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透明な壁  作者: はまゆう


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第三回 告知

一 健吾

あの日の空を、今でも覚えている。

十月の、よく晴れた午後だった。病院の窓から見える空が、嘘みたいに青かった。こんな日に、こんな場所で、こんな話を聞くのかと、どこか他人事のように思った。他人事のように思わなければ、その場に座っていられなかったのかもしれない。

乳がん。

医師がその言葉を口にしたとき、俺の頭の中で何かが白く塗り潰された。

ステージⅡ。腫瘍の大きさ。リンパ節への転移の可能性。手術の方針。術後の治療について。医師は淡々と、しかし丁寧に話し続けた。俺はその言葉を聞きながら、メモを取った。取らなければならないと思った。取ることで、冷静でいられた。

麻衣は俺の隣に座っていた。

泣かなかった。

それが、むしろ怖かった。泣いてくれた方が、俺も泣けた。でも麻衣は真っ直ぐ前を向いて、医師の言葉を静かに聞いていた。膝の上で手を固く組んで。その手の甲だけが、少し白くなっていた。

説明が終わった。

医師が「何かご質問は」と言った。

俺はメモを見ながら、いくつか聞いた。手術の時期について。入院期間について。仕事への影響について。

麻衣は一つも聞かなかった。

ただ、俺の隣に座っていた。


病院を出たのは、夕方近くだった。

空はまだ青かった。西の端だけが、うっすらオレンジに染まり始めていた。

俺たちは駅に向かって歩いた。

何も喋らなかった。

歩きながら、俺は麻衣の手を探した。コートのポケットに入っていた手を、そっと引き出して、握った。

麻衣の手は、冷たかった。

結婚を申し込んだあの冬の夜も、麻衣の手は冷たかった。あのときは冬だからだと思った。でも今は十月で、まだそれほど寒くない。

この人の手は、いつも冷たいのかもしれない。

そう思ったら、なぜか泣きそうになった。

知らなかった。三年一緒にいて、知らなかった。この人の手がいつも冷たいことを、俺は知らなかった。

どれだけ多くのことを、俺はこの人について知らないのだろう。


電車の中で、麻衣は窓の外を見ていた。

俺も窓の外を見ていた。

二人とも、同じ方向を向いていた。でも何を見ていたかは、違ったと思う。俺は夜になりかけた街を見ていた。麻衣は——何を見ていたのだろう。

「怖いか」

気づいたら、声に出ていた。

麻衣が少し間を置いて、「うん」と言った。

その「うん」の小ささが、胸に刺さった。いつも堂々としている麻衣が、ニ文字だけで答えた。そのニ文字の中に、麻衣のすべての怖さが詰まっている気がした。

「大丈夫だ」

俺は言った。

根拠はなかった。医師から保証された言葉でもなかった。ただ言わなければならない気がして、言った。

麻衣は何も言わなかった。

俺の手を、少しだけ強く握った。

それだけだった。それだけで、俺は今夜を乗り越えられる気がした。この感覚だけは、嘘ではないと思った。どんな疑念があっても、どんな夜があっても——この人の手が俺の手を握る感覚だけは、本物だと思った。


でもその夜、ベッドに入ってから、俺の頭に浮かんだのは——

河村の顔だった。

最低だと思った。

妻ががんだと告げられた夜に、別の男の顔が浮かぶ自分が、最低だと思った。でも浮かんだ。意志とは無関係に、浮かんだ。

河村は知っているのだろうか。麻衣の病気を。

知って、どうしているのだろうか。

心配しているのか。それとも——もう関係ないと思っているのか。

どちらを想像しても、胸が痛かった。心配されていると思うと嫉妬で痛かった。関係ないと思われていると思うと、麻衣がかわいそうで痛かった。

どこへ行っても痛い場所に、俺は立っていた。

麻衣の寝息が聞こえた。

疲れ切って、眠れたのだろう。

俺はその寝息を聞きながら、自分の最低さを静かに確認した。がんの告知を受けた夜に嫉妬している男が、ここにいる。その男は今夜も、何も言わない。何もできない。ただ横に寝ているだけだ。

それが愛なのか、臆病なのか、あるいはもう愛と臆病の区別がつかなくなっているのか——

答えは出なかった。

出ないまま、夜が明けた。


二 麻衣

告知の朝、私は早く目が覚めた。

健吾はまだ眠っていた。

カーテンの隙間から、朝の光が細く差し込んでいた。その光の中にほこりが舞っているのが見えた。どうでもいいことに、目が行く。大きなことが目の前にあるとき、人間は小さなことを見る。それで正気を保つのだと思う。

乳がん、という言葉は、昨日からずっと胸の中にある。

重くはなかった。

意外なことに、重くなかった。もっと怖いと思っていた。もっと取り乱すと思っていた。でも告知を受けた瞬間、私の中で何かが——静かになった。

ざわざわしていたものが、凪いだ。

それが怖かった。


思い当たることは、あった。

三ヶ月前から、胸に違和感があった。痛みではない。ただ、何かがある、という感触。触れると、確かに硬いものがある。

でも私は病院に行かなかった。

行けなかった、ではない。行かなかった。

忙しかったからではない。怖かったからでもない。

どこかで——どうでもよかったのだと思う。

自分の体が、どうでもよかった。

その感覚に気づいたとき、私は自分がどれほど疲弊していたかを、初めて理解した。生きることに、そんなに力を入れていなかった。それほど、消耗していた。

健吾には言えなかった。

言えるわけがなかった。自分の体をそれほど粗末に扱っていたことの、理由を話さなければならなくなるから。


健吾が手を繋いでくれたのは、病院を出てすぐのことだった。

コートのポケットに入れていた私の手を、そっと引き出して、黙って握った。

冷たいと思っただろう。

私の手はいつも冷たい。血の巡りが悪いのだと、子どもの頃から言われていた。健吾は三年間、私の手を何度も握ってきたのに——今日初めて気づいたような顔をしていた。

なぜだろう、と思った。

いつも気づいていたけれど、言わなかっただけなのか。それとも本当に、今日初めて気づいたのか。

どちらでも、よかった。

あの瞬間、手を握られたことだけが、大事だった。

握られた瞬間に、涙が出そうになった。泣かなかった。泣いたら何かが溢れる。溢れてはいけないものが、私の中にはたくさんある。それは昨日今日の話ではなく、何年もかけて積み上げてきた、私という人間の地層の中にある。

だから泣かなかった。

代わりに、電車の中で「怖い」と言った。

健吾が「怖いか」と聞いてくれたから。聞いてもらえたから、ニ文字だけ答えられた。ニ文字が精一杯だった。


「大丈夫だ」と健吾は言った。

根拠のない言葉だと、わかった。

でも根拠なんて、どうでもよかった。根拠のある言葉より、根拠のない言葉の方が、人を支えることがある。理屈ではなく、声の温度で支える言葉が。

健吾の「大丈夫だ」は、そういう言葉だった。

私はその手を、少しだけ強く握った。

ありがとう、とは言えなかった。言ったら、続きを話したくなる。続きを話せば、終わりが来る。だから黙って、手だけを握った。


その夜、眠れなかった。

疲れていたのに、眠れなかった。

健吾の寝息が聞こえた。眠れたのだと思った。安心した。でも——後から思えば、健吾も眠れていなかったのだと思う。あの呼吸は、眠っている人間の呼吸ではなかった。

二人とも、眠れない夜を、眠っているふりをして過ごした。

またか、と思った。

私たちはいつもこうだ。同じ夜を、別々の場所で過ごしている。同じ部屋にいるのに。同じ布団の中にいるのに。

病気になってから、その孤独が、以前より鮮明になった。

体が弱ると、鎧が薄くなる。鎧が薄くなると、今まで感じないようにしていたものが、皮膚に届くようになる。

孤独が、届いた。


三 健吾

手術は十一月の初めだった。

俺は朝から病院にいた。手術室の前で、麻衣が運ばれていくのを見送った。

手術着に着替えた麻衣は、小さく見えた。

いつもは大きく見える。画面の中でも、部屋の中でも、麻衣はどこにいても存在感がある。でもあの朝の麻衣は、小さかった。ストレッチャーの上で、白い天井を見ながら、小さく横たわっていた。

「行ってきます」

麻衣が言った。

どこかに出かけるような言い方だった。

「行ってらっしゃい」

俺も、どこかに送り出すような言い方で、答えた。

扉が閉まった。

俺は待合室に戻って、椅子に座った。

何もしなかった。

本も読めなかった。スマートフォンも見なかった。ただ座っていた。手術室の方向に向いた壁を、ただ見ていた。

四時間が、やけに長かった。


待っている間、俺はいろんなことを考えた。

考えたくないのに、考えた。

もし——という言葉が、何度も頭に浮かんだ。

もし、うまくいかなかったら。もし、転移が見つかったら。もし——

そこから先は、考えられなかった。

麻衣がいない世界を、想像できなかった。

疑っていても、嫉妬していても、知りたいのに知れなくて苦しくても——麻衣がいない世界は、考えられなかった。それだけはわかった。どれだけ透明な壁が厚くなっていても、その向こうに麻衣がいることが、俺には必要だった。

向こうから触れられなくてもいい。

ただ、いてくれればいい。

そんな哀れな願いを、白い待合室で、俺はずっと胸の中で繰り返していた。


手術は成功した。

執刀医がそう言ったとき、俺は頭を下げながら、目が熱くなった。泣くまいと思った。泣いた。声は出さなかったが、涙が出た。

みっともないと思った。

でも止まらなかった。


麻衣が病室に戻ってきたのは、夕方だった。

麻酔がまだ残っていて、半分眠っていた。

俺が「終わったぞ」と言うと、麻衣はゆっくりと目を開けて、俺を見た。

何も言わなかった。

ただ、見た。

その目が——告知の日より、ずっと柔らかかった。鎧が、剥がれていた。病院のベッドで、点滴の管をつけて、麻酔の残る目で俺を見る麻衣は、今まで見た中で一番、無防備だった。

一番、本物に見えた。


「痛いか」

「少し」

「よく頑張ったな」

麻衣が、かすかに首を振った。

頑張っていない、という意味なのか。それとも別の何かなのか、わからなかった。でも俺はそれ以上聞かなかった。

椅子を引いて、ベッドの横に座った。

麻衣の手を握った。

今日も冷たかった。

でも少しずつ、温かくなった。俺の手の温度が、移っていくように。

それだけでよかった。

今日は、それだけでよかった。

嫉妬も、疑念も、あの画面の断片も——今夜だけは、どこか遠い場所にあった。ここには、俺と麻衣だけがいた。白い病室に、二人だけがいた。

その時間を、俺は大切だと思った。

大切だと思いながら——

それでも頭の片隅に、消えない影があることも、知っていた。


四 麻衣

手術室の天井は、白かった。

また天井だ、と思った。

私の人生の節目には、いつも天井がある。見たくないものがあるとき、私は上を向く。上には何もないから。でもあの手術室の天井は、今まで見た天井の中で一番、清潔だった。嘘がなかった。ただ白いだけの、何もない天井。

麻酔が効いてくる前に、私は考えた。

もし目が覚めなかったら。

怖かった。怖かったが——同時に、どこかで、楽になれるかもしれないとも思った。

その思考に気づいた瞬間、私は自分を叱った。

健吾がいる。

それだけで十分だった。健吾が待合室にいる。あの不器用な手で、壁を見ながら待っている。その光景が目に浮かんだ。根拠はなかった。でも確信があった。健吾は絶対に、そこにいる。

だから目を覚まさなければならない。

それだけを思いながら、意識が遠くなった。


目が覚めたとき、最初に見えたのは天井だった。

白い天井。手術室とは違う、病室の天井。

次に見えたのは、健吾だった。

ベッドの横に立って、俺を見ていた。目が赤かった。泣いたのだと、わかった。

健吾が泣いた。

私のために、泣いた。

その事実が——何年もかけて積み重なった罪悪感の地層を、一瞬だけ揺らした。崩れはしなかった。でも揺れた。

「終わったぞ」

健吾が言った。

私は何も言えなかった。言葉が、体の奥のどこかに沈んでいて、引き上げられなかった。ただ健吾を見た。

この人は、私のために泣いた。

私のすべてを知らないのに。透明な壁の向こうから、私の本当の姿を見ていないのに。それでも泣いた。


「よく頑張ったな」と健吾は言った。

私は首を振った。

頑張っていない。

手術台に寝ていただけだ。体を切られて、縫われて、眠っていただけだ。それのどこが頑張りなのか。頑張ってきたのは健吾の方だと思った。何も知らないまま、知らないふりをしたまま、それでも傍にいてくれたことが——頑張りというなら、それだ。

手を握られた。

冷たいと思っただろう、また。

でも今日は、すぐに温かくなった。健吾の温度が、移ってきた。

私はその温度を感じながら、目を閉じた。

眠ったわけではない。ただ、目を閉じた。

健吾の手の温度を、全部受け取るために。体の中に、仕舞い込むために。この温度だけは、どこにも仕舞えない場所に取っておきたかった。

取っておいて——いつか、ちゃんと返したかった。

返せる日が、来るだろうか。

来てほしかった。

来るかどうかわからないまま、私はその温度の中に、静かに沈んでいった。


五 健吾

抗がん剤が始まったのは、手術から一ヶ月後だった。

麻衣の髪が抜け始めたのは、そのさらに一ヶ月後だった。

排水口に、枕に、麻衣の触れた場所に、黒い髪が残った。

俺はそれをそっと拾い集めた。

捨てながら、泣きそうになるのを堪えた。毎回堪えた。麻衣の前では泣けなかった。泣いたら、麻衣が気を遣う。この人は体がしんどいときほど、相手の顔色を読む。だから俺は麻衣の前では明るくしていた。

麻衣がいない場所で、こっそり息を吐いた。


ある夜、麻衣が鏡の前に立っていた。

ウィッグをはずした姿で、自分の顔を見ていた。

俺は廊下から、それを見た。

見てはいけない気がしたが、目が離せなかった。

化粧もない、ウィッグもない、薬で荒れた肌の、薄い眉の、それが麻衣だった。スクリーンの中の麻衣でも、河村の前に立つ麻衣でも、俺に笑いかける麻衣でもない。全部が剥がれ落ちた、ただの麻衣が、そこにいた。

美しかった。

醜くなかった。

ただひどく疲れていて、それでも鏡を見ることをやめない、その横顔が——俺には美しかった。


麻衣が鏡から目を逸らして、ウィッグを被り直した。

俺は廊下から離れて、キッチンに戻った。

スープを温め直した。

麻衣がリビングに来て、椅子に座った。

「ウィッグ、似合うかな」

笑いながら言った。

「似合う」

俺は答えた。

嘘ではなかった。似合っていた。でも——さっき廊下から見た顔の方が、俺は好きだった。そちらの方が、本物だと思った。

その言葉は、言わなかった。

言えばよかったのか、言わなくてよかったのか、今でもわからない。

スープを麻衣の前に置いた。

麻衣が一口飲んで「おいしい」と言った。

俺は頷いた。

窓の外に、冬の夜が広がっていた。

二人の間に、静かな時間が流れた。嫉妬も、疑念も、告白も、何もない時間が。

その時間の中で、俺はひとつだけ確かなことを思った。

この人が死ななくてよかった。

それだけだった。

それだけが、今夜の全てだった。


病気は人間から、余分なものを剥ぎ取る。強がりも、鎧も、言えなかった言葉も、言わなくてよかった嘘も。剥ぎ取られた場所は痛い。でも剥ぎ取られて初めて見えるものが、ある。健吾には麻衣の本当の顔が見えた。麻衣には健吾の涙が見えた。透明な壁は、まだそこにあった。でもその夜だけは、壁を通して、お互いの輪郭が、少しだけはっきり見えた気がした。




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