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この作品はフィクションであり、実在の人物、地名等とは一切関係ございません。
愛知と長野の境に位置する、とある山岳地帯を一台の真っ赤な軽自動車が杉林を縫うように走っていた。
山道の傾斜を乗り越えていく馬力のない軽自動車を運転しているのは、吉岡 菜々美。
ベージュの夏物スーツをサラリと着こなし、緩くパーマの掛かったセミロングの髪を無造作に纏めている。
小柄だが、スラリとした足には名古屋のアスファルトで履き慣らした黒いパンプス。
百戦錬磨のパンプスは、あちこち擦り切れているが、いまだ黒い光沢を放っていた。
小粋なOL風な外見に違わず、菜々美は恋愛よりも仕事を優先するデキる女だ。
少なくとも、齢30になって彼氏がいない理由を、彼女自身はそう位置づけている。
山に入ってから急に薄暗くなってきた空は、いまやどんよりとした雲に覆われ、雨が降り出すのも時間の問題だ。
「今日中に契約まで漕ぎ着けたいのに……この道じゃ、雨になったら帰れないかも」
菜々美はブツブツと独り言ちながら、どんどん細くなっていく山道のカーブを果敢に飛ばして行く。
街を離れて3時間は経っていた。
急カーブが多い山道では、反対車線から向かってくる車が全く見えない。
前方と、左サイドの崖に注意を払いつつ、菜々美はアクセルを踏み続ける。
馬力のない菜々美の軽自動車は、少しの上り坂でガクンとスピードが落ちてしまう。
山道は切り立った崖で、杉が競うように天に向かって伸びている。
どんよりとした空模様の中、空から降りてきた雲が崖を包んでいるのが、中国の水墨画のように幻想的だ。
この山道に入ってから1時間くらいは車を飛ばしている筈だが、目的地はいまだ見えない。
このまま走れば、山頂まで一気に昇ってしまいそうだ。
先の見えないこの山道を走り続けるのに、さすがの菜々美も一抹の不安を感じ始めた。
「本当にこの道でいいのかしら?」
ナビの画面を確認しても、道なき道を突き進んで行く現在地のアイコンが虚しく動いているばかりだ。
住所から検索した目的地まで後15分。
予定到着時刻は16時だ。
かなり近い所まで来ているのは間違いないのだが、延々と続く杉並木を見ていると異世界に迷い込んでしまったのではないかと、妙な心配をしてしまう。
おまけに空から降りてきた雲が霧のように山道にたちこめ、神隠しにでも合いそうな天候になってきた。
いや、その場合は遭難か。
思わずゾッとして、菜々美は更にアクセルを踏み込んだ。
「じょ、冗談じゃないわよ。こんなところで30才独身のまま死ぬわけにはいかないんだから。ここまで自腹で交通費かけて、プライベートの休み使ってきたんだから、契約取るまで諦めないわよ……!」
焦る気持ちとは裏腹に、霧で前方の視界はどんどん悪くなってくる。
菜々美はライトを点けて、ワイパーを動かすと、フロントガラスの水滴が左右に散って、少し視界が開けた。
やがて、上り坂だった山道は緩やかに蛇行し始め、杉並木に囲まれていた辺りの景色は、深い森になった。
『目的地周辺です。ルートガイドを終了します』
突然、ナビのアナウンスが入って、液晶画面の現在地のアイコンが消えた。
菜々美はギョッとして、辺りを見回す。
目的地どころか、そこはどう見ても人間が住んでいるとは思えない原生林の真ん中だった。
「ちょ、ちょっとお!ここで目的地周辺ってどういう事よ!? 教えてほしいのはここから先なのにい~!」
こんな辺鄙な山道に後続の車が来るとは思えなかったが、一応、ハザードランプを点けて、車を左に寄せた。
時刻はナビの予定通りジャスト16時だ。
だけど、霧に包まれた原生林は既に暗くて、夜中のように静まり返っている。
取り敢えず車から降りると、菜々美は車道から森の中に少しだけ足を踏み入れ、辺りをグルリを見回して見た。
鬱蒼と生い茂る広葉樹の森は、ゴブリンが出て来ても違和感を感じないくらいの不気味さだ。
風に煽られた大木が ザワワ……と音を立てて、菜々美は一瞬で総毛立った。
車に慌てて駆け込み、使い古した仕事用トートバッグから携帯を引っ張り出す。
この時間なら、まだ事務所に誰か残ってる筈だ。
詳しい場所を、ネットで検索してもらおう。
そう思って携帯を開くと、何と圏外のマークが付いている。
「ま、まさか、あたし、こんな所で誰とも連絡取れないって事!?」
ぞっとしながら、菜々美は呟くと、携帯をトートバッグの中に力なく押し込んだ。
辺鄙な場所だと想像していたとは言え、まさか辿り着けないとは……。
たかが愛知県だと思って、山を甘く見ていた。
フロントガラスには、さっきからパラパラと降っていた雨の粒が、だんだん激しくなって雨音を立て始めた。
ゴロゴロ……という地響きのような雷の音も、遠くから響いてきた。
山の天気は変わるのが早い。
こんな所で立ち往生していたら、嵐の中をさっきの山道を逆戻りする羽目になるだろう。
名古屋周辺の顧客を訪問する時に営業車を使う程度のドライバー歴の菜々美には、雨で視界の悪い山道を下って行くなんて、狂気の沙汰に思われた。
「やーだあ! もお、どーしたらいいのよ!」
誰も居ないのを承知で、菜々美はヒステリックに怒鳴ると携帯を後部座席に放り出した。
と、その時。
本格的に暗くなった原生林の奥に、オレンジ色の明かりが見えた。
雨脚が強くなった森の中にぼんやりと揺らめくその光は、菜々美にとっては、あたかも遭難した船を導く燈台の灯火のように明るく見えた。
「あ、あそこに間違いないわ! とうとう発見したわよ、『紅茶王子のピアノカフェ』!」
菜々美はエンジンを掛けると、軽自動車を原生林の中に乗り入れた。
まさか、こんな所で駐禁取られる事はないだろう。
オレンジ色の光が揺らいでいる場所までは、車道が繋がっていないようだ。
つまり、自分の足で歩いていくしか方法はない。
意を決した愛美はトートバッグを掴むと、本降りになってきた雨の中に飛び出して、一心不乱に光の方角に向かって走り出した。




