鈴森呉葉にまつわる、彼女の話。
いわゆる死にネタです。苦手な方はご注意ください。
正直、両頬を往復で張った後に拳骨をくれてやってもあきたらない。
ようするに、腹が立つ。
なのに対象、奴、彼、鈴森呉葉は、私の目の前にいない。その点についても腹が立つ。煮えくりかえったこの感情、どうにもおさまらない。
最後に会った時の、小憎たらしい微笑いがまなうらに焼きついている。
彼は、呉葉は、微笑いながら言ったのだ。
『子どもがほしいな』
と。
『男でも女でもいいな。僕と藍夏さん、どっちに似たって、絶対可愛げなんて期待できないだろうから』
笑えない冗談だと思った。事後に、ふざけた妄想をかたって楽しいのか、と。
一体現実的ではなかった。でも、彼の眼は本気で、それが少しだけ、怖かった。
『名前は、色が入ってるといいよ。あなた美術講師だし、名前『藍』夏だし』
肌寒い冬の朝だった。室内なのに吐息が白く凝った。凍った空は張り詰めたように青くて、少しも温かくない陽光が光の棘のように目を焼いた。
『くれない、なんてどうだろう。『呉』の『藍』。藍夏さんが僕のものになったあかしだ』
その時、なんて答えただろう?きっと、いつもの戯言が戻ったのだと、軽く流してしまったんじゃなかったか。
『語呂がわるいかな。でも、色でたとえるなら、赤がいい。鮮やかな 赤。そんな風に、鮮烈に生きてゆける子になったら、と思うよ』
『それは、鈴森君一流のプロポーズなわけ?』
『そう思ってくれて構いませんよ?ああ、でも・・・・』
未来なんて、わからないから。
言って、微笑った。
彼に会ったのは、それが最後。本当に、最後。
大当たりだ、このやろう。
彼の訃報を受け取った日、妊娠が発覚した。
何の置き土産だ。そしてあの戯言は、やはり本気であったのか、とも。
堕胎は可能だった。
勤務先にどう話したらよいものか、社会人一年生には言い出しにくかったし、未婚の母にはまだまだ風当たりの厳しい社会だった。半分家出同然で進学就職した手前、家族には言い出せなかった。
でもなぜか、私の頭には、産む、という選択肢しか、残らなくて。
してやられた。まんまとはめられた。鈴森呉葉という男に。
『藍夏さんだけでいい。僕を忘れないで』
いつかした約束を、決定的にされてしまった。
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……まさか、息子に奴を見るとは思わなかった。
17歳になった息子、楓が、いそいそと出かける支度をしている。デートらしい。
ついこのあいだまでオムツをしていたと思ったのに、色気づきやがって。月日が経つのは早い。
日曜の朝はついぼんやりしてしまう。ぼんやりして、埒もない回想が寝ぼけた頭をよぎっていた。
あれから、いろいろあったものだけど、今は結構幸せだ。
転職先はいいところだし、父親との確執だって、楓という緩衝材があったせいかずいぶん穏やかになっている。
楓は、高校三年生になった。
姉の娘、従姉にあたる茜子ちゃんにベタ惚れで、傍で見ていて空恐ろしい。
あんなふうに真っ直ぐに、呉葉も見つめていたのだろうかと。
顔立ちはあまり似なかった。でも、ふとした瞬間の表情が、鮮烈に残った呉葉の印象と重なる。
こんなところにいたのかと、ときどき思考が遡る。楓がもうじき18歳になるからかもしれない。
呉葉が死んだ、18になるからかも、しれない。
彼は知っていた。
自分が二十歳を越えられないことを。
いつ死んでもおかしくないのだと。
彼は、知っていて、孕ませた。残された方の気も知らずに。
(や、知ってたのかもしれない。あの賢しい奴が、そんな短慮するはずがない)
では考慮した上での行為か。それにしては出来すぎている。避妊してたってそれが絶対ではないと知っているけど、あのとき自分で確認したのに、彼がどうやって避妊を避けたのか。乏しい経験では推測しかできなかった。もしかして偶然にかけたのだろうか。
(……でも、なーんでか、絶対確信犯だとおもうのよねぇ)
真相はわからない。墓に文句を言う趣味はないので、場所は知ってても一度だって墓参になんか行ったことがなかった。あまのじゃくの意地っ張りと、例の小憎たらしい微笑みで言う姿が目に浮かぶ。それもしゃくなので、いつか一度は行きたいと思った。その時は楓を連れて。その時に話してもいいだろう。
「母さん、寝てんの?」
いつの間にか目をつむっていたらしい。問いかけにはっと声の主を向けば、すっかり出かける準備が整っている。
ずいぶん育ち切った図体を椅子に座ったまましげしげ見上げて、思わず真面目に言ってしまう。
「楓…あんた、お願いだから茜子ちゃん孕ませないでよ?」
「…………それ息子に言うことじゃない」
憮然として息子は言い返す。確かに母親から言われたくないだろうが、楓には前科がある。
茜子ちゃんに強引にいいよって泣かせた過去を、母はしっかりと茜子ちゃんの弟妹から聞き及んでいるのだ。
「いいから、絶対よ?」
「そんなに信用ないわけ?今日は図書館だって言ったじゃん、昨日」
いささか不機嫌に言う。わかってはいるのだが、いかんせん父親の例がある。
君は、愛し方が呉葉に似てる。とても。しかしそれで泣くのが可愛い姪っ子とあれば、叔母として、同じ女として守ってあげたくなるのは茜子ちゃんの方だ。茜子ちゃん健気でかわいいし。
「どっからどこまでが犯罪じゃないのか、母としても止め所が難しいのよ」
「……もういい。いってきます」
「いってらっしゃい。がんばれ受験生」
男の顔になった楓に、一抹の寂しさを覚える。が、これは母親の感傷だ。
いつか巣立っていく子どもの足枷になるような母親にだけは、死んでもなりたくない。自分がそうだったからかもしれない。
呉葉との間に愛はあったのか。わからない。今となってはもう遠すぎて遅すぎる過去。
ただいらない苦労をさせた楓には、伝えたい。話したい。
馴れ初めというほどのことはない、君が生まれた成り行きを。
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譲原 藍夏呉葉の高校に、産休代理で雇われた美術講師でした。学芸員になるために家出同然で美大に入った。
鈴森 呉葉享年17歳。彼についてはおいおい。
譲原 楓高三。紅葉の盛に生まれました。くれないという名前はつけられることはありませんでした。
大山 茜子高三。三つ子の長女で、妹と弟がいます。楓にふりまわされること十数年。まだ慣れません。
という、鈴森呉葉にまつわる、藍夏さんの話。