クローゼットにしまった過去 / 為世 斐文
人々は利己的だ。心からの他者への思いやりが欠けている。
首謀者。傍観者。無知なる者。全てが許せない。決して許してはならない。
私は昔にそう固く決意した。
小鳥が囀る明け方、重たい体を起こしてカーテンを開けた。まだ空は所々暗い。
「うわっ……」
近隣の窓に反射した太陽光が、暗さになれた私の目を焦がした。
朝もまだ五時。本当なら制服を着て、荷物をまとめているころだ。でも、そんなことを考えると疲れる。それは私が不登校で自室に籠っているからだ。
スカート、ブレザー、掠れたマッキーで無駄に丁寧に書かれた「新村 美奈」という私の名前の教科書の束束。学校に関するものは全て、今じゃ開くことのないクローゼットに乱雑にしまった。
それでいい。学校にはもう行かない。行きたくないわけではない。行けないのだ。
私たちを踏んで、何も反発しないからって調子に乗る。だから、首謀者は嫌いだ。
私たちを見ては、そうなりたくないからって見て見ぬふりをする。だから、傍観者も嫌いだ。
そして私は、私も同様に〝嫌い〟だ。
人を救った? 救世主になった? そんなつもりでいる。過去に親友を見殺しにしておいて何を言う。止められなかったんじゃない。止めなかったんだろ? そう全て自分が悪い。
あの時の私が無知な傍観者で、日常に縋ってなんていなければよかった。
後の祭りで見えたのは、残照の海に飛び込む親友の姿。その海の波に捕らわれ、命の灯火が流されていく。その姿を萎縮した体で、ぼやけた視界で、ただただ見ているのが精一杯だった。
だから私は、利己的な人間が、私が〝大嫌い〟だ。
夕方、この時間になると今頃一人の男子生徒が家に訪ねて来るようになった。その男子生徒とは一方的な話しだけをする。無論、私は喋らない。
「駅前にパンケーキ専門店が出来たんですよ」
どうだっていい……
こんな風に。
「今日の夕日はとても綺麗で、川に映って反射してたんですけど、見ますか?」
そんなのどうだっていい……
「あ、さっき子猫がいたんですよ。写真見ません?」
「どうだっていい! 帰って……!」
煮え切る腹で声を出す。本当はこんなことも言いたくはない。
「分かりました。じゃあまた来ますね」
この男子は私が何か言うと全てを聞いてくれる。いや従順に聞いてくる。そこが嫌いだ。
それはまるで、利己的な人間に仕立てあげられている感覚になるから。
そんな日を何日も繰り返していると、次第に少しだけ話しに耳を傾ける機会が増えてしまった。
心を開いた訳じゃない。それは自分を、利己的な人にしたくないからだ。
でもそれより……
「なんで、毎日来るの……?」
平日はもちろん、この男子は土日祝も家にやってきては話だけをして、私が嫌と言うまで帰らない。極めて利己的だ。
「それは……美奈さんは分かるんじゃないですか?」
「いや、別に分からないけど」
「あー……一年ほど前だから覚えてないですかね」
やっぱり……
声で予想はしていたが、この男子生徒は私が不登校になる直前に、家に行ってまで助けようとした元不登校の生徒だ。
親友の罪悪感を消したかったから、もう二度とあんな姿を見たくなんてなかったから、そんな気持ちの偽善行為で助けた男子だ。
でも、偽善であろうと実例の"助けた"を味わった瞬間であるのに、私は素直に喜べない。
理由が理由だ。無理もないだろう。
「あなたの家に行ったのは一日だけだった」
「日数じゃなくて、与えてくれた恩恵の大きさですよ」
男子生徒の顔は見えていない。 でも、声色だけでもどこか表情が見えてくる。
「美奈さんは僕に大きな影響を与えてくれたんです」
真面目な顔をしている。
「そんな事ありえない……」
「本人が言ってるのに、何言ってるんですか」
笑っている。
「でもやっぱり優しいんですね」
微笑んでいる。
「僕はそんな美奈さんの性格に救われましたよ」
……分からない
表情もそうだけど、言っている意味が分からない。私が一体何をしたと言うのだ。
今日はその後、あまり話さずに帰した。頭が追い付かないから話しても無駄だと思った。
夜、どうだっていいのに、一日に聞いた言葉がそれだけしかないから男子の言葉がずっと頭に残る。
私が救った……
そんな馬鹿げた話は存在しうるのだろうか。
翌日も男子はやってきた。
「美奈さん、水族館行かない?」
水族館……?
「親が水族館の管理人で、無料入館のチケットを二枚貰ったんですよ」
親が管理者? すご……
「考えとく……」
「ぜひ前向きに」
また笑った。男子が笑う度、どこかで動いている心がある。温かくて、心地よくて、嫌な気分じゃない。でも、よくわからない感情だ。
「また連絡しに来ますね」
そう言って男子は帰って行った。男子は最後も笑顔だった。
それから何日か経ったある日、今回は日数を開けて男子が家にやって来た。
男子が来ない日はやけに静かで、冷たくて、落ち着かない気持ちがした。来ないで欲しいと思っていたのに、いざ来なくなると本当の孤独を感じて嫌になる。実に滑稽だ。
「水族館行く気になりました?」
声を聞くだけで安心する。利己的で嫌っていたはずの男子が、いつの間にか私に必要な存在になっている。
「ねぇ、あなたは私を助けられる?」
そう問うと、扉の奥から物を置く音が聞こえた。きっと長く喋る気だ。
「もちろんです。美奈さんをいじめからでもなんでも、助けるために僕はここに来てるんですよ」
いじめ……
「みんな利己的よね……」
「あれ、警戒抜けました?」
あ……
笑っている。とても笑っている。気恥ずかしいけど、それがうれしい。
「……僕もそう思います。美奈さんは利己的な人が嫌いなんですね」
「うん。大嫌い。先生も親も……みんな利己的。嫌になる」
「じゃあ、〝自分は利己的ではない〟と」
男子は私の心を突き刺した。それだけは言われたくない。分かりきってるから、触れてほしくなかった。
「何か、見落としてません? 〝忘れ物〟してません?」
「そんなの分かってるよ……!」
裏切られたショックで声を荒げた私に、男子は小さい溜息で返事を返した。
男子に当たっても解決しないことはわかる。でも、それは言われたくない。
男子はずっと黙ったまま、音も一つとして立てない。嫌われただろうか。もう来ないと言ったらどうしようか。そんな考えが後悔とともに頭を巡る。
「ここでずっと引きこもるんですか?」
間を置いて聞こえた男子の声色は、表情は、呆れに近いものを感じた。
男子が言ったことは、見ないようにしていたものだ。
周りを利己的と決めつけて、勝手に自分を悲観して、それに縋って生き続けてきた。私が随分と利己的だと言うことは分かっていた。
でもそれを私に当てはめてしまえば、私が死にたくなる事も同時に分かっていた。
「じゃあどうすればよかったの……」
過去には戻れないのに過去に縋る。本当に滑稽だ。
「僕はいつも、外にいます。美奈さんが忘れ物を見つけてくるまで待ってます」
優しい顔をしている。
男子の言う忘れ物を見つければ、私もまた立ち直れるのだろうか。
それは私の思っていることじゃない、もっと重要なものなんだろうか。
「時間がかかってもいいんです。ゆっくりでも、自分のペースで進めばいいんです。僕はいつでも味方ですよ」
急ぐ心に、男子は温もりをもって優しく背中を支えた。
会いたい……
衝動のように、その言葉が頭に浮かんだ。
「……絶対いて」
「もちろんです」
私は久しぶりに外に出ることを決意した。男子と顔を見て会いたいから。
震える手で、クローゼットに手を添えた。




