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紅茶王子のピアノカフェ  作者: 南 晶
山奥の紅茶王子
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 菜々美が暴風雨の中で遭難しかけている、その前日。

 全ての発端は、菜々美の同僚の何気ない一言から始まった。


「珈琲王子のピアノカフェ!?」


 名古屋の繁華街にオフィスを構える広告代理店『尾張アドサービス』に入社してから、早7年。

 ずっと営業部で企業広告を担当していた菜々美は、社内では既にベテラン社員だ。

 ベテランと言っても担当する顧客が増えるだけで、昇格も昇給もないのは零細企業の哀しいところだったが、それなりの責任を持たされて仕事ができる事に菜々美は満足している。


 尾張アドサービスの収益の半分以上は、名古屋を中心とした情報タウン誌『ナゴニャン』の企業広告の掲載費でもっており、菜々美の仕事は端的に言えば、企業に営業をかけ、タウン誌に広告掲載させる契約を取る事だった。


『ナゴニャン』の営業企画部のタバコ臭いオフィスの中、受話器を片手にデスクにへばりついていた菜々美は、聞き慣れない企業名に顔を上げた。


「そう! 『紅茶王子のピアノカフェ』。今、フェイスブックや個人ブログの口コミでちょっと評判になってるのよ。まだ、どこの代理店でも広告掲載した事はないみたい。新規開拓してみたらどう?」


 菜々美の同期であり、同じ営業部の同僚、そして飲み仲間でもある井上千春が、パーマのかかったロングヘアを指で弄びながら声を掛けてきた。

 小柄な菜々美とは対照的に、千春は身長170cmのモデル級美女だ。

 そんな彼女が菜々美と同様、仕事が恋人であるのは、性格的な欠陥がどこかにあるのだろう……。

 などと、口には出さないが、菜々美は常々思っている。


 だが、千春の放った『新規開拓』という言葉は、菜々美の乾いた心に甘く響いた。

 コール音が続く受話器を下ろすと、グリンと椅子を回転させて千春の正面に向き合った。


「何それ? どこのカフェ? 新規って、ホントにまだどこの代理店も入ってないの?」

「そりゃ、そうでしょ。情報は口コミだけだし、所在地がどこなのかも怪しいんだもの。もしかしたら、開店したばっかりで、宣伝に力を入れてないのかもね。チャンスじゃない?もう、名古屋周辺の店は、粗方、どっかの代理店が入ってるでしょ? 開店したばっかりの店を新規で契約取るくらいじゃないと、後は同業社との値下げ合戦しかないんだから」


 千春は達観した顔でそう言うと、デスクの上に腰掛けて長い足を組んだ。

 幸い、時刻は既に夜の10時を回っており、会社に残っている営業社員はこの二人だけだ。

 デスクに腰掛けてタバコをふかそうと、誰にも気兼ねする必要はない。

 菜々美も椅子をグルグル回しながら、デスクの上に置いてあった千春のタバコを一本咥え、100円ライターで火を付けた。

 昨今の禁煙ブームで、このオフィスも喫煙者には住みにくい場所になってしまったが、就職してから始めたタバコを菜々美は今だに止める事ができない。

 とは言っても、女性の喫煙が体裁の良いものではなくなった現在、オフィスで吸うのは社員がいなくなった残業時間だけにしている。


 煙をゆっくり吐き出しながら、菜々美は千春を見上げて言った。


「宣伝もしてなくて所在地も定かでない、そのカフェがどうして口コミで評判なのよ?」

「さあ? 誰かが偶然、見つけてフェイスブックに上げたんじゃない? よくいるじゃん? レストランで食べ物が来た途端に写真撮ってる暇人が」


 千春はシニカルな笑みを浮かべて、そう言った。

 女性的な外見に似合わず、性格は大雑把で男らしい千春は、通信系コミュニケーションの類が大嫌いなのだ。

 面倒臭い事が嫌いな菜々美も、それには同感だった。


「なるほど、確かにその可能性はあるよね。でも、そんないい話があるなら、どうして千春が営業行かないのよ?」


 それが一番の疑問だ。

 広告代理店の営業なんて、同じ事務所内でさえ、社員同士の顧客の争奪戦が往々にして繰り広げられている。

 新規の店があるらしい、なんてオイシイ話を千春がタダで教えてくれる筈がない。

 千春はニヤリと笑って、光沢のあるワイン色の唇を舌でペロリと舐めた。


「さすがは菜々美、鋭いわね。あたしが営業に行かない理由は、あたしがペーパードライバーで、自家用車持ってないからよ。どうやら、その店、山の中にあるらしいんだわ。契約取れたって、車でないと訪問できない顧客先なんて、この先、担当してくの面倒だもん。そして、あんたにわざわざ教えてあげた理由はね、お願いがあるからなの」

「そうだと思った。何よ? そのお願いって」


 溜息と一緒に煙を吐き出しながら、菜々美は千春を上目遣いに睨んだ。

 腐れ縁のこの同僚の考える事なんか、既にお見通しだ。

 千春は整った顔にニンマリと意味深な笑みを載せて言った。


「この前の飲み会で、あんたが長い時間お話してた公務員いたじゃん?」

「え? ああ、いたね、そんな人。名前もよく覚えてないけど。千春が私服がダサすぎって、目もくれなかった人でしょ?」

「そう! 彼のケータイ教えて欲しいの。あんた、交換してたでしょ?」

「いいけど、なんで? 今更、興味出てきたの?」

「バカ言わないでよ。次の飲み会するのに、そいつに頼んで公務員の友達集めてもらうのよ。やっぱり結婚するなら、安定した職業の方でなくちゃね」


 菜々美は苦笑した。

 誰と何回飲み会をしたところで、千春が結婚する気がない事は菜々美はもう分かっている。

 口で言うほど切羽詰まっていない彼女がコンパの常連なのは、飲み会の雰囲気が好きなだけなのだ。


「いいよ。向こうも本当は千春目当てだったんだから、きっと喜ぶわよ」

「やだ! 冗談止めてよ! あくまでターゲットはあいつのお友達なんだから。飲み会企画したら、あんたも呼ぶからね」

「私はいいよ、別に。仕事が忙しくて結婚してる暇なんかないもん」

「バカね! あんた、たかが広告代理店の営業くらいで、老後どうやって生きてくのよ? 年金だって70歳に引き上げされるんだからね?」

「堅実だなあ、千春は。あたしはそんなに長生きしないって。美人は薄命だし」


 窓の外は名古屋の繁華街の夜景が広がっている。

 誰もいない夜10時の営業部のオフィスに妙齢の女が二人、タバコを咥えたまま笑い合った。




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