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紅茶王子のピアノカフェ  作者: 南 晶
都会の紅茶王子
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 確かに、蓮を山から連れてきてからの1カ月間で菜々美の生活環境も大きく変わった。

 結婚どころか付き合ってもいない三十路女の為に、蓮は勝手に家事手伝いに励んでくれて、不健康だった菜々美の私生活はかなり健康的に改善された。

 

 寝室に入るとベッドにはお日様の匂いがする布団がフカフカの状態で敷いてある。

 ずっと止められなかったタバコは、蓮が来た翌日に全て廃棄処分されていた。

 お気に入りだったクリスタルの灰皿は綺麗に洗われ、吸い殻の代わりにラベンダーのポプリが置かれていた(これも勿論、手作りらしい)。

 ヤニで黄ばんでいた水玉柄のカーテンは、シンプルなベージュで品の良いものと交換されていた。

 埃っぽかったフローリングは水拭きされ、脱ぎ捨ててあったジャケットは全てクローゼットに収められている。


「正直、助かってはいるのよね……」


 一人になった寝室で、菜々美はノートパソコンを開きながら呟いた。

 だが、世間体というものがある。

 お金に困っていないイケメンが自主的に家事手伝いをしてくれているのは、ヒモとは呼べないだろうが、社会的に良くない。

 仕事人間で亭主関白な父親と、専業主婦で生涯働いたことのない母親の姿を見て育った菜々美にとって、働き盛りの男性である蓮が一日中家事をしているのがどうしても納得できないのだ。

 昭和脳と言われようが、男は家庭の為に外で働くべきであり、菜々美にとって理想の結婚像でもあった。

 

 やがて、パソコンで検索するうちに、目当ての店のホームページが現れた。


『カジュアルフレンチとジャズの店・PRIMAVERAプリマヴェーラ

『アルバイト急募! 内容:厨房勤務・調理補助・ホール全般 30歳くらいまでの方が活躍中』


 自分の広告の顧客でもある店の情報を斜め読みして、菜々美はにんまりと笑った。

 蓮の料理の腕前なら、きっと雇って貰えるに違いない。

 ルックスを武器にすればウェイターだってお手のものだろう。

 最初はアルバイトでも、正規雇用されることもあるかもしれない。

 菜々美は携帯を握り締めた。



◇◇



「先輩……」

「何よ?」

「何よじゃないですよ。俺をどこに連れてくつもりなんですか?」

「それはまだ言えないわね。逃げられちゃうと困るし」

「それはつまり、俺が逃げ出したくなるような場所だってことですか?」

「それが分からないから、まずは行ってみるんじゃないの」

「いや、分かる前に遠慮しておきます。俺はですね、まだ働く気はさほどなくて……」

「ええい、男のくせにグダグダとやかましいわ!!」


 日曜日の昼下がり。

 地下鉄の入り口で、菜々美は逃げ出そうとする蓮の腕にしがみ付きながら、必死で地下鉄の階段に引き釣り込もうと試みていた。

 だが、優男の蓮でも真剣に抵抗すれば力では及ばず、逆に腕にぶら下がるように持ち上げられ、どんどん押し返されていく。

 休日の名古屋の街の真ん中で、二人は押し合い圧し合いを繰り返していた。


「あんた、わざわざ山から降りてこの街にやって来た目的を忘れたの!? 人間らしい生活を送る為には社会に順応しなきゃダメでしょうが!」

「だからって、いきなり名古屋で働くのはハードル高過ぎますよ。大体、人に断りもなく、なんでいきなり面接セッティングしてくるんですか!」

「あんたに一々断り入れてたら、就職する前にあっという間に定年だがね。働くのがハードル高過ぎるって、あんた一体いつになったら独り立ちすんのよ!?」


 腕にぶら下がったままガンガン噛みついてくる菜々美を見下ろし、蓮は憮然として答えた。


「そんなの俺の勝手じゃないですか。先輩には関係ないことです」

「あるでしょ! あんた、どこに居候してんのよ?」

「それについては感謝してますけど、それとこれとは別問題です」

「いいえ、同じ問題です!」


 尚も食い下がる菜々美に、蓮は己の苛立ちを表現するかのように、肩まで伸びた栗色の髪をくしゃくしゃ掻きまぜた。


「あのねえ、俺には働く以前に個人的な事情があるんですよ。なんでもできる訳じゃないんです」

「はあ!? 何なの、その事情って」

「言ったって、先輩には分かりませんよ。俺のことなんて……」

「何それ!? 私には言えないって言うの!? 何よ、こんなに心配してやってんのに」


 その言葉に、蓮は菜々美がしがみついていた腕を振り払うとキッと睨み付けた。

 本気で苛立っている蓮の顔を見て、菜々美も思わず硬直する。


「あーもー、分かりましたよ! どうなったって知りませんからね!?」


 完全にキレた蓮は、歩道に立ち尽くす菜々美を置き去りにしてどんどん歩き出した。

 地下鉄に続く下りの階段を一人で進んで行く。

 菜々美も慌てて、その背中を追いかけた。

 

 薄暗い地下鉄のホームには休日を楽しむカップルや親子連れで、思いの外、混み合っている。

 それでも、朝のラッシュ時に比べたら閑散としたものだ。

 蓮は改札の前の切符売り場で、ジャケットのポケットに両手を突っ込んで突っ立っていた。

 不貞腐れた顔で菜々美を見てから、投げ槍に路面地図を顎でしゃくって見せる。

 不機嫌なことこの上ない。


「……で、どこ行くんですか?」

「栄まででいいわ。そこから少し歩くけど」

「栄……?」


 あからさまに嫌な顔をしてから、蓮はポケットから小銭を掴み、二人分の切符を購入した。

 一方を菜々美に手渡しながら、げんなりとして見下ろす。


「なんでよりにもよって栄なんですか」

「蓮にピッタリのお店があるのよ。そこならきっと蓮の才能を活かせるんじゃないかと思って。でも、何か問題あるの?」

「だって名古屋で一番人間が多い場所でしょ」


 それがどうしたというのか。

 菜々美が不審な顔をすると、蓮は仏頂面のままボソっと言った。


「まあ、どうなることか……一応チャレンジしてみますよ」


 

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