第五話「魔界武闘会、開府」
魔界の空は凝固した血のような紅に染まり、数万の魔族が放つ咆哮が、闘技場の石造りの土台を内側から揺らしていた。
第六百六十六回、魔界武闘会。 控え室の静寂の中で、私は己の魔剣を磨いていた。本来、名誉などという空虚な言葉に興味はない。だが、私の膝の上で一生懸命に籠手をこする、小さな温もりは別だ。
「おじちゃん、これ、ピカピカにしたら勝てるの?」 「……フン。貴様の磨いた鎧を汚す奴など、この世にはおらん」
私はネルの頭を撫でた。この大会の目的は一つ。ネルを「排除すべき異物」とみなす保守派の貴族どもを、その根性ごと叩き潰すことにある。
ゲートが跳ね上がると同時に、鼓膜を抉るような大歓声が雪崩れ込んできた。 対戦相手は「虐殺公」と呼ばれる巨鬼ボルガ。山のような体躯、その手には数多の騎士を肉片に変えてきた巨大な棘付き鉄球が握られている。
「おい、ザルガス! 人間に毒され、角にリボンなど結んでいる腑抜けが!」
ボルガの嘲笑とともに、数トンの鉄塊が風を切り裂き、私の脳門目がけて振り下ろされた。
――轟音。 闘技場の床が砕け、噴き上がった石礫が観客席まで飛散する。観衆は、私が一撃で肉塊に変わったと確信し、残酷な歓喜に沸いた。
だが、土煙の中から現れたのは、片手でその鉄球を受け止めた私の姿だった。
「……何だと!?」
私の指先が、鋼鉄の球体をひしゃげさせる。ネルを拾ってから、私の魔力は「変質」していた。かつての禍々しい破壊衝動ではない。澱みが消え、極限まで圧縮された「守護の刃」としての魔力。
「おじいちゃん、すごい! がんばれーっ!」
喧騒を突き抜け、その一点だけが透き通るように響いた。 その瞬間、私の背中から、今まで見たこともない漆黒の翼が爆発的に展開された。それは怒りによるものではない。一滴の慈愛が、私の魔族としての根源を、真の「王の力」へと昇華させたのだ。
私は地を蹴った。 「速い」ではない。空間が「消失」したかのような一撃。 剣を抜くことさえせず、ただの正拳がボルガの胸板を貫く。衝撃波が闘技場全体を駆け抜け、巨鬼の巨体が数百メートル後方の壁まで吹き飛び、めり込んだ。
静寂。 数万の魔族が、息をすることさえ忘れて硬直した。
私はゆっくりと翼を翻し、最上段にいるネルを見上げた。そして、震え上がる貴族席を冷たく見据え、魔王城の隅々まで届くような威圧の声を放った。
「聞け、臆病者ども。この娘を『弱点』だと思ったか? ……逆だ。彼女こそが私の『力』の源。異を唱える者がいるならば、今すぐその首を差し出せ。一人残らず、消してやる」
その言葉は、もはや一騎士の宣言ではなかった。 魔界の理を塗り替える、新たな王者の咆哮。ネルが「かっこいい!」と無邪気に跳ねる姿を背に、私は戦場よりも熱い、奇妙な高揚感の中にいた。
第五話あとがき
あのね、きょうは「ぶとーかい」っていうのを見に行ったんだよ!
おじちゃん、すっごくかっこよかったの! 悪い鬼さんが出てきて「ガオー!」って言ったんだけど、おじちゃんが「えいっ」てしたら、すぐに静かになっちゃった。
おじちゃん、背中から大きくて黒い羽が出てたんだよ。 ネルね、あれに乗ってお空を飛びたいなって思ったの。
最後におじちゃんが、ネルのことを見て「たましい」って言ってくれたんだ。 それって、宝物ってことかな?
おじちゃん、ネルのこと守ってくれてありがとう。 ネルも、おじちゃんの角、もっとピカピカにしてあげるね!




