12
11月の朝の6時はまだ夜明け前のように仄暗い。
それでも、厚ぼったい灰色の雲が立ち込める空からは僅かな朝の光りが薄っすらと広がっている。
菜々美は玄関のドアをそっと開くと、山の空気に誘われるように庭に出た。
昨日の雨は夜の間に止んでいたようで、山の中はヒンヤリとした湿っぽい冷気に包まれている。
11月とは言え、山の気候は地上よりも遥かに変わり易く、気温も低い。
雨露でしっとり濡れた庭を歩きながら、菜々美は大きく深呼吸してみた。
体一杯に清々しい山の空気が流れ込んでくるのを感じながら、杉の木に囲まれた屋敷の敷地内をぐるりと見回す。
蓮が自家栽培していると言っていた野菜畑には、ネギやニラ、小松菜が規則正しく並んで植えられている。
昨晩の雨で増水している小さな池には、鯉くらいの大きさの魚がじっと身を潜めていた。
夕飯に食した虹鱒も生簀代わりのこの池で飼育されていたのだろう。
レンガで仕切られた小さな畑には、ローズマリーやラベンダー、その他モロモロの雑草と紙一重な風貌のハーブ類が所狭しと植えてあり、まさに自然の貯蔵庫と言った様相だ。
庭を取り囲む木製の柵には葉の落ちたバラの木が絡まり、これを外から見れば、魔女の隠れ家だと思われても不思議はない。
庭のあちこちに大きな水溜りが残っていて、昨夜の雨の激しさを物語っている。
今、菜々美が履いているパンプスだって、半乾きで心地いいとは言えなかった。
そのパンプスを見て、菜々美は昨夜、嵐の中わざわざ車を飛ばしてきた当初の目的を思い出した。
さすがの菜々美も、その顧客がまさか自分の後輩で、最後は一人で勝手に酔っぱらった彼と一緒に寝る羽目になるとは思っていなかったのだが。
「……やっぱり、このままじゃだめよ」
菜々美は朝日が差し始めた空を仰いで、そう呟いた。
『社会不適合者』
昨夜、蓮が言ったその言葉を思い返すと、この山奥に引き篭もる前の社会人時代に何かがあったであろう事は推測できる。
彼が言うように、この不況の中、毎日あくせく働いたところで大した稼ぎになる訳でもない。
お金に困っていないなら、誰にも関わらず、悠々自適な生活を送るのも人生のオプションの一つなのかもしれない。
だが、それは、そんな暮らしに適した人間だった場合だ。
少なくとも蓮はそうではない。
彼が用意した料理、自分は飲めない手作りの梅酒、いつでも誰かを招待できるように美しく整えられた一階のエントランス……。
それらが全て、蓮の心の孤独を如実に表わしているように思えてならなかった。
噂のイケメン紅茶王子の正体が、孤独を持て余す寂しがりの乙女男子だと分かった瞬間、菜々美の中に何かが生まれた。
「こんなダメ男を変えられるのは、あたししかいない……!」
それが単なる同情なのか、恋愛感情なのか、はたまた母性愛なのか自分でも分からないまま、菜々美はそう心に誓った。
紅茶王子はもっと世間に認められるべきだ。
多才な蓮の能力を活かす職業はきっとある筈だ。
この山の中にはなくても、多分、名古屋になら。
突如、頭の中に浮かんだアイデアを構想しつつ、菜々美は濡れた草を踏み締めながら元来た道を戻ってエントランスに入った。
「先輩、どこ行ってたんですか? ちょうど朝食ができました」
ホテルのロビーのようなドアを開けた瞬間、内側からちょうどドアを開けようとしていた蓮と鉢合わせになった。
さっきまでの寝起きの顔から一変して、いつもの爽やかな王子様の風貌に様変わりしている。
Tシャツの上から無造作にチェックのネルシャツを羽織って、細身のデニムパンツを履いた彼は、菜々美よりも遥かに年下に見える。
社会人経験が少ない分、老化も少ないらしい。
眩しいくらいに健康的な蓮の顔を見上げて、菜々美は若干、嫉妬を感じながら返事をする。
「空気が綺麗だったからちょっと庭を散歩してたのよ。本当に色んな野菜を自家栽培してるのね。なんか、グリム童話の魔法使いのお家みたい」
「そうですね。実際、薬草は自生してますから、知らない人が見たら魔法使いの家っぽいでしょうね。そんな事より、朝食ができましたからテーブルについて下さいよ」
「朝食って、あんたが作ったの!?」
「当たり前ですよ。他に誰がいるんですか?」
蓮は首を竦めて苦笑した。
一人暮らしでいつも起きるのは出社ギリギリ、朝食など長いこと食べていない菜々美には嬉しいサプライズだ。
「すごい! 朝食なんて久し振りよ。あんた、本当にいいお嫁さんになれそうだわ」
「はあ、先輩は朝ご飯食べないんですか?」
「食べないわよ。作る暇ないし」
「美容と健康に悪いですよ。だから、こんなに変わっちゃったんじゃないですか?」
「あんた、ケンカ売ってんの?」
ガンを飛ばした菜々美を見て、蓮は屈託なく笑った。
「言うくらいいいじゃないですか。俺はどうせ男として見てもらえないんでしょ?」
「あ、いやらしいわね! リベンジのつもり!?」
「とんでもないです。男として見られない男と朝食を一緒にして頂ける事にただ感謝してるんですよ、俺は」
「回りくどいのよ、言い方が! 男らしくないわね!」
「すいません。男に見えなくて」
「くどい!!!」
言葉に詰まってほっぺを膨らませている菜々美を見て、蓮は可笑しそうに声を上げて笑った。
この年下の社会不適合者に完全に遊ばれている。
だが、それが何だか心地良い。
菜々美も思わず釣られて笑い出した。
「まあ、続きはテーブルについてからにしましょうよ。自家製のパンと自家製のマーマレードを是非、試食して見て下さい」
「まさか、それも自分は食べれないとか言わないでしょうね?」
「ハハ……正直言えば、俺、マーマレードは苦手なんです」
「じゃ、なんで作ったのよ?」
「誰かが来ると思ったんですけど……先輩の為にですね、結果的に。さあ、コーヒーが冷めちゃいますよ」
蓮は菜々美の両肩を後ろからガシッと掴むと、キッチンに向かってぐいぐい押して歩いた。




