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透明な壁  作者: はまゆう


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第一回 知っている、知らないふりをしている

一 健吾

テレビをつけたまま、眠れない夜がある。

眠れないというより、消す気になれない、と言う方が正確かもしれない。画面の中に麻衣がいるからだ。深夜の再放送ドラマ。三年前に撮ったやつだ。まだ俺たちが結婚する前の、麻衣がちょうど世に出始めた頃の作品。

画面の中の麻衣は笑っている。

俺の知っている笑い方で、笑っている。

首を少し傾けて、目の端を柔らかく細めて、相手の言葉を受け取るように微笑む。あれは麻衣が人を好きなときにする笑い方だ。俺はそれを、結婚してから知った。知ってしまったから、画面の中でその笑い方をするたびに、胸の奥に小さな棘が刺さる。

共演者の男が、麻衣の肩に手を置いた。

ドラマの演出だ。わかっている。

わかっていても、俺はリモコンを手に取れなかった。チャンネルを変えることも、消すことも、できなかった。見続けることしか、できなかった。

これが愛なのか、それとも愛が腐りかけたものなのか、俺にはもうわからない。ただ、目が離せなかった。


麻衣と出会ったのは、五年前の秋だった。

俺は当時、広告制作の現場で美術スタッフとして働いていた。華やかな業界のように聞こえるが、実態は地味だ。セットを組んで、小道具を並べて、監督の気が変わるたびに全部やり直す。体力仕事だった。

その日の撮影は、化粧品のCMだった。

モデルが二人、女優が一人。その女優が麻衣だった。

最初に気づいたのは、声だった。顔ではなく、声。控え室から現場に入ってきたとき、マネージャーに何か話しかけていた声が、妙に耳に残った。低すぎず、高すぎず、どこか水の流れるような声だった。

顔を見て、綺麗だと思った。

でもそれより先に感じたのは、この人は疲れている、ということだった。

プロだから表情には出ていない。所作も美しい。でも目の奥に、何か重いものを仕舞い込んでいる気配があった。荷物を抱えたまま笑っている人間の目を、俺は知っていた。母がそういう目をしていたから。

だから麻衣の目が、妙に気になった。


撮影の合間に、小道具のトレイを運んでいたら、廊下で麻衣と二人になった。

スタッフと女優が廊下で二人きりになる、というのは業界では珍しくない。ただ互いに会釈して通り過ぎるだけの、何でもない時間だ。

でも麻衣は足を止めた。

「それ、重そうですね」

トレイのことを言っていた。

俺は少し驚いて、「慣れてるんで」と答えた。

麻衣は「そうか」と言って、でもすぐには歩き出さなかった。

「この現場、いつも和やかですね」

「そうですか」

「なんか、ほっとする」

そう言って、麻衣は小さく笑った。

首を傾けない笑い方だった。口元だけで、ひっそりと笑う顔だった。あとになって思えば、あれが麻衣の素の笑い方だった。カメラの前でも、誰かの前でもない、ただの麻衣が笑う顔。

俺はその笑顔を、現場が終わってからも、しばらく思い出していた。


三回目に同じ現場になったとき、麻衣の方から声をかけてきた。

「また来た」

「また来ました」

それだけだった。でもその「また来た」の言い方が、どこか嬉しそうで、俺も嬉しかった。

業界の人間は、現場ごとに顔を変える印象があった。カメラの前と後ろで別人になる。でも麻衣は、俺に向ける顔がいつも同じだった。女優の顔ではなく、廊下で足を止めた女の顔。荷物を抱えたままの、疲れた目をした女の顔。

それが好きだった。

派手ではなかった。華やかでもなかった。でも、本物だと思った。

恋に落ちたというより——この人の本物の部分に、触れたかったのだと思う。今にして思えば、それが始まりだった。そして今の苦しさの、始まりでもあった。


二 麻衣

健吾が眠ってから、私はいつもしばらく天井を見ている。

暗い天井だ。何もない。でも目を閉じると、いろんなものが浮かんでくるから、目を開けたまま天井を見ている。健吾の寝息が聞こえる。規則正しい、穏やかな呼吸。この人はいつも、こんなふうに眠る。迷いがないような、子どものような呼吸で。

その音が、好きだ。

好きだからこそ、聞いていると苦しくなる。


私が芸能界に入ったのは、十九の春だった。

地方の短大を辞めて、上京した。田舎の家に居場所がなかった。正確に言えば、居場所はあったのかもしれないけれど、そこに収まる自分が想像できなかった。このままここにいたら、私は少しずつ小さくなって、最後には消えてしまう気がした。

根拠のない焦燥だったかもしれない。十九歳の思い上がりだったかもしれない。

でも私は上京した。

事務所のオーディションに受かったのは、半分偶然だった。友人に誘われて、深く考えずに応募して、気づいたら通っていた。審査員の一人が、「目が面白い」と言った。面白い、という言葉の意味が今でもよくわからないが、その言葉が私を東京に繋ぎ止めた。

最初の二年間は、何者でもなかった。

雑誌の端のページに載る仕事。小さなCMの、映らないかもしれないシーン。舞台の端役。それでも仕事があるだけマシだと、先輩の女優が言った。先輩は笑いながら言った。その笑いの中に、言えないことがたくさん含まれているのを、私はなんとなく感じていた。でも、まだ何も知らなかった。


河村さんと最初に食事に行ったのは、入所して二年目の冬だった。

大手広告代理店の局長。五十代。業界では知らない人間がいないほどの実力者だと、事務所の社長が言った。社長は「大切にしなさい」とだけ言った。大切にする、の意味を、そのときの私はまだ正確には理解していなかった。

六本木の日本料理店だった。

個室だった。

河村さんは終始穏やかだった。仕事の話をした。私の将来性について話した。「君は面白い目をしている」と言った。あの審査員と同じ言葉だ、と思った。面白い、という言葉で人は私を括ろうとする。

食事が終わって、タクシーを呼ぶと言われた。

そのタクシーが、私が思っていた方向には走らなかった。

私は何も言えなかった。言える言葉を、持っていなかった。あのとき断れたかどうかを、今でも時々考える。考えるたびに、わからない、という答えが出る。怖かったから断れなかったのか。断るという概念が存在しなかったのか。それとも——どこかで、これが代償だと、最初から知っていたのか。

どれが本当かわからない。

全部が少しずつ本当かもしれない。


その夜のことは、今でも時々夢に出る。

夢の中でも私は黙っている。声が出ない。部屋の天井だけを見ている。夢だからわかるのだが、あの天井の染みを、私はまだ覚えている。どうでもいいことだけ、妙に鮮明に記憶に残る。

翌朝、何事もなかったように撮影現場に行った。

メイクさんが「今日は肌の調子がいいですね」と言った。

私は「そうですか」と答えた。

鏡の中の自分を見ながら、私は何も感じないようにした。感じないことを、覚えた。それは思ったより簡単だった。その簡単さが、後になって怖かった。


三 健吾

麻衣と付き合い始めたのは、出会って八ヶ月後だった。

俺から告白した。麻衣は少し驚いた顔をして、それから「私でいいの」と言った。

いいの、ではなく、でいいの、だった。

その「で」の一文字が、今になって意味を帯びてくる。あのとき俺はその言葉を、謙遜だと思った。人気が出始めた女優が、平凡な美術スタッフに照れている、そう思った。

でも本当は——

麻衣はあのとき、すでに自分が汚れていると思っていたのではないか。

俺みたいな人間には、すでにふさわしくないと、どこかで思っていたのではないか。

そう気づいたのは、ずっと後のことだ。気づいてしまってから、あの「で」の一文字が頭から離れなくなった。言葉というのは残酷だ。発した人間がとっくに忘れても、聞いた人間の中で育ち続ける。


付き合っていた頃の麻衣は、仕事の話をあまりしなかった。

俺も聞かなかった。聞かない方がいいと、なんとなく思っていた。業界の論理が、俺には見えていなかった。見えていたとしても、目を逸らしていたかもしれない。

麻衣が俺のアパートに来る夜は、決まって静かだった。

外食して、帰って、他愛ない話をして、眠る。それだけだった。でも俺には十分だった。あの目をした女が、俺の部屋で眠ることが、信じられないほど嬉しかった。

荷物を抱えたまま笑う目が、俺の隣でだけは、少し軽くなる気がした。

それが俺の思い上がりだったのか、本当のことだったのか、今となってはわからない。でも思い上がりだったとしても、俺はあの夜々を後悔していない。後悔できない。あの頃の記憶だけが、今の俺を辛うじて立たせている。


結婚を申し込んだのは、付き合って一年半後だった。

麻衣はまた「私でいいの」と言った。

今度は笑いながら言った。だから俺は気づかなかった。その言葉の底に沈んでいるものに、気づかなかった。

「お前じゃなきゃだめだ」

そう言って、俺は麻衣の手を取った。

麻衣の手は、冷たかった。

あのときはただ、冬だからだと思っていた。


四 麻衣

健吾に「私でいいの」と聞いたとき、本当は答えを怖れていた。

いい、と言われたら——どうする。

断る理由が、見つからなかった。健吾は優しかった。私を商品として見なかった。私が疲れているとき、疲れていると気づいてくれた。言葉にしなくても、そっとしておいてくれた。それがどれほど稀なことか、私はあの頃すでに知っていた。

だから「いい」と言われたとき、私は嬉しかった。

嬉しかったと同時に——怖かった。

この人を、傷つけるかもしれない。

いや、正確には——この人を、すでに傷つけているかもしれない。まだ何も始まっていないのに、出会った瞬間から、私はすでにこの人にとってふさわしくない人間だったかもしれない。

でも、断れなかった。

健吾のそばにいると、私は私でいられた。女優でも、誰かの所有物でもなく、ただの、疲れた二十代の女でいられた。それを手放すことが、できなかった。

自分のための選択だったと、今は思う。

健吾のためではなく、私のために、私は結婚した。

その罪悪感が今も、肋骨の裏側あたりにある。押せば痛い場所に、ずっとある。


結婚してから、やめようとした。

本当に、やめようとした。これ以上続けることに意味がないと思った。健吾という人間が隣にいるなら、あの世界の論理に従い続ける必要はないと思った。

でも——

やめる、ということの意味を、私は甘く見ていた。

あの世界は、人間関係で動いている。仕事は信頼で来る。信頼は義理で成り立つ。義理を欠けば仕事が消える。仕事が消えれば事務所が困る。事務所が困れば社長の顔が曇る。社長の顔が曇れば、次の仕事の話が来なくなる。

糸を一本切ろうとすると、別の糸が引っ張られる。

引っ張られた糸の先に、また別の顔がある。

私は結局、糸を切れなかった。切り方を、知らなかった。知っていたとしても、切る勇気があったかどうか。

健吾には言えなかった。

言えるわけがなかった。この人の隣で、私は正しい人間でいたかった。ただそれだけのために、私は黙り続けた。黙ることで健吾を守っているつもりだった。

今思えば——守っていたのは、私自身だったかもしれない。


五 健吾

今夜の麻衣は、十二時を過ぎても帰ってこない。

打ち合わせ、と言っていた。プロデューサーと、夕方から。

俺はソファで本を読んでいる。読んでいるふりをしている。活字が目に入らない。同じ行を何度も読んでいる。読んでいることにしている。

時計を見ないようにしている。

見ると、時間が遅くなっているから。


帰宅した麻衣は、「ただいま」と言いながらコートを脱いだ。

俺は「おかえり」と言った。

「遅かったな」

「うん、長引いちゃって」

それだけだった。

麻衣はシャワーを浴びに行った。

俺はまた本に目を落とした。

シャワーの音がした。

水の音を聞きながら、俺は考えないようにした。考えてはいけないことがある。そこに踏み込んだら、戻ってこられない気がする。だから俺は今夜も、踏み込まないことを選ぶ。

愛しているから、踏み込まない。

そう自分に言い聞かせる。

愛しているから、なのか。

怖いから、なのか。

どちらが本当かは、今夜も、わからない。


麻衣がシャワーから出てきた。

髪を乾かして、隣に座って、俺の肩に頭をもたせかけた。

「眠い」

「早く寝ろ」

「うん」

その重みが、温かかった。

シャンプーの香りがした。

うちのシャンプーと——同じ香りだった。

今夜は、同じ香りだった。

それが俺を安堵させた。安堵しながら、安堵していることが情けなかった。こんなことで安心している自分が、みっともなかった。

でも、安堵した。

麻衣の重みを肩に感じながら、俺はテレビの電源を落とした。

暗くなった画面に、二人分の輪郭が映った。

並んで座っている、俺たちの形が。

それだけを見ていた。

その形だけは、本物だと思いたかった。


透明な壁は、触れてもわからない。温度もない。音もしない。ただ確かにそこにあって、二人の間で、少しずつ、厚くなっていく。


第一回 了


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