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突然、ブチ切れた菜々美を前に、蓮はキョトンと小動物のように首を傾げた。
「あの、どうかしましたか?」
「どうかしましたじゃないわよっ! あんたね、名古屋に来てからどんだけ月日が経ったと思ってんの!?」
蓮は困ったように視線を泳がせながら、首を竦めてみせた。
「あー……、2週間くらいですかね?」
「もう1カ月よ! もうすぐクリスマスになっちゃうし、今年も終了しちゃうわよ! ここに来てから就職活動らしきことしたことあんの!?」
「あ、ありますよ。 でも、面接に行くのに地下鉄乗らなきゃなんなくて、残念ながら諦めました」
「なんでよ!? 地下鉄乗らずにどーやって働くのよ!?」
「俺、地下鉄の狭い感じとか、満員電車の圧迫感が本当にダメなんです」
「だったら地上を走って行けばいいでしょーがっ!」
「この歳になって走るのはちょっと体力に自信がなくて……」
「元高校球児が何言ってんのよ。大体、交通手段ならバスだってあるし、そんなのは理由になんないわよ」
はああ……とこれ見よがしに溜息をつく菜々美を、蓮は申し訳なさそうに見下ろし、自分もパイプ椅子に腰を下ろした。
「すいません。やっぱり俺、山に帰ります。俺は人間社会で生きていくのはちょっと無理みたいです」
「だから、諦めるの早いって。あんた、ここに来てからまだ何も始めてないじゃない。ハーブ栽培する以外に何かやりたいことってないの?」
蓮は白い手を組むと優雅な仕草で頬杖をついた。
長い睫毛に縁取られた目をしばらく伏せて考えた後、真っ直ぐに菜々美を見つめ、言った。
「俺がやりたかったことは、これです」
「は?」
「俺、こんな生活がしたかったんです。誰かの為に食事の支度して、お菓子作って、部屋の掃除して、夜は色んな話をしながらゆっくり夕食を楽しむ。ピアノがあればノクターンを弾いて疲れを癒してあげたい。俺のしてることが誰かの明日の元気になれば、それだけで満足なんです」
「何、そのいい感じのキャッチフレーズは!? あんたは専業主婦かっ!」
菜々美の突っ込みに、蓮は手をポンと打つと笑って答えた。
「そう言われたらその通りですね。俺、女に生まれてお嫁さんになりたかったのかな」
「今更遅いわよ! 既に男に生まれてるんだから、自分の食い扶持くらい自分で稼いできなさい!」
「やだなあ、生活費くらいは二人分出しますよ。前にも言いましたが、祖父の遺産と両親からの慰謝料がありますから」
「お金の問題じゃなーい!! 働き盛りの若い男が家で引き籠っててどーすんのって話よ」
蓮は首を傾げて、カラーコンタクトみたいなヘーゼルの瞳でじっと菜々美を見つめた。
吸い込まれそうなその視線に、一瞬、眩暈を感じる。
菜々美はその時、この男がその気になればヒモとして充分生きていけることを確信した。
しばしの沈黙の後、蓮は少し挑戦的な口調で言った。
「お金の問題がないのに、どうして男は家で引き籠っちゃいけないんですか?」
「だって、あんたがいつか結婚したら、誰が嫁と子供を養っていくのよ?」
「それって男女差別ですよ。男より優秀な女性が社会でゴマンと活躍してるのに。家事も子育ても性別に拘わらず得意な方がやればいいじゃないですか。先輩は意外に昭和脳なんですね」
「なっ、何ですと!?」
カチンときた菜々美を見下ろして、蓮は不敵な笑みを浮かべる。
「大体ね、先輩は考え方が古いんですよ。男も女も適材適所で貢献すればいいじゃないですか。そもそも先輩だって女性のくせに家事や料理できなくて、結婚したらどうやって男に養ってもらうんですか?」
「わ、悪かったわね!」
二人の間に緊張が走った。
カルボナーラとエビとアボガドのサラダが並んだテーブルを境に、菜々美と蓮は正面から対峙したまま無言で睨み合った。
だが、出来立てのカルボナーラから漂う濃厚なチーズの香りが鼻を擽ると、菜々美のお腹から突然、グルルと鳴り出した。
そう言えば、会社から出てからまだ何も口にしていない。
突如、自分が空腹だったことを思い出した菜々美は、真っ赤になって慌ててお腹を押さえた。
その音で拍子抜けした二人は、顔を見合わせると無言で椅子に座り直した。
「……すいません。仕事から帰ってお腹減ってたんですよね。冷めない内に食べて下さい」
蓮が申し訳なさそうに項垂れた。
その姿がどうしても憎めなくて、さっきまでの怒りもカルボナーラの香りと共に腹の中に納まってゆく。
「…私もゴメン。名駅でケーキ買ってきたから、後からコーヒー淹れよう?」
菜々美の言葉に、蓮はホッとしたように表情を緩め、嬉しそうに頷いた。
カルボナーラは濃厚且つ、まろやかなソースが、絶妙な固さで茹で上がったパスタによく絡み、レストランで食べるものより遥かに上回る味だった。
アボガドとエビのサラダには庭で栽培したハーブを使ったイタリアンドレッシングが添えられ、マヨネーズしか使ったことがない菜々美はただのレタスがこんなに美味しくなるのかと目を見張った。
デザートには、菜々美のお気に入りの名駅地下街で買ったマロンのロールケーキ。
蓮がドリップしたコーヒーを味わいながら、菜々美は優雅な気分になって窓の外を眺める。
いつもの名古屋の夜景が、蓮が丹精込めて用意したディナーとリラックスしたコーヒータイムのお陰で、あたかもマンハッタンの夜景の如く贅沢な風景に思われた。
「コーヒー終わったらお風呂入れますね。あ、さっきのハーブソルト入れてみて下さいね」
給仕役に徹している蓮は、菜々美がのんびりソファで夜景を楽しんでいる間も、テーブルをさっさと片付け皿洗いを始めている。
その手際の良さは、女である菜々美が足元にも及ばない。
『適材適所』という言葉があるように、確かに男が外で働き、女が家庭を守るという固定観念は昭和の遺物なのかもしれない。
テーブルの上に置かれた手作りのバスソルトの瓶を振ると、ミントとラベンダーの香りがフワリと立ち上った。
「いい匂い……、これもあんたが作ったの?」
「はい。見様見真似ですけど。お風呂に入れるとサッパリしますよ。疲れもとれますしね」
さっぱりとした香に、菜々美の心は確かに癒されていく。
だが、菜々美の心にはまだ釈然としない思いが残っていた。
「でもね、蓮、これがなくてもお風呂は入れるし、身体は洗えるじゃない。これ作ってる暇があるなら外で働いた方が有意義だって思わないの?」
「ハハ……、先輩らしいですね」
蓮は気を悪くした様子もなく、首を竦めて笑った。
「俺ね、多分、こういう生活の中の無駄が好きなんですよ」
「生活の中の無駄……」
「だって、無駄でしょう? 人はバスソルトがなくても普通に生きていけるんですから」
皿洗いの手を止めて、いつものように少し首を傾げた姿勢で腕を組むと、蓮は穏やかな口調で続けた。
「俺、山に引き籠る前は東京で生活してましたけど、生きる為だけに食べて、寝て、働いてました。カップラーメン食べて5時間寝れば何とか生きていけましたよ。でも、生きてるだけでした。会社を辞めた時、俺には何も残らなかった。何をしていたのか思い出せないくらいにね」
「………」
「だから、先輩には生活の中の無駄を楽しんで欲しいんです。生活を楽しめば、生きることに付加価値が付くと俺は思うので……」
確かにその通りかもしれない。
生きるだけの生活をしていた菜々美には耳の痛い話だったが、だからこそ、バスソルトに込められた蓮の思いやりが痛いほど伝わってくる。
キラキラした目でキッチンを片付けている後輩を眺めながら、菜々美はふと、さっきのクライアントからの電話を思い出した。
菜々美もプライベートで時々お世話になっているジャズバーで、ホール係のアルバイトの求人広告を出したいって言ってたっけ……。
『適材適所』
菜々美の脳裏に漠然と一つの案が浮かんだ。




