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紅茶王子のピアノカフェ  作者: 南 晶
都会の紅茶王子
20/28

20

 時刻は既に夜の8時を回っていた。


『カジュアルフレンチとジャズの店・PRIMAVERA』は繁華街から少し裏手に位置し、細い路地に重量感のある木の扉をどっしりと構えている。

 初めて入った客は、栄の喧噪から突然異世界へ迷い込んだような錯覚を覚えるらしい。

 薄暗い店内には低い音でジャズが流れ、10組分くらいしかないテーブルには若い男女が静かに料理を楽しんでいる。

 面接の時間を大幅に遅れて到着した菜々美と蓮は、飲食店が一番忙しい時間帯の店長に会うことができなくて、客として席について待っているように指示を受けたのだ。

 一番奥の席に陣取った二人は、飲み物だけ注文してから、店内の観察を始めた。


「ね、いい雰囲気でしょ、蓮?」


 低く流れるジャズのリズムに体を揺らしながら、菜々美は蓮の顔を伺い見る。

 営業で何度も足を運んでいるこの店だが、客として席についたのは今回が初めてかもしれない。

 ここに来るまでに半死半生の状態だった蓮もようやく復活し、リラックスした表情で笑った。


「確かにオシャレなお店ですね。こんな普段着で来てもいいんですか?」

「大丈夫よ。オーナーさんはさっぱりした人だし、今回はお客として入ったんだから」

「いつもは違うんですか?」

「いつもは広告の営業。ここ、私の担当してるお店なの」

「へえ……、かっこいいな」


 蓮は目を細めて眩しそうな顔で菜々美を見上げた。

 こうやって正面から改めて見つめられると、いつも見慣れているのに気恥しい。

 頬が熱くなるのを感じて、菜々美は慌てて視線を外し、コーヒーに口をつける。

 アイスティーの中に浮かんでいるレモンをストローでつつきながら、蓮はポツポツと話し出した。


「先輩、これで分かったでしょう? 俺、人間が多いところで生きていけないんです。東京で働いていた時も何度も倒れてます。ここでもやっぱり無理そうです」

「どうしてそうなるの? やっぱり精神的な問題なの?」

「体はどこも悪くないです。極度の緊張感やストレスを感じると勝手に発作が起こるんですよ」

「何を気弱なこと言ってんのよ。高校球児だったくせに」

「何年前の話ですか」


 蓮は首を竦めて苦笑した。


「あれから俺にも色々ありましたからね」


 何か思い出しているかのように、頬杖をついて遠い目をする。

 こうなっては、菜々美も身の置き場がない。

 全ては蓮の為だと思ってしたことだった。

 山奥から半ば強引に連れ出し、居候させ、無理矢理、地下鉄の中に引きずり込んだ。

 あの時、偶然にも頼りになる男性が都合よく現れたから事なきをえたものの、菜々美だけだったら対処方が分からず、命の危険だってあったかもしれない。

 自分が蓮の為だと思ってしてきたことは、彼にとってはお節介だったのだろうか。

 あのまま、山の中で一人静かに生活していた方が、彼の為だったのだろうか。

 結論が出ないまま、菜々美も黙ってコーヒーを啜った。


 その時、


「遅くなっちゃったわね! お待たせ、菜々美ちゃん!」


 元気いっぱいの高い声がして、ホールの方から背の高い女性がツカツカと歩み寄って来た。

 胸元の開いた黒の長袖シャツに、目の覚めるようなオレンジ色のロングスカートスカート。

 ウエストの縊れを強調するような、革の太いベルトを巻いている。

 ウェーブのかかった漆黒のロングヘアを無造作に頭の後ろで結い上げ、そのまま踊り出しそうな出で立ちだ。

 菜々美は慌てて立ち上がると、ペコリと頭を下げた。


澄香すみかさん、いつもありがとうございます。お世話になっております。今日は本当にすいません、こちらからお願いしたのに遅れてしまって」


 女性は大きな口を開けてカラカラと笑うと、菜々美の肩をポンポン叩いて言った。


「いいのよ、気にしないで。それより今日はお客さんとして来てくれたんでしょ? せっかくだから美味しいもの食べてゆっくりしていって。そちらの彼氏も楽しんでいってね」


 女性にいきなり声を掛けられた蓮は、視線を泳がせながら「はあ」と曖昧な返答を返した。

 

「蓮、こちら、このお店のオーナーの澄香すみかさん。音楽とダンスをこよなく愛する料理人なの」


 状況が掴めず困惑したままの蓮に、菜々美は女性の紹介をした。

 澄香は満面の笑顔で、蓮の前に右手を差し出す。


「初めまして、蓮君。菜々美ちゃんから聞いてるわよ。噂通りかっこいいじゃない。君、料理もできて、ピアノも弾けるんだって?」

「えっ? まあ、はい……」


 差し出された右手を握り返しながらも、蓮は恨めしそうな視線を菜々美に送って来る。

 何を話したんですか、俺、何も聞いてないですよ、という彼の心の叫びが聞こえてきそうだ。

 そんな蓮の微妙な反応は気にも留めず、澄香は握ったままの右手をブンブン振った。


「君みたいな子がうちでピアノ弾いてくれたら女性客が一気に増えるわね。厨房も人手が足りてないし、この際、皿洗いでも助かるわ。いや、この顔ならホールに出さない手はないわね。どう? 君、ここで料理手伝いながらピアノ弾いてみない?」

「ここでピアノを?」


 蓮は店の中をぐるりと見回した。

 こじんまりとしたホールの奥は広々とした空間になっていて、ダンスフロアのようである。

 そして、その片隅には黒光りしたグランドピアノが重厚な佇まいを見せている。

 店内は低い音でジャズが流れているが、ピアノ奏者はそこにはいなかった。

 蓮の沈黙を理解した澄香は自慢げに胸を張って答える。


「今の時間は看板通り『カジュアルフレンチとジャズの店・プリマベーラ』よ。この後はちょっと趣旨が変わるの」

「この後?」

「そう。10時からはライブハウスに変身。音楽を愛する者達が集まって演奏を楽しむの」

「はあ……」


 困惑する蓮を見て、澄香はアハハと声を上げて笑った。


 

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