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テーブルの上にはまだ温かいロールパン、淹れたてのコーヒーとブルーベリーのジャムがかかったヨーグルト。
ベーコン入りのトマトのサルサソースが掛かったスクランブルエッグはふんわりと柔らかそうで食欲を誘う。
これまたお手製のバターとマーマレードを菜々美に勧めながら、蓮は熱いコーヒーをカップに注いだ。
コポコポと音を立てて注がれるコーヒーから、濃厚な香りがキッチン中に漂う。
執事よろしくカップを菜々美に勧めると、蓮は満面の笑顔を見せた。
「さあ、どうぞ。お口に合えばいいですが」
「もちろんよ、全部美味しそうだもん。じゃ、お言葉に甘えていただきます」
菜々美は一人で手を合わすと、すぐにコーヒーに口をつけた。
さっきまでまだ薄暗かった空はようやく朝日が現れ、キッチンの窓から柔らかな日の光りが差し込んでくる。
昨夜、嵐の中で見た時はさながら蝋人形の館だったこの洋館が、明るくなれば小粋なカントリー風ペンションに見えるから不思議だ。
「先輩、これも食べてみて下さい。自家製の梨のコンポートです。あ、このパンはマーマレードがお薦めですよ」
「でも、マーマレード苦手なんでしょ?」
「俺はね。一般的には美味しい筈です。庭に夏蜜柑の木が植えてあるんですけど、二年前くらいからようやく実をつけるようになったんですよ。無農薬ですから安心して食べて下さい」
甲斐甲斐しく朝食の説明をする蓮を見て、菜々美は可笑しくなった。
昨日、嵐の中で再会した蓮は健康には程遠い、寧ろ、ドラキュラ伯爵のイメージだったのが、朝日の中で笑っている彼は明るい好青年に見える。
そう言えば、蓮の本当の姿を菜々美は知らない。
昔の後輩だとは言え、当時は話したことも記憶にないくらいに存在感の薄い少年だった。
少なくとも野球部に入っていたくらいの根性と体力は持ち合わせていた普通の学生だった筈だ。
こんな所に引き篭もっているのは、もしかすると気候の変わり易い山の中で一人でいた為に、余計にネガティブな発想をするようになったからかもしれない。
菜々美は、さっきまで考えていた事を口に出してみた。
「ねえ、滝沢君。私、やっぱり、あなたがこの山の中で一人で暮らしているのが、何だか良い事に思えないの。いくらお金があって働く必要がなくたって、社会から遮断された空間に一人でいたら、生きてる意味がなくなると思うのよ」
「生きてる意味ですか?」
黙って聞いていた蓮が、その言葉に反応して顔を上げた。
自分を説得するようにゆっくり頷いて、菜々美は更に続ける。
「そう、生きてる意味よ。働く事ってお金のためだけじゃないと思うの。仕事を通じて友達ができたり、知らない人と関わり合いになったりして、社会に自分の居場所を作る事も働くメリットだと思うのよね。それが目的で働いている人だって多いと思うわ。あんたの若さで社会と接点が全くない生活って寂しすぎるわよ」
「一理あるでしょうね。でも、人と関わり合いになりたくない人間はどうするんですか?」
蓮は両手を組み合わせて、頬杖をついたまま低い声で言った。
菜々美の答えを試しているかのように、ヘーゼルの淡い色の瞳が真っ直ぐに見つめている。
美形は素のままでも迫力があるのか、視線を合わせているだけで根負けしそうだ。
対抗するかのように、菜々美も精一杯開いた目で見つめ返した。
「もちろん、色んな人がいるわ。でも、そういう人間は引き篭もっていればいいのよ。でも、あんたは違うでしょ? 全身で寂しがってるのが分かるもの」
「俺、寂しがってますか?」
「だって、そうでなかったら、どうして道に迷った人にコーヒー出したり、誰も来ないのに梅酒やらマーマレードやら自分が食べない物を作り置きしてんのよ? 人恋しいから、そういう事するんでしょ?」
「そりゃ、時には人恋しいのは認めますけどね。だからと言って、俺は人間社会では上手く生きていけないんです。だから、せめて人様の迷惑にならないようにここにいるんですよ」
「どうしてそう思うのよ? 自覚してないのかもしれないけど、あんたは色んな才能を持ってるじゃない。ピアノだってすごいし、料理だって上手いし。その気になれば調理師だって、その顔ならモデルだってできるかもしれないわよ」
蓮は、熱くなって力説する菜々美を黙って見ていたが、やがて、シニカルな笑みを浮かべるとゆっくり言葉を返した。
「……先輩は俺を買いかぶり過ぎてます。ピアノが上手い人間なんてゴマンといるし、料理は好きだけど、俺がそれを仕事にしたら、要領悪くてすぐクビになりますよ。モデルなんて、若い頃ならまだしも、もうすぐ三十路の俺が採用される訳ないでしょ。もう色んな事が手遅れなんですよ。何かを始めるにはもう遅過ぎるんです」
「そんな事ない! 人生、何度でもやり直せるのよ。あんたがもし人間社会でやり直したいって言うなら、私、仕事の紹介はできるわよ。ウチの広告代理店、求人広告も扱ってるから、クライアントに紹介してあげるわよ」
「はあ……、例えば、どんな仕事ですか?」
「そうね、自動車部品の加工とか、居酒屋のホールの手伝いとか、あ、バイクの免許あれば、ピザの宅配なんてどう?」
「……その求人誌って、月間アルバイトニュースですよね」
「まあ、最初はアルバイトだけど、正社員登用制がある職場も多いわよ。未経験歓迎の仕事は職種も限られてくるから最初は頑張らないと。でも、30超えると職種が更に限られるわよ。探すなら今がチャンスよ。でも、蓮だったら、研修期間は2ヶ月で済むかもしれない。その間、社会保険はないけど……」
「もう、いいですよ、先輩。無理しなくても」
蓮は苦笑しながら、菜々美の言葉を遮った。
気がついたら、本人を置いてけぼりにしたまま、一人で興奮して熱弁を振るっていた。
菜々美は、蓮の言葉にはっと我に返る。
「あ、ごめんなさい……私、余計な事言ってるよね」
「いえ、心配して下さって感謝してますよ」
蓮は頬杖をついたまま、可笑しそうに言った。
「ありがたいですけど、俺も一応、社会復帰しようとした時期もあったんで、三十路近い無経験の男の商品価値は自覚してます。就職もなかなか難しいですよ。でも、先輩が思うほど、ここの生活が寂しい訳でもないんです。ほら、時々、カフェと間違えて訪ねてくる街の人もいますからね」
「じゃ、満足してるの?」
「名古屋で働くよりは、こちらの方が俺に合ってる気はします」
そう言って笑うと、蓮はコーヒーに口を付けた。
これが蓮の幸せなんだろうか?
人に迷惑掛けないように引き篭もっている山の暮らしが、蓮に一番合っている生き方なんだろうか?
答えが出ないまま、菜々美もコーヒーに口を付ける。
しばし、二人の間に沈黙が流れた後、蓮が口を開いた。
「ねえ、先輩。朝食が済んだら散歩でも行きませんか? せっかくだから、山の暮らしも楽しんでいって下さい」
「散歩って、この山の中を歩き回ったら遭難しそうじゃない?」
「だから、ここはそんなに隔離されている訳ではないです。この屋敷の近くに実は集落もあるんですよ。でないと、ここまで電気の供給されないじゃないですか」
「そう言えばそうよね」
「今日、仕事休みなら、買い物でも付き合って下さいよ。そろそろリンゴのジャムの季節ですから」
蓮は屈託無く笑って、焼き立てのパンに手を伸ばした。




