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紅茶王子のピアノカフェ  作者: 南 晶
都会の紅茶王子
19/28

19

 なんとか改札を通過したものの、この駅から栄まで4駅ほどある。

 

 ホームに立つと地下鉄独特の生温かい風が吹き上げてきて、ちょうど電車が到着したところだった。

 停車した電車からバラバラと乗客が降りていく。


「蓮、これに乗るよ」


 菜々美は下車する人が出て行くのを待って、蓮のジャケットの袖を引っ張った。

 が、どうしたことか。

 ホームで仁王立ちになったまま、蓮は電車を真っ直ぐに見据えて硬直していた。

 まるで恐ろしいものに遭遇したかのような固まり方だ。


「蓮、何してんの! 早くしないと電車閉まっちゃうってば!」

「あ、はい、す、すいません……、い、今行きますから」


 どもりながら、最後は蚊の鳴くような細い声で返事をすると、蓮はロボットのような動きで前進した。

 菜々美が袖を引っ張ったくらいでは手に負えない。

 やむなく蓮の背中に回ると、勢いのまま突き飛ばし、そのまま電車の中まで突入させた。


 電車の中に転がり込んだ蓮は、必死に吊革にしがみ付くと、ビクビクしながら周囲を見回す。

 まだ乗客が少ないのが救いだった。

 こんなに挙動不審の男が電車の中でうろうろしていたら、痴漢と間違われても仕方がない。

 菜々美は横掛けの座席に腰を下ろし、蓮のジャケットの裾を引っ張った。


「ねえ、どうしちゃったの? 体調でも悪いの?」

「いえ、体調は確かに良くはないですけど、まだ大丈夫です」


 そうは見えない青白い顔で、蓮は弱弱しい笑みを浮かべた。

 吊革を握った手が血の気を無くしてプルプルと震えている。

 どう見ても良好な健康状態ではない。

 さっきまで菜々美を引き摺って歩く程の体力があったのに、この短時間の間に彼に何があったのか。


「無理しなくていいよ。本当に体調が悪いなら一度降りよう」

「大丈夫です。栄まではなんとか頑張れますから」


 やがて、電車が止まり、下車するより多くの乗客が一斉に乗り込んできた。

 立っている蓮と菜々美の間にも乗客がどんどん入って来る。

 繁華街に近づくにつれて、乗客は増えていくのだ。

 

「あと2駅……」


 蒼白になって吊革にぶら下がっている蓮を気遣いながら、菜々美は路線図を見て、少しでも早く到着するように祈った。

 やがて、電車は目的地の栄駅に到着し、菜々美は蓮を引っ張って電車の外に出した。

 ホームは人で混み合い、息苦しい地下鉄の匂いが顔に纏わりつく。

 電車に乗り込む乗客の波に押し返されてしまいそうなのに、蓮はホームで硬直したまま動かない。


「蓮、何してるの! 早くどかないと他の人に迷惑だってば!」

「せ、先輩……、俺、やっぱりダメ……」


 突然、棒立ちになっていた蓮がその場に蹲った。

 胸を押さえて激しく咳き込んでいる。

 傍にいた女子高生の集団から甲高い悲鳴が上がる。

 混み合っていた電車の昇降口が、蓮を中心に蜘蛛の子を散らすように空間ができた。

 何が起きているのか理解できないまま、菜々美は地面に蹲っている蓮の背中に縋りついた。


「蓮! どうしたの!? 苦しいの?」

「…………」


 返事をすることも適わないのか、蓮はひたすらに激しい呼吸を繰り返している。

 どうしたらいいのか。

 蓮にこんな持病があったなんて知らなかった。


「と、とにかく、誰か早く救急車を……」

 

 焦っているのに、目の前の蓮からも目が離せず、次の行動に移すことができない。

 菜々美は半べそをかきながら、彼の背中をさすった。

 

 このまま蓮が死んじゃったらどうしよう……?

 誰か、蓮を助けて……!

 

 その時だった。


「おい、あんた何やってんだ!」


 蓮の周囲を囲む人の壁の中から、大柄な男性が突如として現れた。

 男性は駆け寄って来るなり、縋りついている菜々美を有無を言わせず突き飛ばし、蓮を軽々と肩に担いだ。


「おい、そこ邪魔だ! 道を開けろ!」


 地の底から響いてくるような重低音の怒声に、ホームで取り巻いていた野次馬達は一斉に後退った。

 男性は蓮を担いだまま、人の波を押し分けて前進していく十戒のモーゼさながらに堂々と退出していく。

 ハッと我に返った菜々美は慌てて、その後を追いかけた。


「あ、あの、ありがとうございます! 今、救急車呼びますから」


 男性はジロリと菜々美を横目で見下ろし、ぶっきらぼうに答えた。


「そんなものはいらん。それより、さっさとこいつを外に連れ出すんだ」

「え、でも、早く病院に連れて行かないと」

「必要ない。どうせ外に出れば治るんだから」

「ええっ?」


 その返答に菜々美は呆気に取られたが、今は蓮を担いで進むこの男を信じる他はない。

 工場にでも勤めているのか、ネイビーの上下の作業着に重そうな安全靴という出で立ちだ。

 電車のメンテナンスの業者なのか、構内の工事の関係者なのか。

 いずれにしてもこの繁華街では見かけないタイプの人だ。

 少なくとも、医療関係者でないことは間違いないだろう。


 自動改札を突っ切って出て行く男性の後に、追いかけてきた駅員に菜々美は事情を説明し、やがて三人はどうにか地上に出る事ができた。

 男性はぐったりした蓮をアスファルトの上に降ろすと、頬をピチャっと指で叩く。


「おい、兄さん。もう大丈夫だ。あんたの嫌いな場所から脱出したぞ」

「あ……」


 まだ胸を押さえながら、涙の溜まった目をうっすらと明けて、蓮は周りを確認した。

 そして、目の前にいる男性を見て、気まずそうに視線を逸らす。


「す、すいません。迷惑掛けてしまって……。久し振りだったんで、もう治ってるかもしれないって思ったんですが……」

「なかなか根が深いよ。心療内科で診てもらった方がいい」

「はい、ありがとうございます」


 男性の言葉に蓮は素直に頷いた。

 彼の日に焼けた精悍な顔にも、ようやく安堵の笑みが浮かぶ。

 二人の男の間に突如として生まれた親睦間。

 一人蚊帳の外になってしまった菜々美は、雰囲気を壊さないようオズオズと口を挟む。


「あの、蓮……、彼はなんの病気だったんですか?」

「病気じゃない。精神的なパニックの症状だ。重度のストレスを感じると過呼吸になったり、眩暈がしたりする」

「じゃあ、あなたはやっぱり医療関係の方なんですか?」

「いや、俺はただの通りすがりだ。だが、俺もそうだったから、見てすぐに分かった」

「………」


 菜々美は無言で男性の顔を見つめる。

 身心とも、見るからに頑強なこの男性が精神的にパニックに陥ることがあるのか。

 にわかには信じられないが、人は見かけに依らないのだろう。

 まだ肩で大きく息をしながら、蓮も苦笑した。

 

「なんだ、何が可笑しい?」

「いや、丈夫そうな方だと思ったから、俺と同じ病気なんて不思議だなと思って……」

「よく言われる。まあ、人にはそれぞれ苦手なものがあるんだよ」


 大らかな笑顔を見せると、男性は立ち上がって言った。


「じゃ、俺はこれから仕事があるから、この辺で。まだ体調悪けりゃ、タクシーで帰れよ」


 そう言うなり、くるりと背を向けて立ち去ろうとする男性に、菜々美は慌てて追いすがった。


「あの、後日お礼に伺いますので、お名前を……」

「気にするな。大した事した訳じゃない」


 名乗ることさえせず、男性は人込みの中に紛れてると、あっという間に見えなくなった。

 


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