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幅広な道路が縦横無尽に敷き詰められた近代都市(?)・名古屋。
とは言っても、東京や大阪に比べたら確かに交通量が多いが、大都会と言っていいのかは微妙な街だ。
大学を卒業してから、菜々美はずっとこの街で一人で働いてきた。
地元民の贔屓目もあるが、個人的にはこの街が結構、気に入っている。
理由は一つ、何をするにも便利だから。
隣接した岐阜の山まで行けばスキーやトレッキングもできるし、最大の繁華街の栄に行けば洋服から雑貨まで何でも揃う。
オシャレなバーやカフェにも事欠かないし、名古屋城や水族館といったプチ観光名所もある。
住宅街は閑静でハイソな雰囲気だし、治安も良い。
菜々美のような独身女性でもなんとか一人暮らしできるほどには仕事もあるし、様々な業種が存在するので選択肢も多い。
菜々美が勤める広告代理店は、この地方一帯のあらゆる職種の企業と広告の契約をして、その掲載料で運営している。
数多の企業に足を運んでいる菜々美にとって、名古屋はもはや実家の庭の如く慣れ親しんだ街だった。
そんな名古屋の街の午後7時。
ネオンが煌めく雑居ビルの中で、菜々美はデスクにしがみ付くような恰好で電話をしながら、ペコペコ頭を下げていた。
「……分かりました。今月も同じ枠で掲載させて頂きます。あ、求人も載せときます? レストランの方でホール兼厨房の仕事ができる30歳くらいまでの人、ですね。了解です! すぐにレイアウト作ってファックスします。ありがとうございます!」
そこまで一気に言い切ると、菜々美はゆっくりと受話器を下ろしてフーッと溜息をついた。
クライアントと喋るといつもテンションが上がってしまう。
菜々美はフェイスタオルで首筋の汗を拭きながら、顔を真っ赤にしてデスクに突っ伏した。
「お、頑張ってるじゃん。相変わらず、古参の顧客はガッチリ掴んでるわね」
最近、婚活で忙しいモデル級美人の千春が、フラミンゴのような細い足を組み替えて、菜々美の横のデスクに座った。
独身貴族の千春には菜々美がどれほど切羽詰まって仕事をしているか分かる筈もない。
何しろ、今の菜々美には養うべき扶養家族がいるのだ。
そのことをまだ打ち明けることができなくて、菜々美は咄嗟に作り笑いをして見せた。
「まっ、まあね。最近、仕事もっと頑張らなくちゃ……なーんて、急に思い始めたんだ」
「へー、どういう風の吹き回し? あ、そう言えば、前に話した『ピアノカフェ』はどうだったの? 行ってみた?」
何気なく出たその質問に、菜々美はギクリと体を強張らせる。
噂の紅茶王子がまさか高校の後輩で、しかも、顔だけイケてるやる気ナシ人間だったなんて。
そして、その王子を扶養する羽目になっているだなんて……。
親友の千春と言えども、まだまだ人に話すのは憚られる事実だ。
視線を泳がせながら、菜々美は当たり障りのない返事をすることにした。
「うーん、思ったより山の中でね。途中で雨が降って来たし、諦めて帰って来たの」
「ええ!? あんたが何の収穫もなく諦めて帰って来るなんて珍しいじゃない。そんなに山奥だったの?」
「だって、ホラ。私、運転苦手だしさ。遭難したら怖いじゃん? それより、千春は今夜もコンパ?」
話の矛先を外そうと、今度は菜々美が突っ込んだ。
寧ろ、本当はそれを聞いて欲しかった千春は、嬉しそうに髪を掻き上げるとニンマリ笑った。
「あらぁ、失礼ね。あたしだっていつも飲んでるわけじゃないわよ。毎週木曜日は休肝日って決めてるんだから。飲み会は明日なの。あ、あんた今夜暇ならラーメンでも行かない? 新店舗のラーメン屋の偵察も兼ねて」
「千春、昼もラーメン屋でランチ食べなかったっけ? 確か、味噌ラーメンと炒飯のセット」
「それは昼の話でしょ? もう晩御飯の時間じゃない」
モデル並みのスタイルを持つ千春だが、ダイエットする必要は全くないらしい。
久し振りに語りたいことは山ほどあったが、アパートで待っている扶養家族のことを考えると、今日はなるべく早く帰りたかった。
「ごめん、千春。今日はやめとくわ。その代わり、今度また飲みにいこうよ。お洒落なジャズバーで」
「オッケー、じゃ、また次回ね。今度は例の公務員集団と飲み会セッティングしておくから」
機嫌を損ねた風もなく、千春はニヤリと笑って自分のデスクに戻って行った。
すっかり暗くなった午後8時の繁華街は、駅に向かって歩いてゆく会社帰りのサラリーマンやOLで溢れている。
繁華街にある雑居ビルの一角、広告代理店『尾張アドサービス』の事務所をそそくさと出た菜々美は、人々の波を抜けて、まっすぐ駅に向かって歩き始めた。
地下鉄で20分程の先の菜々美の居住アパートには、今頃、件の同居人が菜々美の帰りを待っている筈だ。
「……ケーキでも買って帰ろうかな」
一日中、彼女の帰りを待っている同居人は、きっと喜ぶに違いない。
彼の嬉しそうな笑顔を思い出して、菜々美は駅の地下街に続くエスカレーターに飛び乗った。
◇◇
菜々美がアパートの玄関を開けた途端、「お帰りなさい、先輩!」と嬉しそうな声が奥から響いた。
狭い廊下の奥から日本人離れした風貌の長身の男が、白い割烹着姿でいそいそと出迎えに現れる。
1カ月前より伸びた前髪を邪魔そうに掻き上げながら、今や同居人となった紅茶王子・滝沢蓮はニッコリ微笑んだ。
「先輩、お仕事お疲れ様でした。夕飯もうできてますよ。今日はエビとアボカドのサラダとカルボナーラです。あ、ジャケットはこちらに下さい。皺にならないように掛けておきますから」
「あ、ありがとう……」
菜々美は、人の家で上機嫌にホスト役を務めるこの男を、半ば呆れて見上げた。
人も通わぬ山奥で引き籠り生活を続けていた通称『紅茶王子』こと『滝沢蓮』が菜々美のアパートで居候を始めてから、早や1カ月が経とうとしていた。
一見、悠々自適な生活を堪能しているかのように見えたこの男が、実は極度の寂しがりで、しかも、社会に順応できない性格であることを知った菜々美は半ば強引に彼をここまで引き摺り出してきたのだ。
閉鎖的な山村の中で孤立していたこの後輩を放っておけなかったのだが、仕事の選択肢も多い名古屋だったら、きっと蓮の希望に合う職業が見つかるだろう。
そんな楽観的な期待をもって、勢いで連れてきてしまったのだが、蓮はなかなか菜々美の思惑通りに動いてはくれなかった。
2DKのアパートの一室を占拠した蓮は、就職活動を始めるどころか、手始めに園芸用品店に行ってプランターと土を買ってきた。
狭いベランダにひしめき合うようにプランターを並べると、様々な種類のハーブの苗を植え始め、あっと言う間にベランダ菜園を完成させてしまった。
菜々美が用意したアルバイトの情報誌は一度も手に取ることもなく、部屋の片隅に放置されたまま埃を被っている。
だが、遊んでいる訳ではなく、毎朝、菜々美が起きる頃には朝食が出来上がっているし、長い間、放置していた部屋は毎日掃除機が掛けられ、整頓されている。
昼間は食材の調達の為に近所のスーパーに足繫く通い、毎度の食事の支度に余念がない。
これには、菜々美に返す言葉もなかった。
まさか、この後輩がここまで専業主夫に徹するとは思っていなかったのだ。
『人間社会で真っ当な生活をさせる』という当初の目的にはそぐわないが 寧ろ、働く菜々美の為に家事全般を一手に引き受けて、家政婦の如く働いてくれているのには感謝する程だ。
今まで仕事の忙しさで自炊などしたことのなかった菜々美には、家でご飯を作って待っててくれる人がいるのは、奇妙な感じがする一方で、安心感もあった。
世の男性が結婚したがるのは、こんな風に安定した女性に家庭を守って欲しいからなのかもしれない。
キャリアウーマンもとっくに通り越し、既にオヤジ化が始まっている菜々美には、蓮が待っててくれるのは正直嬉しかった。
「先輩、今日は庭で栽培したミントでバスソルト作ってみました。お疲れのようだから、是非、お風呂でリラックスしてみてください」
満面の笑みを浮かべた蓮は、怪しげな白い物資が入ったガラスの瓶を目の前で振って見せる。
専業主婦も度を越して、自称ナチュラリストを気取ったカリスマ主婦の如しだ。
「ラベンダーのアロマオイルも作ってみました。寝る前にフットマッサージもいいですよ? 俺も時々使ってるので是非、試してみてください」
「うん、ありがとう……って、そうじゃないでしょーがっ!!!」
菜々美は、カルボナーラとサラダが並んだテーブルをバン!と叩いて、立ち上がった。




