10
あたしの為にピアノ弾いてた!?
聞き捨てならないそのセリフに、菜々美の胸の鼓動が一際大きくなった。
言われてみれば、あの当時の蓮はオドオドしていて、決して合唱コンクールに前向きな姿勢ではなかった。
積極的に練習に参加するようになって、音楽室に毎日顔を出すようになったのはいつからだったのか……?
そのきっかけが自分だったと言われれば、今更ながらではあるが、ときめきを感じずにはいられなかった。
いや、寧ろ、醜いアヒルの子から美しい白鳥へと変貌を遂げた今だからこそ、無駄に期待をしてしまう。
「それって、もしかして、告白だったりする?」
「………」
返事の代りに、菜々美を抱き締めたというより後ろからへばりついている格好になっている蓮の顔から、スースーという寝息が漏れてくる。
規則正しく聞こえるその寝息は、彼が既に眠りについている事を物語っていた。
グニャリと軟体化した蓮の体は、やがて、スライムの如く床に向かってずり落ちていく。
「ちょ、ちょっと、こんなとこで寝ないでよ!」
「………」
床の上で仰向けにひっくり返っている蓮の脇腹を、菜々美は爪先でチョンチョン突いてみた。
微動だにしない彼の美しい顔は、僅かに微笑んでいて天使のようだ。
だが、この状況で取り残された菜々美には、それを愛でている余裕はなかった。
客をもてなすどころか、勝手に飲んで自滅するとはホストの片隅にも置けない。
「もう、梅酒一杯でここまで酔っ払うのが信じられないんだけど! ホラ、しっかりしなさい!」
床で軟体化している蓮の背中から、両脇に腕を差し込み、引き釣り上げてみる。
細身であるとは言え、眠っている成人男性の体を担いでベッドまで運ぶほどの体力も根性も、菜々美が持ち合わせている筈もない。
辛うじて持ち上がった蓮の上半身は僅か10秒後、ゴトン!と鈍い音を立てて床に落下した。
その衝撃が功を奏したか、ようやく意識を取り戻した蓮の目がうっすら開いて力ない声が漏れる。
「あー…、すいません。なんか眠くって……俺、酒弱いんです」
「見れば分かるわよ! 言っとくけど、あたし一人であんたを持ち上げて階段上がるとか無理だからね。意識がある内にさっさとベッドまで行くのよ。ホラ、肩貸すから掴まって!」
「ありがとうございます……」
弱々しく礼を言うと、蓮はノロノロと起き上がった。
Tシャツから伸びた長い腕が、茹でたタコのように赤く熱を持っている。
稀に見る下戸っぷりに、菜々美は呆れて溜息をついた。
「ほんとに弱いわね。ここまで酔っ払った人見るのって大学のコンパ以来だわ」
「あー…あれは辛かったです。僕は多分、体質的にアルコールを受け付けない人間なんですよ」
「アルコール受け付けない人間が、なんでわざわざ梅酒作ったのよ?」
「だって……いつか、誰かが来るかもしれないじゃないですか。一緒にお酒飲んで倒れても、面倒見てくれる誰かが……」
「呆れた! そんな殊勝な女、今時いる訳ないでしょ」
「そうですね……だから、ありがとうございます、先輩」
小柄な菜々美の肩にもたれるように、蓮は立ち上がると弱々しく笑った。
溜息の混じったその言葉は、熱っぽい吐息と一緒に菜々美の耳元を擽る。
鼓動が早くなったのに気づかないように、菜々美はわざとぶっきらぼうな口調で返した。
「もう、いいわよ。部屋、どこなの?」
「階段を上がって左に曲がった突き当りです」
ヨロヨロと覚束ない足取りの蓮を引き摺るように、菜々美は階段を上がっていく。
紅潮した蓮の横顔が至近距離に近づき、一段一段上がる毎にアルコールを含んだ熱い吐息が耳元に掛かった。
半分閉じられた目を縁取る長い睫毛を見ながら、菜々美はたった今聞いた蓮の近況報告を頭の中で反芻していた。
都会の暮らしに疲れて、誰もいない山の中で自由に生きる事を選んだ蓮。
確かにここなら、時間に縛られる事もなく、好きな事を好きなだけして一日が終わるだろう。
でも、それで人は幸せなのだろうか?
菜々美だって、広告代理店の仕事に満足している訳ではないが、社会で生きていれば付随してくる楽しみもある。
仕事を通じて友人ができるとか、時間がある時は仲間と飲みにいくとか、寧ろ、そんなささやかな楽しみの為に仕事を続けているようなものだ。
傍目に見ても計り知れないポテンシャルを備えた蓮が、誰にも評価される事なく、自分が楽しむ為だけに料理をしている。
自分が料理したものを自分だけで食べるのは悲しくないんだろうか?
その時、菜々美はハッと気づいた。
体質的に受け付けない梅酒を、蓮が毎年作っている理由……。
「あなた、本当は寂しかったんでしょ? 梅酒、誰かに飲んで欲しかったんだよね?」
「………」
返事の代わりに、蓮は頭を菜々美にコツンとくっつけた。
◇◇
蓮が指示した二階の奥部屋は、他の部屋とは全く違う様相だった。
「うん、生活感がある! 男の部屋はこうでなくっちゃね!」
ドアを開けた途端、部屋をグルリと見回した菜々美は満足そうに呟いた。
部屋の角に設置されたベッドの上には脱いだままの洋服が山になっており、床には本や雑誌が散乱している。
部屋の明かりを点けた途端に、想像以上にひどい男の部屋が顕になった。
蓮はフラフラしながら菜々美から離れると、服に埋もれたベッドに倒れこんだ。
バフン!という音と共に、ベッドから埃が舞い上がる。
「散らかっててすいません。まさか、この部屋に人を入れるとは思ってなかったんで、掃除もしてなくって……」
「自分の部屋は掃除もしないのに、一階はホテルみたいに綺麗だったわね」
「だって、誰かが来るかもしれないでしょう?」
「誰が来るのよ?」
「例えば、広告の営業の人とか?」
ベッドの上に仰向けになった蓮は、恥ずかしそうに笑った。
菜々美はその傍らに腰を下ろして、だらしなく横たわった後輩の顔を見つめる。
端正なその顔の裏に隠れた孤独が、垣間見えた気がした。
「滝沢君、あなた本当は、この生活に満足してないんじゃないの? なんだか全身で寂しい寂しいって言ってるみたい」
「やだなあ、そう見えますか?」
「見えるわよ。あなたさえ良かったら名古屋で仕事の紹介もするわよ? 一緒に名古屋に来ない?」
菜々美の言葉に蓮は考えこむように目を伏せた。
しばらく黙った後、ポツリポツリを言葉を吐き出す。
「ありがたいけど……さっきも言った通り、俺、社会不適合者なんですよ。大勢の人間の中で上手く生きていけないんです」
「そうは見えないわよ」
「よく言われますけどね。残念ながら人は見かけによらないんです。俺はダメな部類の人間なんですよ……」
そう言うと、蓮は寝返りを打って、服の山の中に顔を埋めた。
無防備に顕になった柔らかい栗色の髪に、菜々美はそっと触れてみる。
その指を、蓮の熱い手がそっと掴んだ。
彼の熱い体温を感じて、少し動揺する。
「先輩…、今日はありがとうございました」
服の山の中から、蓮の低い声が聞こえた。




