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透明な壁  作者: はまゆう


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第四回 告白前夜

一 健吾

限界というのは、ある日突然やってくるものではない。

じわじわと、砂が積み重なるように来る。一粒一粒は軽い。でも積み重なれば、人間は動けなくなる。俺の場合、その砂が何年分も積み重なって、気づいたときにはもう、立ち上がることすら重かった。

麻衣の最後の抗がん剤投与から、三週間が経っていた。

主治医は「経過は良好です」と言った。

その言葉を聞いた帰り道、俺は駅のホームで、電車を一本見送った。理由はわからない。ただ乗れなかった。ホームのベンチに座って、線路を見ていた。

電車が来て、行って、また来た。

俺はまだ座っていた。


良好、という言葉が、俺に何かの許可を与えた。

麻衣が生きている。回復している。峠を越えた。

そう確認できたとき、俺の中で長い間張り続けていた何かが、ゆっくりと緩んだ。緩んだ場所から、ずっと押し込めていたものが、滲み出てきた。

疑念が、戻ってきた。

病気の間は、奥に引っ込んでいた。引っ込んでいたのではなく、俺が必死に押し込んでいた。麻衣が死ぬかもしれないという恐怖が、他のすべてを塗り潰していた。でも恐怖が薄れると——その下にあったものが、顔を出した。

河村の名前が、久しぶりに頭に浮かんだ。

山瀬の顔が、浮かんだ。

あのスマートフォンの画面の、冒頭の数文字が、浮かんだ。

電車を、また一本見送った。


家に帰ると、麻衣がソファに座っていた。

本を読んでいた。

最近の麻衣は、よく本を読む。仕事を休んでいるからというだけではないと思う。病気になってから、何かを読むことで、自分の内側を確認しているような気がした。何を確認しているのか、俺にはわからないが。

「遅かったね」

麻衣が顔を上げた。

「ちょっと寄り道した」

「どこに」

「どこにも。ホームで座ってた」

麻衣が少し眉を寄せた。心配したのだと思う。でも何も聞かなかった。

この人はいつも、踏み込む場所を心得ている。踏み込まないことで、俺を守ろうとしているのか。それとも踏み込めば、自分も傷つくと知っているのか。

どちらにしても——今夜の俺には、その優しい距離感が、少し遠かった。


夕食を食べながら、俺は麻衣を見ていた。

見ながら、数えていた。

この人と過ごした時間を。出会ってから五年。結婚して三年。その三年の間に、何度深夜に帰ってきたか。何度シャンプーの香りが違ったか。何度俺は眠ったふりをしたか。

数えられるものではなかった。

でも体は覚えていた。

一晩ごとに、一粒ずつ、砂が積み重なってきた。その重さを、体は正直に覚えていた。

「どうしたの、ぼーっとして」

麻衣が言った。

「なんでもない」

俺は箸を動かした。

なんでもない、という言葉が、これほど嘘くさく聞こえたことはなかった。


二 麻衣

健吾がホームで電車を見送っていた、と聞いたとき、私は本のページを繰る手を止めた。

でも何も聞かなかった。

聞けなかった、ではない。聞かなかった。

健吾の顔が、ここ数週間で変わってきていることを、私は知っていた。病気の間は、あんなに穏やかだった。心配と愛情だけが、顔に出ていた。でも体調が戻るにつれて、健吾の目の奥に、別のものが戻ってきた。

あの目だ。

何かを押し込めている目。何かを聞きたいのに、聞けないでいる目。

私を見る目が、少しずつ、遠くなっている。

病気の間、あんなに近かったのに。


回復していくことが——怖かった。

おかしな言い方だと、自分でも思う。病気が治るのは良いことだ。当たり前だ。でも回復するにつれて、私は何かを失っていく気がした。

病気の間だけは、健吾が全部を後回しにしてくれた。疑念も、嫉妬も、聞けない問いも、すべてを棚の上に置いて、ただ私の傍にいてくれた。

でも棚の上のものは、消えたわけではない。

私が元気になるにつれて、健吾はまたそれを、手に取り始めている。

当然のことだ。

私がそうさせた。私がそうなるようにしてきた。健吾を傷つけたのは私だ。だから健吾が棚の上のものを手に取っても、私には何も言えない。

言えないまま、夕食を食べた。

健吾の箸の動きが、どこかぎこちなかった。


夜、健吾が先に眠った。

珍しかった。いつもは私の方が先だった。

眠っている健吾の横顔を、私はしばらく見ていた。

疲れた顔だった。

病気の間、ずっと私のために疲れていた。でも今夜の疲れは、種類が違う気がした。介護の疲れではなく——もっと古い、もっと深い場所からくる疲れだった。

この人は、限界に近いのかもしれない。

そう思ったとき、私の胸に、奇妙な感覚が生まれた。

怖い、ではなかった。

——話さなければ、と思った。

今まで一度も思わなかったことを、初めて思った。隠し続けることが、もうこの人には残酷だと思った。知らないふりを続けさせることが、私にできる最大の優しさだと信じてきた。でも——

知らないふりを続けさせることは、この人の時間を奪うことだ。

健吾の人生から、正しく怒る機会を、正しく悲しむ機会を、正しく選択する機会を、奪い続けることだ。

それは優しさではない。

私が楽でいるための、私のための沈黙だ。


眠っている健吾の寝息を聞きながら、私は決めた。

聞かれたら、話す。

もし健吾が聞いてきたら——今度こそ、逃げない。

聞かれなければ、話せないかもしれない。私にはまだそこまでの勇気がない。でも聞かれたら、答える。全部、答える。

そう決めたとたん、不思議なくらい眠くなった。

長い間、眠れない夜を過ごしてきた。でもその夜は、決意が体を緩めたのか、すぐに意識が遠くなった。

眠りに落ちる直前、健吾の寝息が聞こえた。

穏やかな呼吸だった。

この呼吸を、これからも聞いていたい。

それだけを思いながら、私は眠った。


三 健吾

翌朝、俺は早く目が覚めた。

五時前だった。

麻衣はまだ眠っていた。最近は睡眠が深くなってきた。体が回復してきた証拠だと、医師が言っていた。

俺はベッドを出て、キッチンに立った。

何かを作る気にはなれなかった。ただ、立っていたかった。

窓の外はまだ暗かった。

夜明け前の、一番静かな時間。街の音が、完全に止まる時間。

俺はその静けさの中で、ずっと考えていたことを、もう一度取り出した。

聞くか、聞かないか。

それだけだった。

三年間、俺が問い続けてきた問いは、結局それだけだった。複雑なようで、単純だった。二択だった。聞くか、聞かないか。

聞けば、何かが壊れるかもしれない。

聞かなければ、俺が壊れる。

どちらを選んでも、何かが壊れる。ならば——


米を研いだ。

水が濁った。

流して、また入れて、また研いだ。

三回繰り返すうちに、水が透明になった。

その透明さを見ながら、俺は思った。

透明になるまで、時間がかかる。一度では無理だ。何度も繰り返さなければ、濁りは取れない。

俺たちの間にあるものも——そういうものかもしれない。

一度聞いて、全部が解決するわけではない。一度話して、すべてが透明になるわけではない。でも、始めなければ、永遠に濁ったままだ。

炊飯器のスイッチを入れた。

コーヒーを淹れ始めた。

二人分。


麻衣が起きてきたのは、七時を過ぎた頃だった。

ウィッグを被って、薄く化粧をして、でもまだ眠そうな目をして、リビングに入ってきた。

「おはよう」

「おはよう。コーヒー、淹れてある」

「ありがとう」

麻衣は椅子に座って、コーヒーカップを両手で包んだ。

その仕草が好きだった。

いつも両手で包む。冷たい手を温めるように。俺はずっとそれを見てきた。五年間、この仕草を見てきた。

「今日は何か予定あるか」

「特にない。のんびりしようかと思って」

「そうか」

沈黙があった。

いつもの沈黙だった。でも今朝は——少し質が違った。何かを待っているような沈黙だった。

俺は窓の外を見た。

秋の朝日が、弱く差し込んでいた。


「麻衣」

声に出た。

自分でも驚いた。決めていたわけではなかった。でも口が、勝手に動いた。砂が限界まで積み重なって、崩れるときは静かに崩れる。音もなく、前触れもなく。

麻衣が顔を上げた。

コーヒーカップを持ったまま、俺を見た。

その目が——待っていた。

間違いなく、待っていた。いつ来るかわからないものを、でもいつか来ると知っていたものを、静かに待っていた目だった。

「俺は——」

始めた。

「ずっと、聞けなかったことがある」

麻衣はカップをゆっくりテーブルに置いた。両手をテーブルの上に出して、重ねた。

その手を、俺はまっすぐ見た。

細い手だった。

病気の前より、確かに細い。点滴の痕が、まだ薄く残っていた。

こんな手に向かって、俺は何を言おうとしているんだ。

一瞬だけ、躊躇した。

でも——

この手を本当の意味で握るために、言わなければならない。


「河村という男のことだ」

名前を出した瞬間、空気が変わった。

部屋の温度が、一度だけ下がった気がした。

麻衣の指先が、かすかに動いた。逃げようとして、でも逃げなかった。テーブルの上に置いたまま、動かなかった。

「あの忘年会の夜から、俺には——わかっていた。全部じゃない。でも輪郭だけは。それからスマートフォンの画面を、見てしまったこともある。見ようとしたわけじゃない。でも見た。ずっとそれを抱えて、聞けなかった。病気になってからは、なおさら聞けなかった」

声が、少し震えた。

震えながら、続けた。

「でも——知りたい。怒鳴りたいわけじゃない。責めたいわけでも、たぶん、ない。ただ——お前のことを、ちゃんと知りたい。俺が三年間愛してきた麻衣が、本当の麻衣かどうか。それだけが——」

そこで、言葉が尽きた。

情けなかった。

何度も頭の中で練習してきた言葉が、声になると、こんなにも不格好だった。論理でも、冷静でもなかった。ただの、懇願だった。


四 麻衣

健吾が「河村」という名前を言った瞬間、私の体は固まった。

でも逃げなかった。

逃げない、と決めていたから。

健吾の声が震えていた。三年間、一度も震えを見せなかった声が、震えていた。それがわかった瞬間、私の目が熱くなった。

泣くまいと思った。

泣いたら、言い訳になる。涙で、言葉を濁してはいけない。

「知っていたのね」

私は言った。

問いではなかった。確認だった。

「ずっと知っていて、ずっと黙っていてくれたのね」

健吾が頷いた。

声が出なかったのだと思う。頷くことしかできないほど、限界だったのだと思う。その限界を、私はずっと作り続けてきた。この人をここまで追い詰めたのは、私だ。

「ごめんなさい」

言った。

たった六文字だった。

三年間、一度も言えなかった六文字だった。言ってしまえば、続きを話さなければならない。続きを話せば、終わりが来るかもしれない。だから言えなかった。

でも今日は、言えた。

言えたのは——健吾の声が震えていたからだと思う。震えていい、とその声が教えてくれた気がした。


「全部、話す」

私は言った。

「話したい。でも——」

一度、目を伏せた。

テーブルの木目が見えた。細い線が、いくつも並んでいた。それを見ながら、私は続けた。

「全部話したら、健吾は、どうするの」

怖かった。

この問いを、ずっと怖れていた。話した後の健吾の顔が、想像できなかった。怒るのか、泣くのか、黙って出て行くのか。どれも怖かった。でも一番怖いのは——話した後に、健吾が変わることだった。あの目が、変わることだった。

健吾が少し考えた。

すぐに答えなかった。その正直さが、今の私には必要だった。軽々しく「大丈夫だ」と言われたら、信じられなかった。

「わからない」

健吾は言った。

「でも、お前のいない答えより、お前のいる問いの方がいい」


その言葉が、私の胸の奥の、一番かたくなっていた場所に、届いた。

鎧が、剥がれた。

病院のベッドで剥がれたときとは、違う剥がれ方だった。あのときは体が剥いだ。今日は、言葉が剥いだ。

涙が出た。

声は出なかった。ただ、涙だけが出た。拭かなかった。拭く必要がない気がした。この涙は、隠さなくていいと思った。


私が話し始めたのは、それから少し後のことだった。

コーヒーが冷めて、部屋が静まり返ってから。

最初は声が出なかった。喉の奥が、固くなっていた。でも一度出始めると、止まらなかった。堰を切ったように、ではない。静かに、確実に、流れるように——言葉が出た。

河村のことを話した。

最初の夜のことを話した。

怖かったこと。断れなかったこと。断るという選択肢が存在しなかったこと。それがいつの間にか習慣になっていったこと。

山瀬のことを話した。

健吾との間に膜を感じ始めた頃のことを話した。逃げ場を探していたこと。軽さに救われたと思っていたこと。救われていたのではなく、ただ逃げていただけだったこと。

結婚してからも続けてしまったことを話した。

やめようとして、やめられなかったことを話した。

糸が絡まっていたことを話した。切り方を知らなかったことを話した。

健吾に話せなかった理由を話した。

話せなかった理由が、健吾を守るためではなく、自分を守るためだったことを話した。

全部話した。

話しながら、私は健吾の顔を見られなかった。テーブルの木目を見ていた。細い線が、いくつも並んでいた。


五 健吾

麻衣が話している間、俺は黙って聞いた。

何度か、拳を握った。

何度か、目を閉じた。

何度か、立ち上がりたくなった。

でも、席を立たなかった。

立ってはいけないと思った。立ったら、麻衣の声が止まる。一度止まったら、もう二度と聞けない気がした。だから俺は椅子に根を張って、聞いた。全部、聞いた。

河村のこと。

山瀬のこと。

それ以外の名前も、出てきた。

大御所の芸能人、クライアント、巨大宗教法人の事務局長、議員、...。

名前が出るたびに、胃が痛かった。想像していた以上のことを、想像していなかった形で聞いた。でも——

麻衣の声が、震えていた。

その震えが、俺を椅子に縫い留めた。

怒鳴りたかった。怒鳴れなかった。怒鳴ることより、聞き続けることの方が、今の俺には必要だった。


麻衣が話し終えたのは、日が傾きかけた頃だった。

部屋がオレンジ色になっていた。

コーヒーはとっくに冷めていた。

俺たちは向かい合って座ったまま、しばらく黙っていた。

麻衣がようやく顔を上げた。

目が赤かった。泣いていたのか、泣くまいとしていたのか、その両方か。

俺は麻衣の顔を、まっすぐ見た。

きれいだと思った。

こんな瞬間に、きれいだと思う自分が——もう悲しくなかった。そういう人間なのだと、受け入れた。

「全部聞いた」

俺は言った。

「全部か、どうかはわからないが、お前が話してくれたことは、全部聞いた」

麻衣が小さく頷いた。

「怒ってる?」と、麻衣が聞いた。

俺は少し考えた。

「怒ってる」

正直に言った。

「悲しい?」

「悲しい」

「それでも——」

麻衣の声が、少し詰まった。

「それでも、そばにいてくれる?」


俺はすぐには答えなかった。

答えられなかった。

怒っている。悲しい。それは本当だ。この怒りと悲しみが、明日消えるとは思えない。明後日も、来週も、ふとした瞬間に戻ってくると思う。河村の名前が頭に浮かぶ夜が、また来ると思う。眠れない朝が、また来ると思う。

でも——

「わからない」と俺は言った。「全部うまくいくかどうか、わからない。でも——」

窓の外の、オレンジ色の空を、一度見た。

「お前のいない答えより、お前のいる問いの方がいい。それだけは、変わらない」

同じ言葉を、もう一度言った。

今度は、さっきより確かな声で。


麻衣の目から、涙が一粒落ちた。

拭かなかった。

俺も、何も言わなかった。

ただ、テーブルの上に出ていた麻衣の手に、自分の手を重ねた。

冷たかった。

いつものように、冷たかった。

でも今日は——その冷たさの意味が、わかった気がした。この人の手がいつも冷たいのは、いつも怖れているからかもしれない。何かを失うことを、誰かに見捨てられることを、ずっと怖れて生きてきたから、血が末端まで回らないのかもしれない。

俺の手の温度が、少しずつ移っていった。


夜になった。二人はまだテーブルに向かい合って座っていた。答えは出ていなかった。許しも、別れも、何も決まっていなかった。ただ、テーブルの上に言葉が並んでいた。冷めたコーヒーと一緒に。それだけで、今夜はよかった。それだけで、今夜は十分だった。


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