシスソーダの氷をクルクルとかき混ぜながら、菜々美は溜息を洩らした。
「澄香さん、美人でしょ? 今夜の主役って感じよね。そう思わない、蓮?」
「そんな事より、なんか俺に話すことあるんじゃないですか?」
腕を組んだまま憮然とした表情で、蓮は菜々美を睨み付ける。
もう誤魔化しは通じないらしい。
菜々美は肩を竦めてへへへと作り笑いをして見せた。
「まあ、既に分かってると思うけど、ここでバイト募集してたの思い出して、雇ってもらえないか聞いてみたのよ。そしたら、澄香さんもすぐに面接に来て欲しいって言ってくれて、それで今日ここに連れてきたわけ」
「そういうことは連れて来る前に説明しておくものじゃないんですか?」
「だって、先に説明したらきっと嫌がると思ったのよ」
「そりゃ、嫌がりますよ。まだ働く気ないんですから」
「でも、来て良かったでしょ? あんたの好きな料理と接待ができて、数少ない特技のピアノが活かせるなら天職じゃない」
「無理ですよ! 厨房やホールの手伝いならまだしも、ここでピアノ弾くってどういうことですか? まさか食事中に生演奏しろってんじゃないでしょうね!?」
「それはこれから分かるんじゃないかな。あ、ほら、そろそろ始まるみたいよ」
気が収まらない蓮の口を塞いで、菜々美は中央のダンスフロアを指差した。
薄暗いフロアにスポットライトが当たり、先程、エントランスで見かけたメガネの大学生がギターを片手に現れる。
「皆さん、こんばんわ。今夜のトップバッターを務めさせて頂きます遠山と申します。初めての方は宜しくお願いします。ご存知の方はお久し振りですということで……」
遠山と名乗った青年はギターを構えるとペコリと頭を下げた。
内気な性格が外見ににじみ出ているような謙虚な姿勢だ。
そんな彼を応援するかのように、観客から拍手や口笛が飛び交った。
「……これって、個人的なミニコンサートの会なんですか?」
周りに合わせて手を叩きながら、蓮が小声で囁く。
「そうよ。レストランが終わった後、澄香さんはこのホールを開放して、誰でも参加できるコンサートを開いてるの。音楽のジャンルは自由。参加する方も聞きに来るだけのお客も入場料はなしでフリードリンクの料金のみ。ロックバンドも来るし、ヒップホップのダンスユニットも来るわよ。三味線持った芸者さんみたいな人が来た事もあるんだから。とにかく音楽を披露したい人なら誰でもここで演奏できるの」
ステージのギター青年に拍手を送りながら、菜々美が説明する。
スポットライトに一人照らされた青年は、用意されたパイプ椅子に腰を掛けてチューニングを始めた。
「澄香さんは音楽とダンスが大好きで、誰でも音楽に親しめる場所を作りたかったんだって。それでこのレストラン始めたのよ。素敵でしょ?」
「確かに素敵なコンセプトだし、パワフルな女性ですね。で、俺にピアノ弾けっていうのは、このコンサートに個人エントリーしろってことなんですか? ご存知だと思いますが、俺、人前でそういうことするの苦手なんですよ。そもそも、まだ働くって言ってないですしね……」
露骨に嫌な顔をしながらダラダラと文句を垂れ流す蓮を、菜々美はヘラヘラと曖昧な笑顔でかわした。
「まあまあ、まずは聞いてみましょうよ。あんただって昔はピアニストで、合唱部の端くれでしょ? 音楽が好きな気持ちは今もあると思うわよ」
「……さあ、それはどうなんでしょう」
その時、メガネ青年・遠山のギターがポロロンと響き、二人は慌てて口を噤んだ。
ホールは一瞬、沈黙する。
彼の地味めな風貌からフォークソングの弾き語りかと勝手な想像としていた菜々美だったが、ギターが奏でたのは心地良いボッサノヴァだった。
しかも、なかなかのギターテクニックだ。
軽やかでリズム感が良い。
薄暗い店内に常夏のそよ風が吹き抜けていくような錯覚すら覚える。
「彼、すごく上手いじゃない! タダでこの演奏聞けるのってお得じゃない? 今日来たのはラッキーだったわ」
思わず口から出た菜々美の言葉に蓮は苦笑する。
「でも、下手な人もいる訳でしょ? いつも良いとは限らないじゃないですか」
「勿論、練習中の人も沢山来るわよ。でも、人前で披露する機会がないと上手くならないじゃない。ここに来る人達は自分の練習の為に演奏するだけじゃなく、他の奏者の応援をする為にも来るのよ」
「成程……。確かに演奏者にとっては貴重な場所ですね」
納得したように、蓮は一人頷く。
音楽に対して頑なだった彼の心が少し動いたのを見て、菜々美は嬉しくなった。
やがて、遠山青年のボッサノヴァは終了し、温かい拍手に見送られて彼は席に戻った。
次はお揃いの革ジャンを着込んだ中年男性のグループがステージに登場する。
サングラスにリーゼントの痩せ型の男性がマイクを握り締め、指を鳴らし始める。
ドラムのリズムがそれを追い掛け、ベースの重低音がホールに響く。
「皆さん、こんばんわ。毎度お世話になってます、今だにロックンロールを追いかけてるアラフィフのおっさん4人組です。お話したいことは色々とございますが、今夜は時間もございませんので早速曲の方に参りましょう」
客の間からどっと歓声が起こった。
その途端、今まで座って清聴していた皆が一斉に立ち上がり、リズムに合わせて手を打ち始める。
その様子をリーゼントのおっさんは満足そうに眺め、「ご協力ありがとうございます」と笑った。
ロックな出で立ちの割りに、態度は世間慣れしていて、言葉にもそつがない。
彼等の50年代テイストは仮の姿で、実はどこぞの大企業の営業部長なのかもしれない。
だが、彼らがどこの誰かなど気にする者はここにはいない。
ロックンロールを愛するオッサン達のサウンドに酔いたくて、観客は手を打ち鳴らす。
「では一曲目いきましょう。皆が知ってるベタなヤツです、ヨロシク!」
『Johnny B. Goode』のイントロがホールに響き渡り、ステージは一瞬でダンスフロアと化した。




