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透明な壁  作者: はまゆう


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第二回 シャンプーの香り

一 健吾

人間の嗅覚というのは、残酷だ。

目は騙せる。耳も騙せる。でも鼻だけは、理屈より先に答えを出す。脳が「違う」と言う前に、体が知ってしまう。

あれは結婚して一年と少し経った、十一月の夜だった。

麻衣が深夜二時に帰ってきた。玄関のドアが開く音で俺は目が覚めた。リビングの時計を確認して、また目を閉じた。撮影が長引いたのだろうと思った。思おうとした。

麻衣がシャワーを浴びる音がした。

その音を聞きながら、俺はもう一度眠ろうとした。眠れなかった。なぜ眠れないのか、そのときはわからなかった。ただ、体が妙に覚醒していた。

麻衣がベッドに入ってきた。

「起こした?」

「いや」

「ごめん、遅くなって」

「撮影?」

「うん」

それだけだった。

麻衣はすぐに眠った。俺は眠れなかった。

暗い天井を見ながら、しばらくして気づいた。

香りが、違う。


うちのシャンプーはラベンダーの香りだ。

麻衣が選んだやつで、少し甘くて、でも重くない、落ち着いた香り。二人で使っている。だから麻衣がシャワーを浴びて隣に来ると、いつもその香りがする。

でもその夜は、違った。

何の香りかはわからない。ラベンダーではない。もっと人工的な、ホテルのアメニティのような——

考えるな、と思った。

考えれば考えるほど、鮮明になる。だから考えるなと、俺は自分に言い聞かせた。でも眠れない夜に人間の思考を止める方法など、存在しない。

香りは鼻の奥に残り続けた。

麻衣の寝息が聞こえた。

俺はその寝息を聞きながら、夜明けまで天井を見ていた。


翌朝、麻衣は俺の作った卵焼きを食べた。

「甘くておいしい」

いつもと同じ言葉だった。いつもと同じ声だった。いつもと同じ朝だった。

俺は「よかった」と言って、コーヒーを注いだ。

何も聞かなかった。

聞けなかった、ではない。聞かなかった。その違いを、俺は今でも引きずっている。あのとき聞いていたら、何かが変わっていたのか。あるいは何かが壊れていたのか。どちらにしても、俺は聞かないことを選んだ。

自分の意志で、選んだ。

その選択の重さを、そのときはまだ知らなかった。


二 麻衣

あの夜のことは、今も覚えている。

撮影ではなかった。

山瀬との、最初の夜だった。

山瀬遼介。同じドラマの共演者。二十八歳。私より三つ下。健吾より五つ若い。整った顔をしていて、芝居が上手くて、現場では誰にでも愛想よく、でも私にだけ少し違う目を向けてくることに、気づいていた。気づいていて、見ないふりをしていた。

見ないふりができなくなったのは——正直に言えば、私が先に崩れたからだと思う。

あの頃、健吾との間に、薄い膜のようなものを感じ始めていた。健吾は優しかった。変わらず優しかった。でもその優しさが、どこか遠かった。私が本当の意味で疲れているとき、健吾には言えなかった。言えば、なぜ疲れているかを話さなければならない。話せば、何もかもが崩れる。

だから私は元気なふりをした。

元気なふりをするのが、また疲れた。


山瀬は、私に何も聞かなかった。

仕事の愚痴を言えば、笑って聞いた。疲れたと言えば、「俺も」と言った。それだけだった。深く踏み込んでこなかった。抱えているものを暴こうとしなかった。

その軽さが、あのとき心地よかった。

心地よい、と感じた瞬間に、私はもう止まれなかった。


ホテルの部屋で、私は天井を見ていた。

また天井だ、と思った。

私はいつも天井を見ている。部屋が変わっても、状況が変わっても、私は天井を見ている。そのとき気づいた。私が天井を見るのは、目の前の現実から目を逸らすためだと。下を向けば自分の体が見える。横を向けば相手の顔が見える。だから上を向く。上には何もないから。

シャワーを浴びながら、私はいつもより丁寧に体を洗った。

アメニティのシャンプーで、髪を洗った。

帰りのタクシーの中で、健吾に「今から帰る」とLINEを送った。既読がついた。返信はなかった。眠っているのだろうと思った。

玄関を開けたとき、部屋は暗かった。

健吾はベッドにいた。

「起こした?」と聞いたら、「いや」と言った。

その「いや」の声が、いつもより少し低かった。でも私は聞かなかった。聞けば、何かが始まる。だから聞かなかった。

布団に入って、目を閉じた。

眠れなかった。

健吾の気配が、いつもと少し違った。呼吸が、浅かった。

眠っていない、と思った。

でも私は、そのまま眠ったふりを続けた。

二人で、眠ったふりをしながら、夜を過ごした。

その事実が、翌朝の卵焼きよりずっと長く、私の中に残っている。


三 健吾

あの夜から、俺の中に「見張る自分」が生まれた。

見張る、というと物騒に聞こえる。でも実態はもっと情けないものだ。麻衣の帰りが遅いとき、さりげなく香りを確認する。ラベンダーなら安堵する。違う香りなら——何も言わず、眠ったふりをする。

そんなことを、俺はいつの間にか習慣にしていた。

情けなかった。

自分でも情けないと思っていた。でもやめられなかった。やめるためには、問い質すか、信じるかのどちらかが必要だ。問い質す勇気はなかった。完全に信じることも、もうできなかった。だから俺は中途半端な場所に立ち続けた。

疑いながら愛する。

愛しながら疑う。

その二つが、俺の中で静かに共存していた。


忘年会の夜のことは、別格だった。

麻衣の事務所が開いたパーティー。配偶者も招待される年に一度の夜。俺は少し場違いな気分でスーツを着て、麻衣の隣に立っていた。

会場は六本木の高層階だった。

東京の夜景が、窓一面に広がっていた。綺麗だと思った。でも綺麗だと思う余裕は、長続きしなかった。

麻衣が、俺とは別のテーブルに座った。

業界の慣習として自然なことだった。俺も別のテーブルに案内された。隣に座った制作会社の男と、当たり障りのない話をした。何を話したか、今では覚えていない。

俺の視線は、ずっと麻衣のテーブルにあった。


河村が近づいてきたのは、パーティーが始まって一時間ほど経った頃だった。

五十代。腹が出ている。頭が薄い。でも立ち姿に妙な自信があった。業界で長く生きてきた人間特有の、場の空気を支配することに慣れた自信が。

河村は麻衣の隣に立って、耳元で何かを言った。

麻衣が笑った。

首を少し傾けて、目の端を柔らかく細めて——

俺だけに向ける笑い方で、笑った。

胃の底に、重いものが落ちた。音がしそうなほど、重いものが。

俺はグラスを持ったまま、立ち上がれなかった。立ち上がって何をするつもりだったのかも、わからない。ただ、体が固まった。

グラスのワインを、一口飲んだ。

味がしなかった。


帰りのタクシーの中で、麻衣は俺の肩に頭をもたせかけた。

「疲れた」

「そうか」

「健吾の隣、ほっとする」

その言葉が、俺をさらに苦しくした。

ほっとする。

それは本当のことだと思う。麻衣が嘘をついているとは思えなかった。でも——ほっとする、という言葉は、他の場所では緊張しているということでもある。他の場所で何をしているのか。誰といるのか。

タクシーの窓に、夜の街が流れた。

麻衣の重みを肩に感じながら、俺は窓の外を見続けた。何も見えていなかった。


四 麻衣

河村さんに何を言われたか、覚えている。

「今夜どう?」

それだけだった。

私は笑って首を振った。「主人がいますので」と、目で伝えた。河村さんは「そうか」と言って、また別の人間のところへ行った。

それだけのやり取りだった。

でも健吾がどこかから見ていたことは、感じていた。

感じていて——何もしなかった。

その「何もしなかった」が、今の私には重い。あのとき健吾の元に戻って、腕を組んで、「私はあなたのものです」と体で示すことが、私にはできた。でもしなかった。なぜしなかったのか。

怖かったのだと思う。

そういう素直な行動を取れる人間に、私はもうなれない気がしていた。素直に動けば、素直さが嘘になる。私の素直さには、すでに裏側があるから。裏側のある素直さは、素直さではない。

だから私は何もしなかった。

タクシーで健吾の肩に頭をもたせかけながら、私は目を閉じた。

健吾の体温が、コートの上からでも伝わってきた。

この温度を知っている。この肩の形を知っている。この人のそばが、私には一番安全な場所だ。それは嘘ではない。嘘ではないから、余計に——

私はなにをしているんだろう。

その思考を、私はすぐに仕舞い込んだ。

仕舞い込むことに、慣れすぎていた。


五 健吾

あの忘年会の夜から、俺は変わった。

変わった、というより——見え方が変わった。

同じ部屋にいる麻衣が、同じに見えなくなった。笑顔が同じでも、声が同じでも、その後ろに何かがある気がした。後ろを見ようとすれば、麻衣は笑顔でそちらを塞ぐ。塞がれるたびに、俺は余計に見たくなる。

見たくて、でも見てはいけない気がして——

その繰り返しの中で、一年が過ぎた。


スマートフォンの画面を、見てしまったのは、その一年が終わりかけた頃だった。

意図していなかった。

充電器を探して、テーブルの上に置いてあった麻衣のスマートフォンに触れた。その瞬間、画面が光った。

通知だった。

差出人の名前と、メッセージの冒頭が、画面に浮かんだ。

五秒も見ていなかったと思う。

でも五秒で十分だった。

人間の脳は残酷だ。見たくないものほど、鮮明に焼きつく。俺はスマートフォンを伏せて、充電器を差し込んで、ベッドに戻った。

麻衣は眠っていた。

穏やかな顔をしていた。

その顔を見ながら、俺は思った。

この人は、俺の知らない時間を持っている。俺の知らない部屋にいたことがある。俺の知らない声を、出したことがある。

それが——

この、俺の隣で眠っている人間と、同じ人間だ。


不思議なことに、泣けなかった。

怒鳴りたいとも思わなかった。

ただ、静かだった。

嵐の前の静けさではなく——嵐が来ないとわかっている静けさだった。俺はこの夜も、何もしない。何も言わない。それだけはわかっていた。

なぜなら——

この人がいなくなることの方が、俺には耐えられないから。

その一点だけが、俺をこの場所に縫い留めていた。釘のように。抜けば痛い、でも刺さったままでも痛い、そういう釘が、俺の胸のどこかに深く刺さっていた。


六 麻衣

健吾が充電器を探していた夜のことを、私は覚えている。

スマートフォンに触れた気配がした。

画面が光ったのも、わかった。

私は眠ったふりをしながら、息を止めた。

どうか、見ないでほしい。どうか、見てしまったとしても、何も言わないでほしい。そんな矛盾した祈りを、暗い部屋の中で、胸の内側にだけ向けた。

健吾が布団に戻ってきた。

私のすぐ隣で、横になった。

眠らなかった。健吾が眠れていないことが、気配でわかった。呼吸が、浅すぎた。

ごめんなさい、と思った。

声には出せなかった。出したら、すべてが始まる。始まれば、終わりが来る。終わりが来ることが、怖かった。

健吾を失うことが、怖かった。

失いたくないから、黙っている。黙り続けることで、失わずにいられると思っていた。

それが——どれほど健吾を傷つけているか。

傷つけていることは、わかっていた。

わかっていて、黙っていた。

人間は、自分を守るとき、一番醜くなる。私はあの夜、自分の醜さを、暗い部屋の天井に向けて、静かに晒していた。


二人は同じ布団の中で、眠れない夜を過ごした。どちらも知っていた。どちらも黙っていた。透明な壁は、その夜、また少し厚くなった。触れても温度のない壁が。音もなく、ひびも入らず、ただ確かに、二人の間で育ち続ける壁が。


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